前回から読んでいただくと、なにやらアメリカ史の一齣の解説みたいになってしまうのだが、多少の個人的感慨もあってメモ風になってしまった。まだ感受性の豊かだった?20代に、アメリカの歴史的大争議の膨大な記録に接し、強い衝撃を受けた。今では想像もつかないほど懸命にメモもとった。そして、一方の立役者が、フリックやカーネギーであったことは、その後「フリック・コレクション」や「カーネギーホール」を訪れた時に、単なる富豪の遺産という存在を超えて迫ってくるものを感じた。
「フリック・コレクション」の優雅な雰囲気に浸っていると、ともすれば展示された美術品の素晴らしさに圧倒されて終わる。そして、メトロポリタンのような美術館でも購入できなかったような名品を、いとも容易にわがものにしていた富豪たちのすさまじくも、どん欲な富への欲求があったことを忘れてしまう。実は、その結果として、今日この壮大なコレクションが目の前にあるのだ。絵画がパトロンの庇護と助成の下に制作されていた時代から、富豪の所蔵品へ、そして公共の場へと移り変わってきた歴史を考えることになる。
仲たがいしたカーネギーとフリック
閑話休題。両雄並び立たず、ホームステッド争議の後、さまざまなことから、カーネギーとフリックの関係も急速に悪化し、結局フリック50歳の時に二人は袂を分かつ。1899年、カーネギー製鋼所の会長はチャールズ・シュワッブとなった。
カーネギーは大富豪でありながらも、その富の社会還元にはフリックよりもリベラルであったように思われる。貧しいスコットランド移民から巨富を成したカーネギーは、特に移民をアメリカ社会へ同化させる手段としての英語教育に多大な力を注いだ。著書『富の福音』では、富める者の社会的責任を論じている。しかし、労働者に対する考えではあまり大きな差異を感じられない。
ホームステッド争議についても、カーネギーに対する社会的指弾もさまざまにあった。カーネギーが直接対処していたら別の結果となったろうか。当時の数々の争議を見る限り、大きな違いは生まれなかったように思える。カーネギーも当時勃興しつつあった労働組合を敵視し、非組合員を一律低賃金で雇用しただろう。当時の著名な産業資本家ヘンリー・フリック、アンドリュー・カーネギー、ジョン・D・ロックフェラー、ジェームズ・ヒル、ジョージ・プルマンなど、いずれも今日の倫理基準からすれば、粗野でしばしば非人道的な資本家たちであった。「泥棒貴族」と呼ばれた仲間だ。ただ、100年近い年月を経て、彼らを見ると「金ピカ時代」といわれた時代に吹いていた風のようなもの、そしてそれを受け止めていたそれぞれの人間の微妙な違いが感じられて興味深い。
Andrew Carnegie(1835-1919)
ホームステッド争議の激動を経験して、フリックは心身ともに傷ついたことは間違いないのだが、その事業欲、蓄財への執念はまったく衰えなかったようだ。自ら実際の経営の第一線に携わることをせず、多数の会社の役員を兼任し、株式投資などによる事業拡大を図り、さらに巨額の富を築く。その規模がいかなるものであったか、想像を絶するが、今に残る遺産の数々を見ることで、そのすさまじさを知ることはできる。
フリックは、事業で得た有り余る富を当時の富豪たちの流行でもあった美術品収集へと注ぎ込んでいった。その対象も広く、13世紀から19世紀のヨーロッパの絵画、彫刻、絨毯、家具、陶磁器まで及んでいる。訪れてみれば一目瞭然だが、日本で人気のフェルメール作品3点は、コレクション全体の中ではほんの一部にすぎない。フリックの買い求めた所蔵品の中には、かなり「がらくた」もあったようだ。フリック自身が美術品鑑識の素養があったとは到底思えない。収集を始めたのも40代半ば頃からであった。大邸宅や美術品が富豪の位を決める基準になっていたから、高値で買ってくれる富豪は画商にとって、願ってもない顧客だった。フリックの指南役となったのは、あの画商デュヴィーンJoseph Duveen とフライ Roger Fryであったようだ。彼らはフリックの意図と資金力を確かめつつ、ヨーロッパとアメリカの間で、美術品の仲介を行った。
