goo blog サービス終了のお知らせ 

時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

富岡製糸場再訪

2009年05月26日 | グローバル化の断面

富岡製糸場入り口(北口)

  深緑の一日、群馬県富岡市に残る富岡製糸場を訪ねた。この工場、20年以上前に遡るが、同じ地域のいくつかの企業をめぐる見学旅行に参加した折に訪れたことがあった。その当時は片倉工業の下で、まだ操業していた。

 富岡製糸場を訪れる以前から繊維工業には、強い関心を抱いていた。その理由については長くなるので省略するが、日本ばかりでなく、アメリカ北東部ニューイングランドから南部の原棉生産州への移転について調べるために、ローウエル、フォールリヴァーなどに残る産業遺産、南部の新鋭工場、さらにイギリス、イタリアの工場なども訪ねたことがあった。富岡製糸場については、世界遺産に登録されるために努力の途上ということを、なにかの折りに知り、時間に制約されることなくゆっくり見てみたいと思っていた。  

 今回はローカル線の旅を楽しんでみたいと思い、高崎から上信電鉄に乗り、「上州富岡駅」で下車する経路をとることにした。休日であるにもかかわらず、観光客の姿は少なく、社内も空いていた。ワンマンカー、無人駅化などが進み、地方電鉄の経営の困難さが見て取れる。

  製糸場は「上州富岡駅」を下車、町中を10分程度歩いた所にある。富岡は日本の各地にみられるようになった駅前から人影の少ない、閑散とした町並みである。自動車だけはかなり往来が激しい。街角に掲示された案内に従い、ゆっくり歩いていると、目の前に煉瓦色の壁と立派な門が現れた。 

  富岡製糸場は明治政府の富国強兵・殖産興業政策の一環として構想され、最初の官営工場として、1871年(明治4年)に着工、翌72年(明治5年)
に完成した。

 民間企業の経営に移管した後も幾多の星霜を経て、最終的に1987年に操業を止め、2005年に富岡市に寄贈され、国指定史跡、国指定文化財として継承されている。2007年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産暫定一覧表の追加物件として選定、受理された。目指す
世界遺産登録までは、まだ遠い道だが、努力は実りつつある。いくつかの点で充実したらと思うこともあるが、多分関係者はすでにお気づきのことだろう。  
 
 明治政府の掲げた殖産興業政策の一環として構想された最初の官営工場・富岡製糸場については、歴史の教科書にも記載され、かなりよく知られているので改めて繰り返さない。上記の世界遺産を目指すサイトでも概略を知ることができる。

 明治3年(1870年)「官営製糸場設立の議」が決せられ、フランスからの経営・技術の導入が決まり、立地決定、翌
年から建設が開始された。交通の点でも決して便利な場所でないにもかかわらず、大変迅速な決断、実行に感心する。

 操業が開始されたのは明治5年(1873年)だった。その後明治26年に、富岡製糸所として三井家への払い下げが決まった。明治35年原合名会社に委譲された。そして、昭和13年片倉製糸(株)の経営するところとなった。

富岡製糸場通用門(明治5年と刻まれた銘板に注意)


  

 完成後、百数十年を超える年月を経過した今、眼前に広がる工場施設は、操業はしていないとはいえ、現代人の目にも圧倒的な存在感がある。

 富岡に導入された技術は、フランスからであったが、当時のフランス製糸の技術は、イタリアなどとその先端性を競っていた。日本にも両国の技術が導入されている。単に製糸技術ばかりでなく、経営の様式も注目すべきものだった。その技術に日本独自の工法が融合して生まれたのが富岡製糸場だった。

往事をしのばせる繭や道具



繰糸工場、繭倉庫の一部



高い煙突(創立時のものではない)と繭扱場の一部

 
繰糸工場への入り口


左右の建物は指導に当たったフランス人検査人、女工など住んだ宿舎



 よく知られている長野県松代からの伝習工女として、この製糸場での日々を経験した横田英の『富岡日記』に記されているように、煉瓦造りの壮大な製糸場と、設置されたばかりのまばゆいばかりの器械設備、そこで忙しく立ち振る舞う異人や工女の姿などは、始めて入場した工女たちをさぞ驚かせたことは、今でも十分類推できる。この最新の製糸場で伝習を受けることは、工女たちにとって大きな誇りを抱かせるものだった。

 製糸場が操業を停止した今では、場内に工女やフランス人の姿は当然ない。しかし、目を閉じて、1世紀を超える昔に思いを馳せると、独特の機械音や繭を茹でる匂い、工女の会話などが聞こえてくるようだ。

 明治6年(1873年)3月31日、横田英が富岡に到着した時の町と印象を次のように記している。

 「早朝坂本を出立致しまして、たしか安中の手前を右に折れ、段々参りますと高き焼き筒(鉄製の煙突)が見いました。一同いよいよ富岡が近くなったと喜びも致しましたが、ここに初めて何となく向こうが気づかわしく案じられるように感じました。それより富岡に着き致しまして、佐野屋と申す宿屋に入りましたのは、まだはようございましたから、町を見ますと城下と申すは名のみにて村落のようなる有り様には実に驚き入りました。」

翌日の4月1日、製糸場へ入場したが、その時の印象は次のようであった。
一同送りの人々に付き添われまして富岡御製糸場の御門前に参りましたときは、実に夢かと思います程驚きました。生まれまして煉瓦造りの建物などまれに錦絵で見るばかり、それを目前に見ますることでありますから無理もなきことかと存じます。それから一同御役所へ通されました。」

「第一に目につきましたは糸とり台でありました。台からひしゃく、さじ、朝がお(繭入れ湯にこぼしのこと)、皆真ちゅう、それが一点の曇りもなく金色目を射るばかり。第二が、車、ねずみ色に塗り上げた鉄木と申すものは糸わく大枠、第三が西洋人男女。第四が日本人男女見回りいること。第五が工女が行儀正しく一人も脇目もせず業についている。」



References
横田英『富岡日記』中公文庫、1978年
上條宏之『絹ひとすじの青春『富岡日記』にみる日本の近代』日本放送出版協会、昭和53年
富岡市編『富岡製糸場』改訂版、平成19年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風前の灯:「第3イタリア」そして日本は?

2009年05月20日 | グローバル化の断面

  イタリア、トスカーナ地方プラートは、ながらくイタリアを代表する繊維産業の産地として知られてきた。1980年代に「第3イタリア」の名で呼ばれ、新たな「産業活性化地域」のひとつとして、世界の注目を集めてきた。「第3イタリア」という意味は、イタリア国内の工業地帯で生活水準も高い「北部」、あるいは農業地帯で発展が遅れている「南部」とも異なった、小企業の集積をベースとする競争力ある「第3の産業地域」という位置づけによるものだった。地理的には、イタリアの中北部ミラノ、トリノなどの周辺で、さまざまな産地が分布している。

 ここには、繊維、木工、金属など、産業ごとに多数の小企業が同じ地域に集積し、ひとつひとつの企業の力は弱小だが、地域全体として集結して、他の地域の企業と競争するという仕組みが形成されてきた。新たな時代の産業モデルのあり方を示すものとして、世界の注目を集めた。1980年代当時、産業論や労働の領域で大きな話題となった制度派経済学者ピオーレ、セーブルの著作『第二の産業分水嶺』The Second Industrial Divide のモデルとして想定された地域としてもよく知られている。このモデル化には先行して、イタリア経済学者の地道な貢献があった。

