日本人にフェルメール好きが多いことは、改めていうまでもない。個人的には、最近の相次ぐ客寄せ「フェルメール展」に食傷気味である。高額の貸出料が見込める海外所蔵家やディーラーは、ほくほくだろう。何しろ、日本にはフェルメールは1枚もないのだから。17世紀美術には、他に多数の名品があるのにと思わないでもない。
それはともかく、フェルメール作品を収集した人物については、ほとんど知られていない。フェルメールの作品は、今日ではヨーロッパとアメリカにほぼ二分したように分布し、所蔵されている。その中で、ニューヨークにある8点のうち、「兵士と笑う女」、「女と召使」、「稽古の中断」など3点は、「フリック・コレクション」が所蔵している。しかし、このコレクションの所蔵する作品はすべて、その収集家であったヘンリー・クレイ・フリック Henry Clay Frick(1849-1919)の遺言によって、館外に貸し出しが禁止されている。
したがって、フェルメール・フリークは全作品を見たいと思ったら、どうしてもニューヨークへ行き、この「フリック・コレクション」(旧フリック邸を美術館に改装)を訪れねばならない。フェルメールは関心はあるが、とりたててフリークではないので、全点を真作で見たいとも思わない。幸い実際には、ほとんどの作品を各地で見ることが出来た。
フェルメール・フリークではないこともあって、例の野口英世がニューヨーク時代に、フリック邸でフェルメール作品を見たかもしれないといった仮説は、それ自体なにも知的好奇心を引き起こさない。
それよりもはるかに知りたいのは、当時メトロポリタンのような一流美術館でも到底手が届かなかったような豪華絢爛たる美術品を、次々と買いあさった実業家ヘンリー・フリックは、いかなる人物であり、どれだけ美術品の鑑識眼があったのか、なんのために収集したのかという方がはるかに知りたいことだ。一般の旅行者などは、「フリック・コレクション」の豪華、華麗な豪邸のたたずまいと作品に圧倒されて、その背後にあった事実などを考えることは少ない。日本でも、フリックは「鉄鋼業で巨富を成し、それを美術品収集に注ぎ込んだ」程度しか、紹介されていないが、それだけでいいのかと思ってしまうことがある。
少し長くなってしまうのを覚悟の上で、その理由を記しておこう。折りしも、新日鉄八幡製鉄所のコークス工場の火災が報じられているが、フリックは最初コークス業で名を成したのだった。
辣腕経営者としての生い立ち
実は私が最初にヘンリー・フリックの名を知ったのは、前回記したように、この華麗なコレクションの創始者としてのフリックではなく、アメリカ労働運動史上、稀にみる暴力的な争議として知られる1892年のホームステッド争議(Homestead strike)を指揮した経営者としてであった。
当時、フリックは後にUSスティールの前身となったカーネギー鉄鋼の会長兼工場長として、経営の責任を負っていた。ちなみに、この争議はアメリカ史上、きわめて著名な出来事であり、今でも多くの人が学んで知っているはずだ。日本だったら、戦後の三井三池争議などに相当するような、経営・労働史上で大きな転換点を画した争議であった。実業家としては、大成功をとげ、死後のことにはなるが、フィランソロピストとして膨大な私財の多くを美術館などの形で、社会へ公開したこの人物については、なかなか頭の中で同一人物としてイメージがつながらなかった。
フリックの生い立ちはかなり波乱に富んでいた。父親はスイスからの移民で、ヘンリーはペンシルヴァニアで生まれたが、父親の醸造所が破産し、大学も1年で辞め、不安定な仕事を転々としていた。フリックは、仕事熱心で、商機を見る才能などがあったのだろう。その仕事ぶりの熱心さなどを評価し、仕事を斡旋し、取り立てた人もいたようだ。
いくつかの仕事の後に、いとこや友人とピッツバーグで、1871年に小さなコークス会社を始め、瞬く間に成功を収め、30歳にしてすでに「コークス王」としてミリオネアの名を得ていた。財政的には長年の友人であった資産家トーマス・メロンの支援が大きな支えであったようだ。顧客はカーネギー製鋼など、大手の鉄鋼企業であった。1880年にはペンシルヴァニア州の石炭生産の8割近くを自らの手中にしていた。「アメリカン・ドリーム」は、この時代、確実に生きていた。
余談となるが、はるか後年、1970年代初めに、ペンシルヴァニアのスクラントン炭田(露天掘り)の実態を見学する機会などもあり、その規模に圧倒されたことがあった。日本の炭鉱はエネルギー政策の転換で、斜陽の色濃く、鉱山の閉鎖が相次いでいた。海底奥深くまで掘り進まないと炭層に行き着かない日本の炭鉱と比較して、巨象と蟻くらいの差異を感じていた。
さて、当時の鉄鋼王アンドリュー・カーネギーとヘンリー・フリックは、1881年ニューヨークで会い、意気投合したようだ(フリックは新婚旅行の途中だった)。カーネギーは当初フリックのコークス企業を買収・統合したいと考えたようだが、フリックに譲る意思がなく、不可能であることを知り、当時40歳のフリックをカーネギー鉄鋼の共同経営者に迎え入れた。カーネギーが1889年に引退した後、フリックはカーネギー製鋼の会長となって、世界一といわれた鉄鋼・コークス生産企業の経営に辣腕を振るった。フリックは、すでに当時勃興していた労働組合運動にきわめて厳しく当たる、こわもての経営者として、知られていた。
「ジョンズタウン大洪水」のあらまし