世間からは冷酷・非情な資本家経営者の権化のように見られていたフリックだが、私生活は恵まれなかった。1891年、92年には幼い長女と次男を相次いで失った。ペンシルヴァニア州クレイトンに、広大な私邸を持ち、家族と暮らしていたが、1892年にはニューヨークへ転居し、1914年フィフス・アヴェニューに面した豪邸を収集品で飾り立てていた。彼の死後、父親の遺志を継いだ娘のヘレンが、1935年に美術館として一般公開するようになった。これが、現在の「フリック・コレクション」The Frick Collection である。クレイトンの私宅は、今日では、Frick Art & Historical Center として一般公開されている。双方訪れたが、その規模と豪華さに驚かされた。その源泉は過酷な労働者の労働以外にないことを知っていたからだ。
平穏ではなかった心の内
一時期は共同経営者としてカーネギー鉄鋼の経営に当たっていたアンドリュー・カーネギーとの関係も、争議の後は極度に悪化していたらしい。その事実を客観的に知ることは今となってはかなり困難なのだが、伝えられる逸話から類推するしかない。晩年、カーネギーはかつての盟友フリックとの和解を求めたらしいが、フリックは「地獄で会おう、二人ともそこに行くのだから」"I will see him in hell, where we are going." と答えたといわれる。この言葉、しばしば引用されるのだが、二人の富豪の歩んだ人生を見る限り、きわめて意味深長なものがある。物質的にはなにひとつ不足のなかったはずの彼らの人生、しかし、その心の中は外から見るほどに恵まれてはいなかったのかもしれない。ちなみに、年齢はカーネギーの方が14歳ほど年長だったが、没年は1919年と同じだった。
アメリカのフィランソロピーの潮流には、富める者の罪の意識があるのではないかと指摘する者もあるが、この時代の富豪経営者の心の深層に流れていたものがいかなるものだったか、十分解き明かすことはできない。しかし、残された断片は現代のわれわれにさまざまなことを考えさせる。
マンハッタンの真ん中、セントラル・パークに面し、これ以上はないと思われるフリック・コレクションの豪華な環境の中で、フラ・フィリッポ・リッピなどのイタリア美術品の数々、レンブラント、ベラスケス、ターナー、エル・グレコ、ティツィアーノ、フラゴナールなどを見た後、外に出て5番街のざわめきへ戻ると、あの製鉄所を囲んだ労働者の叫び声や銃撃の音が遠くに聞こえるような気がした。
Reference
カーネギーとフリック。今の基準で判断するのはフェアではないでしょうが、凄まじい人達ですね。彼らが発揮したような力の解放を許す国情が当時のアメリカにあったのだと推察します。今も多少残っているような気もしますが。
フリックに審美眼があったかは疑問ですが、本物には心の鬱屈に対抗する力があるので、彼はコレクションから幾ばくかの慰藉を得ていたのではないでしょうか。
ご指摘のように、こうした富豪たちの誰もが最初から美術品についての審美眼を持っていたとは到底思えません。多くはその有り余る蓄財の具現化の方途として大邸宅や美術品の購入に当てたのでしょう。その後、富豪間の競い合いなどもあって、コレクションの質も所蔵者の鑑識眼も洗練されていったものと思われます。仲介する画商間の駆け引きもあったようです。富豪の所蔵になることで、作品が散逸しなかったという思わぬメリットもあったかもしれません。
「フリック・コレクション」にしても、美術館として公開されるまでにかなりの増改築もされたようですが、イタリア・ヴェローナから輸入された大理石、晩餐の折などに演奏された豪華なパイプオルガン、ロココ風の華麗な部屋など、殺伐とした事業経営や恵まれなかった家族関係の傷跡を癒すには、これ以上ない環境であったことがうかがわれます。経営管理の思想・技法も未開発であり、粗野ではあったが、社会的には活力のあった時代でした。今日から見ると、なかなか面白い時代だと思います。