 1980~90年代に調査団などで、2、3
度訪れたことがあった。その印象は大変強く、今日まで鮮明に残っている。最初の時は企業・産業論の分野での大先輩O先生、S先生などをご案内?しての旅だったが、お二人ともこれこそ探し求めていたモデルと大変感動されたご様子だった。しかし、グローバル化の衝撃は、すでにこの産業立地にも及んでおり、一抹の不安も感じられ、もう少し行方を見極めたいと思っていた。

活性化のための原理
 これらの産業地域としての編成原理、思想は、基本的に同じと考えられる。個々の企業は、数人から10人程度の小さな企業で、ほとんどが家族経営である。訪れたどの企業でも、規模拡大によるスケール・メリットは考えていないという答が戻ってきた。日本の企業と比較して強い印象を受けたのは、それぞれの企業が他の企業とは異なった製品や工程
に特化することで、独自性を発揮するという考えだった。同じ地域内でも、他の企業からどれだけ「距離をおけるか」が目標と答えてくれた若い家具製造経営者の言葉が印象的だった。ユニークさこそが企業の生命という考えに感銘した。

 こうして同一地域内では企業間で互いに競争しながらも、地域の外部に対しては、ひとつの地域集積体として競争に当たるという構造が作られた。集積の規模はかなり大きくなるが、フレキシブルな態様が特徴だ。一つの地域に存在する企業数も数百から千を越える。

 ミラノの北郊、コモ湖との間にあるプリアンツを訪れたことがあった。ここは木工家具の産地として世界的に著名な地域である。ここも同一地域に多数の企業が存在しながらも、地域内ではそれぞれの特徴、斬新さを競い合い、独自性を保っている。総じて大規模市場を目指すことなく、当初からニッチな市場を目指している。ほとんどの企業は、自社で椅子、テーブルなどユニークなデザインの家具を生産している。それでいて、ある企業はテーブルに
、別の企業は椅子の脚の部分にというように、得意とする領域に専門化している。日本の経営者グループが見学にくると、翌年すぐに同じようなデザインの家具が市場に出てくるといわれ、返答に詰まった。

独創性に生きる
 「第3イタリア」の強みのひとつは、家族経営形態に基礎を置く点にあった。家族というまとまりのよさを志向したのだろう。最終的には、個々の企業の開発する製品の斬新さ、そして地域の集団としての総合力が目標に設定されていた。地域内の経営者たちの結束も強い。一本の矢では弱いが、数十本、数百本を束ねれば強力になるという考えに近い。そして、地域内部の企業家たちのネットワークが情報の交換、連携に大きな役割を果たしている。

 こうした産業活性化地域が、中国、インドなど労働コストが数十分の一といわれるような国々と、果たして競争してゆけるか、80年代当時から大きな課題となっていた。すでにグローバル化の波は怒濤のごとく、この地域へも押し寄せていた。対応の選択肢として考えられたのは、できうるかぎり基本路線を維持するが、世界の先端ファッションを取り込むデザインなど創造性を必要とする製品企画・開発段階は、他の地域へ譲り渡すことなく、イタリアの産地が担うことが想定されていた。他方、生産や販売は、臨機応変、中国など低コストの地域、最終市場に近い地域へ移転も考えるという方向であった。

 しかし、生産もイタリアで行われないかぎり、 Made in Italy (イタリア製)ではなくなり、ブランド力も維持できないとの危惧が強まっていた。事実、その危惧は現実のものとなり、ブランド力にかげりが出てきた。もうひとつの選択肢として考えられたのは、イタリアの産地へ安い外国人労働力を受け入れるという方向だった。

破壊的な中国労働コスト
 その後、労働コストの急速な上昇に耐えられなくなった地域が生まれた。ファッション性、デザイン力などが勝負どころで、しかも家族経営の小企業では、コスト吸収の余地が少ないのだ。トスカーナ州の繊維のプラートがその例である。プラートは700年近い歴史を誇る繊維の産地である。

 中国へ生産拠点を移動した企業もあったが、ブランド・タグだけをプラートでつけるのでは、イタリアン・ブランドを維持するのは難しくなってきた。1990年代に入ると、外国人労働者、とりわけ中国人労働者が、この地の繊維業で働くために多数流入してきた。ほとんどすべてが海外出稼ぎ者が多い温州などからの不法就労者であり、身分証明書すら確認できない者も多いという。彼らは一日10数時間も働き、月数百ユーロ、10万円程度の低賃金で働いている。イタリア語を話せる者は、数人程度にすぎないようだ。町の西部には中国人の集落が生まれ、彼らが経営する企業も多数増えた。

 今日では織物生地も中国から輸入され、プラートで「イタリア製」Made in Italy のラベルがつけられて輸出されるまでになっている。しかし、その産業基盤はきわめて脆弱化し、グローバル化の強風で文字通り風前の灯だ。

 グローバル化が進んだ結果、本丸まで攻め込まれ、見ようによっては、イタリアに中国の飛び地が出来たような様相になってしまった。かつてインタビューに応じてくれた経営者は、3年先までの製品デザインは開発済みで、ワードローブにしまってあるよと言って自信のほどを示していたのだが。最後の砦としていたデザイン力も、中国が急速に追いついている。

 イタリアのこうした伝統的産地のすべてがプラートのような状況に追い込まれているわけでは必ずしもない。デザイン力、技術力、専門化など、さまざまな工夫をこらしてグローバル化の荒波を緩和し、活力を維持している所もある。しかし、いずれもかなり苦しい状況だ。外国人労働者についても低賃金労働者への需要ばかりでなく、革新的アイディアを導入してくれるイノヴェーターへの期待もある。中国のような大市場へ浸透するには、急速に力をつけた中国人技術者・専門家の助けが欠かせなくなっている。

「他山の石」として
 グローバル化に伴って資本、労働力などの生産要素の流動化は、著しく進んだ。しかし、労働力の移動は、人間の属性のあらゆるものを持ち込んでくる。プラートの数百年にわたる伝統を持つ繊維産業は、顕著に競争力を失い、荒廃が進んだ。外国人労働力の受け入れに制限的になれば、安い労働力を求める企業・産業は海外へ移転してしまう。グローバル危機の下で、外国人労働者に制限的対策に転換している国は増えているが、それで解決になるわけではない。労働力不足は深刻の度を加え、労務費の上昇を来す。新しいアイディアの源も枯渇する。競争力を失った企業は、撤退も難しい。
とりわけ、製造業の場合は工場・設備などの固定資産の重みが、再編の大きな足かせとなる。

 イタリアはグローバル化の大波の中で、政治経済上の舵取りもままならず、国としても大きな危機に直面している。産業立地の衰退もそれと無縁ではない。他方、日本の地域の衰退を見るとき、こちらも劣らず重症だ。地方都市を訪れてみると、その衰退ぶりに愕然とする。かつては輝いていたあの都市が、どうしてこれほど寂れてしまうのかと思うことも一度や二度ではない。雇用機会は次々と大都市へと移転してしまう。地域に雇用機会を創出し、留めるためにはなにが必要か。再生・活性化の源をなにに求めるか。地方都市活性化を目指す「コンパクト・シティ」の構想なども、実態は厳しく揺らいでいる。この大不況の底から、いかなる産業集積・再生のイメージが描けるだろうか。日本は今後どこを目指すべきか。地域の衰退、高齢化の実態などをみると、今は構想再検討に残された最後の時かもしれない。