フリックはカーネギー鉄鋼やコークス事業拡大の傍ら、中心的な投資家としてペンシルバニア州ジョンズタウンの近くに、当時の名士からなる閉鎖的なクラブ South Fork Fishing and Hunting Club を設立・運営していた。会員はペンシルヴァニアの名高い人物60人あまりであり、フリックの親友であったアンドリュー・メロン(メロン財閥の創始者)やアンドリュー・カーネギーも入っていた。クラブは、仲間で狩猟や釣りを楽しむために当時世界でも最大といわれた土石ダムで、川をせき止めた人工湖を持っていた。
ところが、1889年5月31日、このダムは保守の怠慢、集中豪雨などが原因で決壊し、2千万トンともいわれる水と土砂で渓谷を埋め尽くし、推定2200人ともいわれた多数の死傷者を出した。ダム決壊の一報を受けたフリックたちは、緊急救済委員会を設置、厳重な情報統制の下で、犠牲者救済などの手だてを尽くした。クラブ会員だった弁護士は、法廷訴訟の道を巧みに封じ、本来ならば全米を揺るがす一大社会問題となったであろう責任問題も抑圧、回避した。クラブは告訴されたが、裁判所は自然の不可抗力であったと退けた。下流にあった商売敵のカンブリア鉄鋼会社への補償も怠りなかった。
もし、メディアなどが大々的に報じていたら、アメリカを揺るがす大変な社会問題となっていたことは間違いない。会員たちの社会的地位も大きく揺らいだことだろう。アメリカ史上、もっとも巧みに隠蔽された事件とされ、後年、「ジョンズタウン大洪水」 the Johnstown flood として知られるようになった不名誉な出来事だ。フリックはその当事者として中心的人物だった。ここまで、カーネギーはフリックの豪腕ともいうべき実行力を買っていたようだ。
Henry Clay Frick(1849-1919)
ホームステッド・ロックアウト
しかし、この事件の後、カーネギーとフリックの関係を決定的に引き裂く事件が続いて起きた。1892年にカーネギー鉄鋼のホームステッド工場で、合同鉄鋼労組 Amalgamated Iron and Steel Workers Union との間で、激烈な労働争議が勃発した。発端は競争相手の企業への対抗上、フリックが労働者の大幅一律賃金カットを行ったことだった。
カーネギー鉄鋼の経営者でホームステッドの工場長も兼ねていたフリックは、強力な反組合の経営者として知られていた。工場の周辺に有刺鉄線を張り巡らし、銃を持った警備員を配置し、組合員の労働者全員を工場外へロックアウトした。当時、工場は「フリック砦」と呼ばれていた。この時代の労働争議というのは、文字通り資本家と労働者の力による激突ともいうべき様相を呈していた。
フリックはアメリカ史上も悪名高い300人の武装したピンカートン探偵(一種の暴力団)を、7月5日、工場の傍を流れるオハイオ川を経由して、はしけで夜陰に乗じて工場内に導き入れようとした。スト破りを雇い入れ、非組合員で操業しようという算段だった。気づいた組合員との間に銃撃戦が起こり、労働者、市民を含み10人以上の犠牲者が出る暴力争議となった。町には戒厳令が布かれ、紛争は最終的にはペンシルヴァニア州知事の命令で、8500人の州兵が出動して収束した。そして、工場は非組合員を主体に運営されることになった。組合は破れ、旧組合員の多くは非組合員となることで、賃率も下げられて雇用されることになった。
争議は経営側の勝利に見えた。しかし、この時代はアメリカも燃えていた。「資本家の時代」は、「労働者の時代」でもあったのだ。フリックの手段を選ばない厳しい対応は、世論の批判の的となった。労働組合は弾圧されたが、その後フリックの企業は組合組織化の目標とされた。当時、カーネギーは表向きは経営から引退し、スコットランドの城で過ごしていた。しかし、世論はカーネギー鉄鋼の総帥であり、アメリカを代表する企業の経営者としてのアンドリュー・カーネギーへ向けられた。カーネギーはフリックよりもリベラルな考えを持っていたと思われており、以前の言説との違いを突かれて、偽善者という指弾も受けた。
暗殺を免れたフリック
冷酷・非常な経営者と見られたフリックもついに暴漢に襲われることになった。争議が収まっていない1892年7月23日、ピッツバーグのオフィスに進入したアナーキスト、バークマンによってピストルで2発撃たれた。幸い、同室していた副社長(後に社長)のジョン・ジョージ・アレクサンダー・ライシュマンの手助けでとどめの3発目を免れ、命をとりとめた。フリックは深手を負ったにもかかわらず、気丈に暴漢に立ち向かい、急を聞いてかけつけた従業員や警官によって暴漢は取り押さえられた。フリックは暴漢を射殺せず、法廷の場へ突き出せといったらしい。暗殺者バークマンは22年間の刑に処せられたが、支持者たちの運動もあって1906年に出獄した。
一時は経営側に分が悪くなりかけたこの争議は、フリック暗殺未遂についての経営側のネガティブ・キャンペーンなどで、労働側の敗色が濃くなり、労働者2500人は解雇され、残った労働者の賃金も半分に減額された。ちなみに、この争議後も多くの出来事があったが、鉄鋼業は1930年代末まで労働組合が組織できない産業であった。1901年にUS Steel が設立されたのが象徴であるように、資本側の力は強大であり、強力・専制的な資本主義の時代が展開していた。
さて、この後、カーネギー、フリックの人生にも新たな転機がやってくる。長くなったので、一休みしよう。