時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

​回想のアメリカ(2): "Kiss of Death"

2023年02月12日 | 回想のアメリカ

仕事中のボビン・ガール(painted by Winslow Homer, Flanagan p.24)

人間の頭脳は時に不思議な働きを見せることがある。前回、ふとしたことから、半世紀以上前に書かれた上院議員当時のJ.F.ケネディのThe Atlantic誌への寄稿のことを思い出したのだが、記憶の再生はそれに留まらなかった。ケネディの論文を読み返すうちに、これまで考えたこともなかった半世紀以上の前の記憶が次々と脳裏に戻ってきた。それぞれはかなり断片的なのだが、なんとかつなぎ合わせてみた。

前回に取り上げた
スヴェン・ベッカート『綿の帝国:グローバル資本主義はいかに生まれたか』の記述を待つまでもなく、イギリス、アメリカ、日本などの国々での産業革命期には綿工業や関連機械工業などが、その中軸となってきた。ちなみに、ベッカートの本書では、日本についての記述が多い。事実、繊維産業の歴史における日本の存在感はきわめて大きい。

18世紀後半、イギリスに端を発した産業革命の中心は、綿(木綿)工業と関連する機械の発明、さらに蒸気機関とそれに伴う石炭の利用であった。その後、産業革命はヨーロッパ諸国に展開する傍ら、新大陸アメリカ東北部(ニューイングランド)へと移転、拡大した。この地では南部の綿花を原料として木綿紡績業が勃興し、ボストン周辺はその中心地として発展した。




「ミル・ガールズ」の時代
ブログ筆者は若い頃、この時代の研究を志し、関連文献の探索に没頭したことがあった。当時のことを今でもしばしば思い浮かべることがある。1960年代、PCもなく、インターネット検索もできなかった時代であった。読みにくいマイクロフィルムの記事を探索している過程で、偶然出会ったが、そのまま忘却していた(と思っていた)記事がある。そのひとつにかつて記したこともある「ローウエルのミル・ガールズ」Lowell mill girls についての論評があった。

「ミル・ガールズ」とは、18世紀初頭から19世紀にかけての産業革命勃興期に、「ウオルサム型」ともいわれた大規模な綿工場で働いた15歳から30歳ぐらいの若いヤンキー女性を示すに使用された。綿などの紡織工場で働く女性は、新たに興隆した産業で働く自分たちの階級に付随する特別の美徳と労働の尊厳を肯定しつつ、自らを「ミル・ガールズ」と表現することがしばしばあった。彼女たちの出身地は農村部であり、労働についての規律や生活については、ほとんど規則らしいものもなかった。それと比較して、新興の繊維工業では寄宿舎も整っており、工場での労働も長時間ではあったが、当時としては無制限の農業労働よりはマシと考えられていた。

”Kiss of Death”
ミル・ガールズの関連で思い出したことがある。過去3年以上にわたり、グローバルな次元で世界を揺るがしているコロナ・ウイルスとの連想で、ひとつ興味深い事実があった。彼女たちを含む当時の綿工業労働者の職場での労働環境は、機械が生む騒音、空間に飛散する糸屑、綿屑、湿気など今日と比較すると極めて劣悪であった。そうした労働環境の下、織布過程では中世以来続く縦糸に横糸を通す杼(ひ:shuttle)という船状の木製の器具が使われていた。


”Kiss of Death” 「危ない!」


シャトルの形

当時、綿工場が多数存在していたマサチューセッツ州メリマック渓谷の工場労働者の間には肺結核 Tuberculosis に代表される呼吸器疾患の患者が非常に多かった。”The Great White Plague”の名で知られた重篤な結果につながる疫病として恐れられていた。1882年にはドイツの医学者ロベルト・コッホによって、結核菌が確定されていた。当時、工場の調査を行った医師は、ガールズが慣行として行っていた行為に注目した。シャトルに開けられた ”眼” eye の通称で知られた小さな穴から細い糸の末端を口で吸い出す行為が、結核菌を伝染することに気づいたのだった。

工場主や現場の管理者は、そうした行為を禁止し、工場によっては小さな金属のフックで糸を引き出すよう指導していたが、織布工たちは以前からの慣行をなかなか放棄しなかった。マサチューセッツ州は、1911年の法律281号で1回の行為について50ドルの罰金刑をもって、この「死の接吻」の行為を禁止した。実際、当時の繊維工業で働いた女性労働者の多くは35歳までに死亡しており、結核で死亡の場合は、25ー34歳層では47%という衝撃的な統計も公表された。

こうした事実に象徴されたように、当時の繊維工業の労働環境は劣悪であり、ローウエルなどでも改革派の反対で、1840年代には1日10時間労働が実現したが、顕著な改善は行われなかった。

Commonwealth of Massachusetts New England Acts of 1911, Chapter 281:”An Act to Prohibit the Use of Suction Shuttles in Factories”

ちなみに筆者が知る限りでは、日本の製糸場でシャトル(杼)と結核感染の関係について、同様な作業行為の禁止が行われたとの記述は見たことがない(『富岡製糸場誌』和田英『富岡日記』などを参照)。ご存じの方がおられれば、ご教示いただければと思っている。

19世紀初めから19世紀にかけては、ニューイングランド北部の田園地帯に、「ウオルサム・システム」として知られる紡織仕上げまでの工程を一貫して持つ企業が展開し、「ミル・ガールズ」の名と呼ばれた農村部の未婚の女性を寄宿舎に受け入れ働かせた。他方、ニューイングランド南部では、労働者を家族単位で契約し、幼い子供までも不熟練労働者として安価に働かせた「ロードアイランド・システム」といわれた工場地域が並んで発達した。両者は互いに発展を続け、時代と共に地域差は縮小していった。そして、前回記したように、20世紀初めにかけて、アメリカ繊維工業の中心は原綿産出地でもある南部へと移行していった。

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N.B.
1813年 ウオルサム(マサチューセッツ州)に、フランシス・カボット・ローウエルが繊維工場設立。ローウエルは翌年死去
1822年 メリマック川、ポータケット瀑布付近が新しい工場立地に選ばれる
1836年 女子労働者がローウエルでの家賃引き上げにプロテスト
1840年 Lowell Offering 女性により編集・刊行された最初の雑誌
1846年 サラ・バグレーとローウエル女子労働改革協会がマサチューセッツ州立法局に10時間労働制の立法化を請願
1847年 女子繊維産業労働者がローウエルの企業経営者に昼休みを延長し、1日の労働時間を30分短縮に向け、圧力
1853年 マサチューセッツ州全域の繊維工業労働者が1日当たり労働時間を11時間とするよう働きかける
1874年 マサチューセッツ州立法局は児童と女性が工場で10時間以上働くことを禁止 

Flanagan p.40
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Reference
Alice K. Flanagan, The Lowell Mill Girls, Compass Point Books, 2006





 続く


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