 

*  Michael J. Piore Charles F. Sabel The Second Industrial Divide. 1984 (マイケル・J. ピオリ、チャールズ・F. セーブル 『第二の産業分水嶺』筑摩書房、 1993年)

アレクサンダー・スティル「イタリアが難破の危機」『アスティオン』70号、2009年



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

労働市場流動化の光と影:スペイン

2009年05月16日 | グローバル化の断面

 太陽の光も強いが、影も濃い国スペイン。 
 
 ひとつの興味深い記事*に出会った。過去数年、この国は労働市場の急速な流動化を進め、近年はEUで最も高い経済成長を記録してきた。しかし、グローバル大不況の衝撃からは逃れがたく、昨年秋以降、逆に失業率がEU諸国の中でも急上昇するという「どんでん返し」にあっている(メディアの評価も掌を返したようだ)。スペインの失業率は2007年で8%前後だったが、今年1~3月にはEU平均の倍近い17%に跳ね上がった。

 スペインの労働市場流動化の尺度のひとつとなる有期雇用率は、最近では28%前後と日本並みだが、EU諸国の中ではずば抜けて高い。他方、スペインの2000~07年の労働生産性上昇率は、年平均0.9%とOECD加盟国平均の半分という低位である。

健闘するモンドラゴン
 こうした状況で注目されるのが、世界的によく知られている協同組合COOP、モンドラゴンMondragon の事例である。失業率が急騰する中で、従業員のレイオフを極力抑制して、雇用維持に健闘している特異な存在として注目されている。モンドラゴンは、50年余の年月にわたり、そのユニークな経営思想と良好なパフォーマンスで世界の注目を集めてきた**。日本でも、協同組合関係者、一部の研究者などの間で、強い関心が寄せられてきた。モンドラゴンはバスク第1位、スペイン第7位の産業グループであり、スーパーマーケットから自動車、機械、家電販売、金融活動まで包含している。

組合員にやさしい?組織
 モンドラゴンが目指す協同組合は、公正と民主主義を基調にしてきた。純粋な形態の協同組合は、組合員のすべてがそれぞれの貢献度に応じて株式持分を保有し、仲間から選んだ経営者の下で労働に従事し、成果配分を受けるという形をとる。しかし、経営規模が拡大すると、こうした純粋な形態は採用しがたくなり、主として労働時間と組合出資金持ち分を基準とする正規の組合員(労働者組合員)と非組合員(賃金労働者とパート労働者)の双方が混在する形態になることが多い。前者はいわばコアの従業員であり、経営者も原則その中から選ばれる。後者は資本主義的企業(利潤極大化型企業)の非正規労働者に近い。  

 モンドラゴンは協同組合だが、労働者自主管理企業の一類型と考えられる。協同組合を支える思想は、ラディカルで反資本主義的と考えられてきた。だが、実際には私企業と同じ市場環境で活動している。しかし、設立の思想を継承し、通常の資本主義的企業(利潤極大化型企業)と比較して、構成メンバー(組合員)に手厚く、レイオフも少ないとされてきた。たとえば、モンドラゴンの場合、万一、経営不振で工場閉鎖などを実施する場合、組合員については半径50キロメーター内にグループ企業があるかぎり、かれらを優先雇用することになっている。  

 スペイン労働法の下では、通常の企業はレイオフを実施する場合、労働組合などと団体交渉を行わねばならない。しかしモンドラゴンの場合、変化への対応が迅速で、多くの場合、争議などの紛争なしにレイオフ、時短、賃金カットなどを実施できる。情報が組合メンバー間で共有され、ルールが設定されているので、市場の変化への対応が迅速にできると考えられる。

必要な雇用基盤の充実・安定
 共同組合も規模が大きくなると、構成員のすべてを組合員(コア・メンバー)とすることは難しくなり、非組合員が増加してきた。そうなると、資本主義企業(利潤最大化企業)とあまり変わりなくなってくる。しかし、その理想を保持しようと努力するかぎり、かなり良好なパフォーマンスを発揮することもできるかもしれない。 

 グローバル経済危機の下、セーフティ・ネットの張り直し、充実に向けての議論が盛んだ。それ自体は必要であり、望ましい方向だが、雇用政策の全体のあり方としてみると、重点の置き方が事後的対応に偏っていると思われる。雇用創出というポジティブな対応と比較すると、セーフティ・ネットなど事後的政策には巨額なコストを要するのだ。最重要な課題は、積極的に良質な雇用機会を創出する仕組みを整備し、生まれた雇用をできるだけ維持しうる基盤を維持、充実することだ。セーフティ・ネットに救われる前の段階での雇用の仕組みを、より強固なものとする努力が必要なのだ。労働者派遣法の改正も必要だが、雇用システム全体の視野の中では、その効果は限られたものだ。

乖離する理想と現実
 
 モンドラゴンの場合、設立当初の頃は、ほとんどすべての構成メンバーが組合員であった。彼らは労働サービスへの報酬に加え、出資金の持ち分に応じた配当、利子などを受け取ってきた。しかし、その後の規模拡大と他企業との競争上、労働者の流動化を維持する上でコアとなる組合員以外の労働者が雇用されるようになった。今日では全労働者の半数近くは、非組合員になっている。いわゆる2層構造であり、正社員と非正社員の2グループに近いといえる。不況になると、正組合員ではない労働者からレイオフされる。

 さらに、非組合員が結んでいるテンポラリー契約は更改されない。そのため、モンドラゴンのような場合でも時々は、ストライキや組合問題と無縁ではない。しかし、今のところ協同組合としての創立以来の理念をできるかぎり守ろうとする努力が、他企業よりも良好な雇用維持につながっているようだ。市場原理の冷酷さに安易に屈しない連帯感が組織を支えている。

試行錯誤の積み重ね
 モンドラゴンはその発展の過程で、資本主義的企業に対抗して生き残る仕組みを模索してきた。設立以来、半世紀を超える
試行錯誤の過程を重ねながら、現在のような形態になった。

 モンドラゴン傘下の協同組合企業の中には、正メンバーでない組合員を組合員に組み入れる方向を検討しているものもある。労働時間の長さを尺度として、組合員、非組合員の区分を消滅させようとの検討もなされている。

 モンドラゴンは、かつて経営管理などに当たるマネジャーの俸給を、組合員の最低俸給の3倍に抑えていた。しかし、優秀なマネジャーが外部流出する事態が生まれ、組合員労働者との間で俸給の逆転現象も起きた。そのため、この上限を8倍へ引き上げたが、依然として市場価格から30%近く低いため、他の企業などへ転職する可能性が指摘されている。

 協同組合、労働者自主管理企業などで、株式を所有する労働者(=資本家)が多様化すると、経営は難しくなる。United Airlines は、1994年にお互いに競合する複数の労働組合が大部分の株式を保有する部分的ESOP(従業員持株制度の一類型)を採用していた。しかし、結局従業員株主としての統一した方針を維持できず、破綻してしまう。モンドラゴンは歴史の風雪に耐え、さまざまな試行錯誤を行って、こうした危機に対応してきた。


 仕事の機会の創出、雇用基盤の安定化のためには、セーフティ・ネットの張り直し、強化とは異なる新しい視点が必要だ。最終需要を派生需要としての雇用につなげ、しっかり維持するための方途を確立しなければならない。それには、さまざまな選択経路があり、ほとんど検討されていない課題も多い。緊急雇用創出事業など短期的対策から、より確たる雇用創出・維持の政策への重点移行が必要になっている。事後的・応急的な対応を図る段階から、長期的視点に立った産業・雇用システムを整備・確立する段階に来ていることは疑いない。スペインの事例はやや特殊だが、多くの考えるべき課題を含んでいる。



References

「スペイン「有期雇用」に限界」『朝日新聞』2009年5月15日
 “Corperatives: All in this together”The Economist March 29th 2009.

