時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

シャーデンフロイデ :日本語は?

2018年02月01日 | 午後のティールーム

 

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『女占い師』メトロポリタン美術館、部分


最近訪れた書店で、脳科学者・中野信子氏『シャーデンフロイデ』なる新書に目が止まった。この表題で何をテーマとした書籍かすぐ分かる日本人はどのくらいいるだろうかと一瞬思った。実はブログ筆者はこのテーマにかなり関心を呼び覚まされ、5年ほど前に「他の人に良くないことが起きたとき」という短い記事を掲載している。2000年に刊行されたJohn Portmann, When Bad Things Happen to Other People というこの分野の力作を話題としたものだ。

この書物の表紙には、またもやラ・トゥールの作品『女占い師』が使われていることに読者の注意を促した。世事に疎い貴族の若者がジプシーの占い師に手相を見てもらっている間に、高価な装身具などをハサミで切り取られて盗まれるという光景を描いた作品だ。この画家の作品制作に際しての熟考、検討には何度見ても感嘆する。画家は「シャーデンフロイデ 」を意識して、見る人が貴族の若者が不幸な目に出会う不運を密かに喜ぶものか、あるいは俗界に溢れるリスクに警告を促したものか。画家は制作の意図を明らかにせず、描写に徹して見る人の解釈に委ねている。「深謀遠慮」([文選、賈誼、過泰論] ずっと先のことまで深く考えて計画を練ること:『広辞苑』)の好例と言えるかもしれない。ほぼ同時代のフェルメールなどとは、全く異なる人間の深層心理についての深い精神的 (心理的) 探索がある。いうまでもなく、’Schadenfreude’ などという表現は、この画家が生きた17世紀ロレーヌには存在しなかった。

この言葉、’Schadenfreude’ は改めて述べるまでもなく、元来ドイツ語である。「意地の悪い喜び、他人の不幸を喜ぶこと」(self-harm)という特別の含意がある。18世紀半ば頃に使われるようになったらしい。しかし、この言葉には英語やフランス語の直訳(同義語)がない。一説では、19世紀イギリス国教会の大主教が英語化されるのを執拗に拒んだともいわれる。彼はどんな言葉でもある特有の文化的意味 ‘culture’ を持つと主張した。イギリス、とりわけ宗教界にこうした含意の概念が持ち込まれることを懸念したのだとの推測もあるが定かではない。結果として今日の英語環境でも、ドイツ語表示のままで使われており、大文字で始まっている。今では英語やフランス語にも多少似た類語はあるが、このドイツ語を念頭に作られたものではない。


こうした背景には、このような人間心理は、ドイツ人特有のものでイギリス人は持ち合わせないとでも言いたいのだろうか。しかし、少し考えてみれば分かることだが、こうした心理状態がかなり普遍的な人間心理であり、とりたててドイツ人に限ったものではないことはほとんど自明なことだ。上述のPortmann が明言していることでもある。


最近のひとつの例を挙げると、アメリカ大統領選でヒラリー・クリントン女史がトランプ氏に敗退した時、この言葉を使ったメディアもあった。しかし、その結果がどうなったか。シャーデンフロイデ を感じた人はなにか得をしたのか。あるいは「糠喜び」(あてがはずれて、よろこびが無駄になること。またそのようなつかの間の喜び:『広辞苑』) に終わったのか。なかなか興味深い含意と広がりを持つ言葉だ。言い換えると、人間に固有な影を秘めた特性ともいえる。


ブログ筆者が以前の記事で記したように「バナナの皮で滑って転んだ人を見て笑う」程度ならば許容できるが(?)、「正義」「道義」「節操」justice の領域に踏み込むと多くの難しい問題が生まれる。


他方、日本語では「判官贔屓」(源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓(ひいき), 『広辞苑』)という表現もある。同じような一語での表現が英語、ドイツ語、フランス語などにあるかと少し考えてみたが、思いつかなかった。


「シャーデンフロイデ 」という概念の難しさ、広がりを改めて思い知らされる。

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