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人生の3段階
現代に生きるわれわれの人生は、概して3段階から成っている。第一段階は、この世に生まれてしばらく過ごすフォーマルな「教育の時代」だ。義務教育を終えてから高校、大学、さらに大学院まで行く人もいる。第二の段階は「仕事の時代」となる。仕事の内容は、当然人によって異なる。時間的には最も長い。個人差があるが40年前後だろうか。そして、第三の段階は「引退・趣味の時代」だ。それまで働き続け、疲れた心身を癒し、自分の時間を楽しむ時だ。Third Wave「第3の波」の時期という表現もある。
「ハッピー・リタイアメント」という言葉があるように、西欧社会では、多くの人がこの時が来るのを楽しみにしている。人生の醍醐味は、この時期にあると考える人々も多い。仕事や育児などに忙殺され、失われていた自分の時間を回復できる貴重な時だ。50歳台で退職する人も多い。
ところが、近年様相が変わってきた。多くの国で長寿化と年金財政の負担増で、年金支給年齢が引き上げられ、対応して退職の年齢も高まりそうだ。退職しても公的年金など資金的裏付けがなければ、第三の段階も人間らしく生きられないからだ。
年金は長寿のご褒美
歴史的には、ビスマルクが1989年、70歳以上の国民に年金導入をした時、プロシア国民の平均寿命は45歳だった。年金は長生きをしたご褒美のようなものであった。状況はイギリスでも同じだった。1908年、ロイド・ジョージがイギリスの70歳になった貧困者に週5シリングを与えることにした時、貧困者で50歳まで生きられた者は幸運に恵まれた稀な存在だった。そして1935年、アメリカが社会保障システムを導入した時、公的な年金支給年齢は65歳だった。当時のアメリカ人の平均的な死亡年齢は62歳だった。年金財政は安定し、国家はなにも心配する必要がなかった。
今日、OECD諸国では私的年金は別として、GDPの7%以上を公的年金が占めている。2050年にはこの比率は倍増するとみられる。国家財政にとって年金などの社会保障費用は、きわめて大きな負担となっている。高齢化の進行は労働力不足を生み、そのためにも経験のある高齢者に働いてもらうという動きも進行している。すでに日本のように60歳代後半、時に70代初めまで働いている国もある。団塊の世代の大量退職問題も、憂慮されたほどの大問題とはならなかった。引退したいと思う年齢は、国民性、職業などでかなりの個人差がある。アメリカでも40歳台、50歳台で退職することを楽しみにしていた時期があった。しかし、今では60歳代初めへと移ってきた。
死ぬまで働くしかない時代?
かつて多くの国で、第二の段階、「仕事の時代」を終えると、人々に残された年数はほとんどなかった。多くの人が死ぬまで働いていた。長寿化によってやっと与えられた黄金の「第三の段階」だが、その基盤は大きく揺れている。 待ちに待った引退の時代を楽しみたいという人々にとっては、年金支給年齢が引き上げられたり、定年年齢が引き上げられたりすれば、期待を裏切る展開となる。「第三段階」への移行の仕組みをいかに設計するかは、きわめて重要な意味を持つ。アメリカのように民間部門の強制定年制を年齢による差別として禁止した国もある。他方、段階的引退の仕組みに期待する国もある。デンマークのように年金支給年齢と平均寿命をインデックス化してしまった国もある。
国民の平均寿命が長くなったとはいえ、個人の寿命は神のみぞ知る。定年という暦の上の年齢で強制的に労働力から排除する仕組みは、年齢による差別の視点を待つまでもなく、最善の選択ではありえない。自らの意志で人生を選択する自由度をどれだけ回復、維持できるか。限りある人生の時間、いかに生きるか。根源的な課題が戻ってきた。
Referece
‘The end of retirement.’ The Economist June 27th 2009