** 労働者管理企業 Labor Managed Firm(LMF)は、理論上は新古典派経済学の利潤最大化型企業に関する伝統的通念とは大きく対立する「ひねくれた」性質(perversiveness)を内在すると考えられ、興味深い議論が積み重ねられてきた。1990年代、労働市場の規制撤廃以前の日本企業の理念型は、アングロ・サクソン型利潤最大化型企業よりも、むしろLMFの方に近いと筆者は考えてきた。そうした発想の発端は、労働者管理企業に関する先駆的研究者、Y. ヴァネック、W. F. ホワイト、T. ハマーなどから直接、間接に多くを学ぶことができたことにあった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インフルエンザが失業の原因?

2009年05月01日 | グローバル化の断面

 

 今年の大型連休は、新型インフルエンザの世界的拡大で、出ばなをくじかれた感がある。リスクの高い海外旅行には、
かなりブレーキがかかるだろう。大都市など人口密度の高い地域では、人混みをさける、商店を閉めるなどの動きも見られるようだ。世界的に人の移動が減少することはほとんど確かだ。

 今回のインフルエンザ発生前から、アメリカでは人の移動が停滞していることが指摘されていた。広大な大陸国家であるアメリカでは、仕事のある場所を求めて、人々は活発に移動を繰り返してきた。移動に伴い、住宅の売買も盛んに行われてきた。しかし、近年、持ち家と医療保険の普及が人の移動を減少させるようになってきたようだ。

 サブプライムローン問題が露呈するにつれて、住宅の買い手が少なくなった。住宅には抵当権が設定されていることが多く、円滑な取引を妨げるようになっていた。仕事の機会を求めて移動しようと思っても、住宅が売却できない。結果として移動ができず、雇用機会が失われた地域では、失業問題がさらに深刻化する現象が見られるようになっている。不況は国内移動を減少させたように見える。実際、アメリカでは2007年から2008年にかけて、住居を変えたのは全人口の11.9%だった。これは1940年代に記録がとられてから最低の水準とされている。

 移動はアメリカン・ドリームの一部を象徴していた。ダイナミックで柔軟な労働市場はアメリカの特徴であり、労働移動の研究は重要なトピックだった。スタインベックの「怒りの葡萄」に象徴的に描かれているが、人々はオクラホマの農場を離れて、家族を連れてカリフォルニアなど西を目指した。

 アメリカで移動の減少をもたらしているもうひとつの原因は、健康保険だ。アメリカには、国民の大多数をカヴァーする健康保険制度が存在しないため、労働者は自分が働いている企業をベースに保険に加入していることが多い。そのため、地域的移動に制約が加わり、かつてのように自由な移動ができなくなった。法的には、離職しても18ヶ月は以前に雇用されていた企業のプランを活用できるにもかかわらず、転職は難しくなっている。

 人の移動を減らすための出入国制限、国境閉鎖という究極の対策もすでに発動のタイミングを失したともいわれている。対応がもたついている間に、インフルエンザがパンデミック寸前にまで蔓延・拡大してしまった。多くの国で工場や商店の閉鎖などは、すでに実施されている。グローバル失業の原因のひとつがインフルエンザにあるとは、およそこれまで考えることはなかった。 失業がウイルスに起因するとは、なにか17世紀的ではある。戸口に逆さ箒を立てるか?

 ここまで書いた時、オーストラリアの友人からメールが入った。今年の秋に大きな国際会議を主催することになっている。ところが、グローバル不況で参加者が大幅に減り、加えてこのインフルエンザ禍でさらに減ることになりそうだという知らせだ。その結果は、大幅な参加費の値上げ。まさに踏んだり蹴ったり。政策対応にも、新しい視点が必要になっていることは確かなようだ。

 

Reference
"The road not taken"

The Economist Mar 19th 2009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国大学生就活の決め手?

2009年04月18日 | グローバル化の断面

 このたびのグローバル危機で、世界経済回復への鍵を握る主導的な役割を担う国のひとつに中国がある。これまでのところ、表舞台に見る限り、中国政府首脳は自らの役割にかなり自信のほどを示してきた。G20など国際的な場では、内需拡大を柱にかつてない積極性を見せている。しかし、問題山積の大国でもあり、内情は決して楽観できるものではない。そのひとつに農民工や大学新卒者にかかわる雇用問題がある。その一端を記してみよう。

緩衝装置としての大学?
 10年以上前のことだが、中国政府の教育政策に関わる方から、大学は雇用政策として役に立つと思うかと尋ねられた。一瞬、なにを聞かれているのだろうかと答に詰まった。しばらく質疑を交わしている間に見えてきたことは、中国に顕在、潜在的に存在する失業者を吸収する上で、大学の数、入学者の数を増やすことは「効果」があるかという内容だった。予期しない質問だった。

 1990年代当時、国営企業の民営化に伴う多数の失職者の増加、農業部門における膨大な不完全就業者、労働力の増加に追いつけない仕事の機会創出など、中国は多くの問題を抱えていた。こうした状況で、多数の若者が仕事に就けない状況が生まれることは、政治的にも不穏な状態を増加させかねない。

 教育機関としての大学を拡大し、若者を一定期間、教育という過程に吸収することで、労働市場へ膨大な数の若者が一気に流入することをある程度緩和できないかという考えであった。大学を本来の教育機関としての位置づけにとどまらず、労働力化に先立つ緩衝装置としての役割を持たせられないかという、日本ではほとんど出てこない発想だった。

大衆化する大学 
 中国の大学および学生数は、その後飛躍的に増加した。大学の大衆化はこの国でも明らかで、外から見ていても驚くほどのスピードで進んだ。今年の夏には国内の大学だけで、630万人の大学卒業生が生まれる。2000年当時と比較して、ほぼ6倍という驚異的な増加だ。来年2010年には、卒業生数は、実に7百万人になると推定されている。2011年には、さらに760万人にまで増加する。大学在学生の18-24歳層に占める比率は、全国では25%を越え、北京、上海など大都市では60%を越えているとみられる。

 中国の大学は、政府にとって対応が難しい教育の場となっている。中国経済の将来を担う高度な能力を持った人材を養成するという大学に期待される本来の役割ばかりではない。なんらかの要因で、大学生が政治や社会に不安や不満を抱き、反政府的な行動にでも立ち上がることになると、体制にとって大きな脅威となる。

 大学生が大きな役割を果たした天安門事件(1989年)に象徴されるように、大学生の抱く思想や行動は、政府にとって看過し得ない大きな関心事だ。幸い、その後は目覚ましい経済的発展と就職市場の流動化が図られ、自分の職業をかなり自分で設計できる環境が生まれたことなどで、憂慮する事件は余り起きなかった。

高まる不安材料 
 しかし、1999年以降、不安材料も台頭してきた。1999年のNATOによるベルグラードの中国大使館誤爆事件、2005年の反日暴動などの勃発である。今年6月には天安門事件の20年目を迎える。政府が憂慮するのは、不況の影響で大学卒業生の就職状況が低迷していることだ。正確な統計はないが、このところ全国大学卒業生の就職率は6割くらいらしい。

 さらに、これだけ大学生が増えてくると、学生の多様化も進む。人生方向が定まらず、親のすねかじりで当面やっていく「老族」や留年したり、キャンパスの片隅に住み込んだりして、なんとか暮らす「頼校族」なども増えているようだ。大学大衆化に伴う学力低下も問題になっている。「大学」とはいえない大学も増えた(これは日本も同じだが)。中国政府は21世紀に拠点となる大学は100校程度としており、大学間の駆け引き、競争も激しくなってきた。

 他方、中央政府・教育部が「重点大学」としている北京大学、清華大学、浙江大学、復旦大学など有名大学では、高度な教育・研究への充実が進んでいる。夜が更けたキャンパス、薄暗い電灯の下で勉強している学生が目につく。以前にも記したことがあるが、野外の電柱の裸電灯の光で英語の本を朗読している学生の姿には感動した。日本ではほとんど見られない光景だった。「お守り?」credentials を得たいとの意味でも、海外留学熱は依然として強い。有名大学ならば、国内大学の卒業免状より「御利益」が大きいと考えているようだ。

虚々実々の対応
 経済危機の影響で企業などの採用が激減している状況に対応するため、中央政府は、大学を出て就職することなく、起業を図る学生には、最大限5万元(7300ドル)の融資を行う。また、進んで兵役に従事したり、貧困な西部の内陸部で働く若者には、授業料の還付がなされる。地方政府によっては、地方で働こうと考える若者にとって、障壁のひとつであった住宅費用の軽減措置をする所も現れた。3年間、過疎地帯の村落で、村役場の職員などの形で働くと、優遇措置が与えられる。全体の労働者の中で、大卒者の比率は未だ6%程度だが、そのウエイトはこの数値以上に重い意味を持っている。

 中国政府は、この機会に青年の共産党員も増やせればと考えているらしい。体制基盤の強化にもなる。確かに大学によっては、入党者が増えているところもあるらしい。1990年代には、青年の党員比率は1%強だったが、今では8%を越えたといわれる。しかし、入党する青年の側にも深謀遠慮があるようで、入社試験に提出する履歴書の目立つ所に、「党員」と書けるのが大きな強みにとなると思っているらしい。志操堅固、指導力ありの証明になるのだろうか。「上に政策あれば、下に対策あり」の国の面目躍如だ。虚々実々の駆け引きが行われている。

 さて、日本はどうでしょう。「漢字検定」の御利益?は大分減ってしまったようですが!

 

Reference
"Where will all the students go?" The Economist April 11th 2009
.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チューリップ・バブル再考

2009年04月15日 | グローバル化の断面

1630年代、オランダで人気を集め、記録的高値を記録したチューリップの一種 Semper Augustus




  チューリップにまつわる話題を前回の続きで、もうひとつ。この花を見ると、しばしば17世紀初めオランダの「チューリップ・バブル」のことを思い出す。90年代以降の世界的なバブルの破綻を目にしてきたからかもしれない。

「チューリップ・バブル」:通説
 1630年代のチューリップのバブルとその崩壊は、世界史上もしばしば注目される出来事として話題となってきた。とりわけ、1636-37年は「チューリップ熱の時代」the age of tulip feverといわれてきた。これまで世界史教科書などで伝えられてきたのは、概略次のようなことだった。


 原産地はオランダと思いかねないチューリップだが、1560年代にトルコから伝来した。17世紀に入ると、オランダを中心にフランスやドイツの愛好者などの間で栽培されるようになった。しかし、普通の家の窓辺や食卓を飾る花ではなかった。最初は、貴族、商人、文化人などが好んで邸宅で栽培した。とりわけ、珍しい貝殻や球根などの収集家の間で、取引対象だった。この花の持つ新奇、斬新さは、当時の貴族、ブルジョア的趣味にも合致していた。

 1636年の夏頃から、オランダでチューリップの球根価格が急騰する。特に新種や珍種の価格は暴騰し、人々は球根が途方もない富を生むと信じて投機に狂奔した。いわゆるバブル的現象である。当時からチューリップは4-5月に開花し、6-9月には古い球根が掘り出され、10-11月に新しい球根が市場に出されて、翌年への準備がされるというプロセスをとってきた。今でこそ栽培技術の進歩で、交配、栽培などの仕組みはすべて分かっているが、当時は珍種や新奇な種は、球根についたウイルスなどによって、花の模様や形状を変えるという突然変異のような結果が生まれたらしい。思いがけない新種が生まれると、人々はそれに夢中になった。特に、赤と白、紫と白などの色で、焔が燃え上がったような花が、高値を呼んだようだ。

 バブルたけなわであった1637年1月の時点で、「フローラ(花と春の女神)のことしか頭にない人々が多数いる」との皮肉なコメントが残っている。実際、この頃、新種や珍奇種によっては、わずかひとつの球根で豪華な邸宅が購入できるほど、とてつもない暴騰を見せていたと伝えられている。ところが、2月に入ると、理由は必ずしも明らかではないが、球根価格は暴落し、膨大な損失を被った生産者、貴族、富豪などが破産するなど、大きな社会的ショックが生じた。「チューリップ・バブル」の崩壊だった。

「風の取引」
 この出来事は、当時のオランダの経済・社会を大きく揺るがした事件として、今日までさまざまな形で語り伝えられてきた。特に、実体と離れた投機的取引の狂騒によって、マクロ経済的にも壊滅的衝撃をもたらした出来事として世界史上知られてきた。

 しかし、果たしてそうであったのか。残念ながら、厳密な検証に耐えるような客観的で信頼に耐える資料、情報がないのだ。この現象を題材として小説や論評の類は多いのだが、ほとんど同じ論拠だった。わずかな数の断片的な資料を基に導き出された、かなり危うい推論だった。

 当時の取引はしばしば「風の取引」windhandel といわれたように、現実にはほとんど実際の球根の授受がなされなかった。この時期、新奇種などの球根の価格が大きく上下動したことは事実だが、実際には手形取引を中心に、紙上での取引だった。取引に対応して球根と金が移動したわけではなかった。

文化的価値体系の崩壊
 しかし、オランダは「チューリップ熱」で、本当に破滅的な影響を受けたのか。1980年代に入ると、17世紀の「チューリップ熱」の実態について、通説の見直しが始まった。その結果、これまでほとんど疑問無く受け入れられてきたような、オランダ経済が壊滅的な影響を受けたという解釈は正確でもなく、客観的でもないという見方が提示されるようになった。

 ガーバー, ゴルガーなどの研究者によると、チューリップ熱はオランダ全体ではなく、アムステルダム、ハールレムなど大都市の限られた層、それも必ずしも富裕とはいえない人々に影響を与えたにとどまっていたとされるようになった。

 そして、このバブルがもたらした最も重大な影響は、従来強調されてきた経済面ではなく、オランダの社会的・文化的な名誉と相互信頼というそれまでの価値体系を破壊、混乱させたことにあったとの解釈が提示されるようになった。言い換えると、文化的衝撃は大きかったが、経済面での衝撃を受けた者はそれほど多くなかったという理解だ。興味深いことに、ゴルガーなどは、経済面にほとんど関心を示していない。

 球根価格の暴騰・暴落は、オランダのチューリップ市場のすべてにわたって起きたのではなく、限られた新種、珍奇種に限られていたともされる。従来、バブル崩壊の指標とされてきた球根価格の資料の普遍性、信憑性にも疑問が呈された。

 結局、1637年に入っての価格急落は、需給要因に加えて、珍種、新奇種の取引をめぐる不確実性、そして売り手・買い手の自己制御の弱さ、不誠実な取引倫理などがもたらしたものと考えられるようになってきた。かくして17世紀オランダ、「チューリップ・バブル」に関する研究は、新しい解釈、問題提起を受けて、興味深い論点が次々と生まれている。ブログの話題としたいトピックスも多々残っている。

オランダ:今も世界一の花王国
 17世紀にこうした出来事を経験したオランダは、今日も世界的な花卉園芸植物の貿易で主要なプレーヤーだ。チューリップを中心に、花の国際的な生産では70%近く、貿易では90%を占める。オランダの花(切り花、苗木など)のオークションを主催する協同組合 FloraHollandは、2008年の時点で、オランダ国内で流通する花(切り花、植木など)の実に98%を扱っている。

 オランダは、世界の花・苗木輸出の60%を占めている。協同組合の花・苗木の輸出先は、ほとんどヨーロッパだ。その最大の相手国はドイツ(28.9%)、続いてイギリス(14.6%)、フランス、イタリア、ベルギー、ロシアである。他方、輸入については,「フローラ・ホーランド」経由でオランダ国内で販売される比率は、全世界の輸入額の15%以下だ。輸入先は、ケニヤ(37.8%)、イスラエル(13.2%) エティオピア(12.2%)、エクアドル、ドイツ、ベルギーなどの諸国だ。

 このように、17世紀の「チューリップ熱」の洗礼を受けながらも、オランダは現代の花卉園芸品取引の世界で、依然として図抜けた地位を保っていることが分かる。

 「チューリップ・バブル」の意味を考えていると、目の前に起きているグローバル大不況に立ち戻ってくる。今回の不況が、世界に大きな経済的衝撃をもたらしていることはいうまでもない。その客観的評価は渦中にある現在では、まだできない。しかし、幸いにも遠からず脱却することができれば、その評価がさまざまになされるだろう。

 今の時点で感じられることは、グローバリズムに関する価値体系が大きく揺らいでいることだ。バブル崩壊の影響は、さまざまではあるが、人々の心の中に入り込み、長らく支配的だった社会の価値体系を変えつつあることは確かだ。将来への不安感の増大、刹那的風潮、虚無感などの拡大、反面で、奢侈からの脱却、節約心、環境への配慮、相互の助け合い(連帯感)、自立心の台頭など、明暗さまざまな変化が進行する。バブル崩壊は、マイナス面だけを拡大するわけではない。バブルにも学ぶことは多い。






References
Peter M. Garber. Famous First Bubbles: The Fundamentals of Early Manias. Cambridge: MIT Press, 2000.

Anne Goldgar. TULIPMANIA: Money, Honor, and Knowledge in the Dutch Golden Age. Chicago & London: University of Chicago Press, 2007.
本書については、大変興味深い点があり、いずれ改めて記したい。

”Dutch flowers auctions” The Economist April 11th 2009

アンナ・パヴォード(白幡節子訳)『チューリップ:ヨーロッパを狂わせた花の歴史』大修館書店、2001年

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

麻薬で壊れるメキシコとアメリカ

2009年04月06日 | グローバル化の断面

 アメリカとメキシコの国境が緊迫感を増している。原因は麻薬密貿易にかかわる犯罪と腐敗の増加にある。その一端は、このブログでも度々とりあげてきた。アメリカ・メキシコ国境の実態は日本ではあまり知られていない。10年余り前、日米共同でカリフォルニア南部の移民労働者調査をした当時、すでに麻薬、銃砲などの密貿易が問題化していたが、今日伝えられるほどひどくはなかった。事態は急速に悪化したようだ。

 いまや国境地帯、とりわけ南側はいたるところで無法地帯化し、メキシコ自体が国家として崩壊寸前の危機にあるとまでいわれている。最近アメリカで発表された軍の報告書は、世界で崩壊の瀬戸際にある国として、パキスタンとメキシコを挙げた。この指摘を問題視したカルデロン・メキシコ大統領は、麻薬貿易はメキシコだけの問題ではなく、アメリカが不法に大量な麻薬を飲み込んでいるからだと反論した。需要があるから供給する者が生まれるのだという考えだ。

ようやく立ち上がるアメリカ
 こうした展開にオバマ新政権も、立ち上がらざるをえなくなった。
2月に急遽メキシコを訪問したヒラリー・クリントン国務長官も、「アメリカの飽くことない麻薬への需要が、麻薬密貿易の火に油を注いでいる」ことを認め、「アメリカが銃火器が不法にメキシコへ密輸され、麻薬取引業者の手に渡っていることを防ぎ得ていないことが、密貿易の増大と(メキシコにおける)警察官、兵士、市民の死を生むことになっている」と述べた。アメリカ側にも大きな問題があることを認めたこのヒラリー発言は、メキシコでは好感をもって迎えられた。
 
  少しさかのぼると、2006年11月、メキシコのカルデロン大統領は就任後、麻薬犯罪、密貿易撲滅に乗り出した。しかし、就任以降、国境地帯における麻薬密貿易をめぐる犯罪はむしろ急増した。過去2年余りの間に密貿易に関わり、国境地帯で1万人以上が死亡、そのうち、2008年には6,268人が死亡した。

 麻薬密貿易はメキシコ、そしてアメリカを蝕み、特にメキシコについては国家を揺るがすほどの大きな脅威となってきた。クリントン長官のメキシコ訪問の後、4月に入ってナポリターノ国家安全保障庁長官とホルダー検事総長が相次いでメキシコを訪れ、対応を協議した。オバマ大統領も間もなく、メキシコ大統領と協議する模様だ。事態の深刻さを思わせる。アメリカ側としては、麻薬組織(カルテル、マフィア)の暴力が、国境を越えて
北上してくることを懸念している。

 他方、メキシコ側は、問題の根源はアメリカ側にあるとして、アメリカが麻薬密売の取締り、銃火器、資金の北から南への移動を阻止することを望んでいる。しかし、これはアメリカにとってきわめて難事だ。オバマ大統領は、関係省庁に南への貨物輸送などの検問を厳しくすることを命じているが、メキシコ側は銃火器の密輸の源を摘発、禁止することを求めている。アメリカ側の国境近辺には7500近い銃砲店があるといわれる。しかし、正当な自己防衛のために銃砲を所有することを主張するアメリカ側保守派は、ロビイ活動などで頑強に反対している。

深く食い入る麻薬組織
 こうした中で、麻薬組織は着々とその魔手を伸ばしてきた。メキシコの組織犯罪取締りの責任者であるノエ・ラミレレ検事総長自身が、麻薬ギャングから毎月なんと45万ドルという巨額の賄賂を受け取っていたことが最近発覚した。彼の周辺でも同様な賄賂を受け取っていた者が多数いた。組織犯罪は国境の警察などの捜査の末端から、メキシコの政府中枢部にまで深く入り込み,浸食していた。こうした事実は、すでにかなり以前から問題とされてきた。しかし、麻薬犯罪によって、組織自体が機能しなくなっており、立て直しはきわめて困難であった。大統領がいくら捜査、摘発の強化を説いても、情報はすべてギャング組織に筒抜けであった。検察体制の上から下まで、犯罪組織が深く入り込んでいる。

 さらに、ギャングは大企業の脅迫、人身売買、誘拐などに手を伸ばしており、国家の安全の土台を脅かし,揺るがしている。さらに、コロンビアなどの中南米諸国の麻薬組織とつながり、その魔手は海外まで拡大しているらしい。

追いつかない対応
 アメリカ・メキシコ国境には、ブッシュ政権時からフェンスの増強を初めとして、ヘリコプター、探査装置の導入、パトロールの増員など出入国管理体制の強化が行われてきた。しかし、急激に増大する犯罪に対応が追いつけない。

 メキシコだけでは、とても対応できないと限界を感じたカルデロン大統領は、密輸の相手国であるアメリカに対して、不法な麻薬取引が放置されていると非難してきた。さらに、非はメキシコ側にあるとするメディアの報道のあり方を問題にしてきた。今年1月に行われたオバマ大統領とカルデロン大統領の会談では、麻薬密貿易問題は最大のテーマとなった。それが両国の安全保障を脅かすものとなっているとして、「戦略的パートナーシップ」のアイディアが提案された。巨額な費用を要する改革だ。

 これまで比較的軽視されてきたのは、大量の麻薬を受け入れるアメリカの需要サイドの解明と対応だ。そこには、メキシコに劣らないギャング組織が存在、活動している。就任早々からかつてない大きな試練に迫られているオバマ大統領だが、アメリカ発のグローバル大不況の消火に懸命で、国境を越える密貿易問題までは十分対処ができていない。グローバル不況の下で、密輸ビジネスだけが繁栄している。

 密輸カルテルの側は巨額な資金を保有している。メキシコ北部の取締が強化されると、拠点を南部へ移し、アメリカばかりでなくヨーロッパも密輸先とするなど、新たな展開をしているようだ。軍隊組織に近いほどの装備と命令体系を保持しているともいわれ、その根絶はきわめて難しいらしい。

 メキシコは、麻薬密輸組織という全容がよく分からない敵と戦っている。国際テロとの戦いと変わらない。その戦いの勝敗は、高度な情報戦を制しうるか否かにかかっている。メキシコはアメリカの力を必要としている。他方、オバマ大統領は自国発の大不況の消火に懸命で、国内の麻薬需要の摘発や不法な銃砲の密輸などへの対応には及び腰だ。大統領選のころは、まさかこれほど重大な問題が山積しているとは思わなかったろう。オバマ大統領への期待があまりに大きいだけに、少なからず心配になる。

 


 
References
"On the trail of the traffickers." The Economist, March 7th 2009
 "Don't keep on trucking"The Economist March 21 2009.
"Taking on the narcos, and their American guns"April 4th 2009.

追記:4月14日BS1「きょうの世界」も、この問題を取り上げていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Uターンできない自動車:盛者必衰(4)

2009年03月27日 | グローバル化の断面

Henry Ford Estate Museum


 記憶に残るイメージのスナップショットのつもりで書き出したのだが、段々と重くなってしまった。今回で、ひとまず車庫入りにしたい。

 東京モーターショウの出店企業数は、前年のほぼ半数となるらしい。メルセデス・ベンツ、フォルクス・ワーゲンなども出展を見合わせたようだ。2月の日本の自動車生産は、前年比で50%強の衝撃的な減少だ。

 他方、インドではタタ・モーターズが20万円強の新車発売を発表、購入希望が殺到しているという。インドの2月の新車販売は、前年比20%増らしい。大きな地殻変動がグローバルな次元で起きていることを思わせる。

 今回の自動車危機は、複雑な要因が絡み合っている。金融危機は津波のように瞬く間に実体経済へと波及し、破綻の端緒となったアメリカの住宅産業から、自動車産業を襲った。グローバル化が進んだ産業であるだけに、たちまち世界中の自動車企業が呑み込まれてしまった。  

アメリカ自動車企業の破綻
 金融危機と同様、自動車産業についてもアメリカ発であった。危機はかなり長い年月の間、表面化することなく、デトロイトの深奥部まで達していた。金融危機がそのすさまじさを世界に突きつけてから、未だ日の浅い昨年秋の段階で、ビッグスリーの状況はきわめて重篤であることを世界に知らしめた。  

 ビッグスリーは、米国議会の公聴会で、サブプライム問題とそれに伴う世界的な消費低迷を理由に、公的資金による支援を訴えた。サブプライムは、住宅産業ばかりでなく、自動車産業においても長年にわたり深く巣くっていた病因を増長し、急性増悪させた。とりわけ、ビッグスリーは自動車ローン問題という独自の重病を抱え込んでいた。本来ならば,自動車など買えない層に、住宅と同様に購入させる仕組みを作り上げていたのだ。事情を知る関係者の間では、いつか破綻する日がくると思われていたが、皆悪い話題には触れたがらなかった。

フォーディズム時代の終焉 
 こうした中でトヨタをはじめとする日本企業は、先進的な経営、労使協調などの点で世界をリードしてきた。その特徴をきわめて単純化していえば、大量生産様式としてのフォーディズムの極致をきわめたといえるのではないか。アメリカ市場における消費者の信頼を獲得し、評価も確立していた。それなのに、なぜ日本企業も大きな打撃を受けたのか。  

 時代は大きく変化していた。生産の標準化を前提に、極度の分業とコンベヤーの最大限活用によって、大量生産を行うフォード・システムは、長年の間に極限に近いまで「カイゼン」が進められてきた。その範囲は、単に生産システムの範囲に留まらず、受注から生産、販売、金融までを包括する一大システムとして、完成されてきた。このシステムの極致とまで称されたものが、トヨタが主導、開発した「トヨティズム」ともいわれる体系である。資本主義的生産方式のひとつの極限モデルといえるかもしれない。  

 このシステム、さまざまな衝撃緩衝機能を内包し、通常予想される景気変動には十分耐えられるはずであった。だが、このたびのアメリカ発大不況の最終需要減少幅は、想定を大きく上回り、通常の生産減、在庫減少などの調整では対応できなくなっていた。その結果、短期間に派生需要としての雇用の急激かつ大きな減少をもたらした。

 なかでも、変動への調整装置の役割を負わされている下請け、部品企業を中心とする労働者、外国人労働者などが直ちに削減の対象となった。 彼らの多くは、派遣労働者などの形態で、当初から調整弁として位置づけられてきた。レイオフが制度化しているアメリカでは、短時間に大量の失職者が生まれた。記録的な業績を誇っていた企業が、直ちに大幅な雇用削減に踏み切ったことについては、もう少し内部で持ちこたえるべきではなかったかなど、さまざまな批判もある。アメリカ、イギリスなどでの経営者の高い報酬への攻撃は広まるばかりだ。デトロイト3社の幹部は、世論の厳しさの前に、さすがに報酬を辞退しているようだが。

 巨大化したシステムは、地域的、部分的な衝撃には対応できていたが、同時、グローバルな衝撃を受け、あっけなくもろさを露呈した。日本企業も現地生産、輸出、そして本国市場のすべてにおけるほぼ同時的な消費需要の急減には、内在する緩衝機能も対応できなかった。ひとつには、危機の前まで、供給ラインのパイプは在庫調整、生産調整もほとんどなく、一杯に詰まっていたと思われる。   

 システム自体が、自己調整を不可能にするほど巨大化していた。従業員数だけみても、GMの場合、米国内で約104,000人、世界中では約263,000人と言われている。ディーラー数も7,000と言われ、下請けや部品供給会社も含めると、その裾野は広い。デトロイトだけでも3万点の部品、2000の部品企業が必要といわれる。破綻した場合の影響がいかなるものとなることは容易に想像がつく。

近未来への胎動
 今回のグローバル大不況から脱却しようとする産業・企業の必死の努力で、自動車産業は激烈な淘汰が進むだろう。ハイブリッド車、電気自動車などのクリーン・エネルギー化ひとつをとっても、新型エンジンと電池の開発、軽量化など、部品やエネルギー企業を巻き込む一大変化が進行している。すでに生き残る企業と淘汰される企業の明暗は、はっきりとしてきたようだ。時代の先を読み切れる企業だけが生き残る。

 自動車需要は先進諸国では、飽和状態だ。唯一残るのは、インド、中国などの人口大国、開発途上国の中産階級が支える市場だ。小型、軽量化、低廉な価格設定が勝敗を分ける鍵となるだろう。

 さらに、巨大化し過ぎて、動きの鈍くなった企業をスリム化し、外部の変化に迅速に対応できる企業への自己変革が行われるだろう。20世紀を象徴してきたフォーディズムは、終幕の時を迎えている。しかし、自動車産業がなくなるわけではない。新しいシステムが生まれるだろう。10年後、20年後の自動車産業の姿は、現在とはきわめて異なったものになるのではないか。廃墟の中からどんなフェニックスが生まれるだろうか。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Uターンできない自動車:盛者必衰(3)

2009年03月18日 | グローバル化の断面

晴れた日にはGMが見える
 
グローバル不況の大津波は、世界中の自動車企業を水面下に飲み込んでしまった。今後、水面に顔を出せるのは、どの企業だろうか。浮かび上がれず消えてしまう企業が出るのも、ほぼ確実だ。明暗を分けるものは、これまで培ってきた基礎体力と、新しい時代への革新力だ。

 日本企業は比較的有利なポジションにあるが、予断は許さない。今回の大不況でも、先進国中最も損傷が少ないと政府が胸を張っていた国だが、今や傷が最も深い国の中に数えられている。

 過去をどれだけ未来に生かすことができるか。肩に背負う重荷は、企業ごとに大きく異なっている。今後の行方を見定めるためにも、前回に続き、いくつかのスナップショットを思い起こしてみよう。
 
 1980年代以降、アメリカ自動車市場における日本など外国勢の台頭は目覚ましかった。その背景には、消費者のニーズを的確に捉えた日本、韓国、ドイツ
など外国企業の対応があった。燃費効率が高い中小型車に特化して開発を進め、ビッグスリーよりも低コストで供給してきた。  

 他方、GM、フォードなどビッグスリーは、さまざまな問題を抱えていた。フォードについてみると、ヘンリー・フォードによる創立以来、フォード家三代の親子の確執、アイアコッカのフォードへの反逆など、枚挙にいとまがないほどだ。そして、GM、フォードなどの巨大化、官僚化した組織、消費者のニーズに応えられない実態など、ビッグスリーには共通の問題が内在していた。  

 こうした実態を摘出し、厳しく批判する本も多く出版された。パトリック・ライト(風間禎三郎訳)『晴れた日にはGMが見える』新潮文庫、1986年、アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『自動車』などが思い浮かぶ。  

 これらの作品で描かれる主役のひとり
となったGMの副社長ジョン・デロリアンは、社内抗争に敗れ、退社する。その背景には、GMが技術革新を怠り、数々の戦略的失敗を重ねたこと、組織の停滞、デトロイト上流社会の退廃などに失望した事情などがあった。そして、新天地を求めて、アイルランドのベルファスト郊外へ、デロリアン・モーターの名で工場を建設、鳥の翼のようなガルウィング・ドアの新モデルを生産し始めた。しかし、その後本人が麻薬所持の疑いで、空港税関で逮捕されたことなどもあって、企業閉鎖に追い込まれた。後に無罪放免されたようだが、事業は結局実らなかったようだ。 


新しい天地で 
 前回も記したが、1980年代初め、テネシー州スマーナの日産自動車の工場を訪れた時にインタビューした現地法人社長M.R.氏は、元フォードの製造部門担当の副社長をつとめた技術者だった。フォードには37年間勤続した後、日産へ移った。彼は、デトロイト企業の問題点、体験したさまざまな歪みなどを率直に述べてくれた。なかでも、消費者の好みなど市場の動向を、経営上層部が正しく把握していないと語っていたことが印象に残った。情報が経営者のところへ届くまでに、組織内部の駆け引きなどで都合のよいように歪められてしまったのだ。デトロイトはどこかおかしいと感じたそうだ。デロリアンの話と重なって興味深かった。  

 同氏はデトロイトではできなかったいくつかのことを、日本企業という新天地で実施してみたいと、フランクに話をしてくれた。自ら作業着姿で、建設現場の陣頭指揮をしていたことがイメージとして強く残っている。

組合のない企業 
 1980年代初め、日本企業は、ビッグスリーと比較すると、確かに積極性、独創性などにあふれていた。アメリカに工場を持っていたのは、オハイオ州メリスヴィルのホンダ、テネシー州スマーナの日産など未だ少数だった。

 この段階では、日本企業はアメリカへの直接投資にきわめて慎重だった。いずれも労組加入が強制されない(ユニオン・フリー)、保守的な南部を工場立地へ選んでいた。しかし、そこでは日本で試行錯誤の上、培われてきた日本独自の生産様式が、新たな立地(グリーンフィールド)の上に花開きつつあった。  

 そして、急速に日本車の高い品質が、世界で注目を集めるようになった。それを支える「カンバン方式」「カイゼン」などの日本的経営は、80年代からアメリカ企業が争って導入を図るようになる。しかし、今回の危機にいたるまで、アメリカの経営・労働の風土にはまだ十分根付いていなかったことを改めて知らされた。

 こうした状況で、外国企業は89年のトヨタ「レクサス」を初めとして、高級車市場にも参入した。ビッグスリーは次第に追い込まれ、合併したダイムラー・クライスラーも、経営に失敗し、クライスラーは07年に売却された。

悪しき労使関係のもたらした重荷 
 UAWという強力な労組との関係もあって、ビッグスリーの労務費は、在米日本企業よりも明らかに高い。もっとも「ビッグスリー」の名に値したのは、アメリカという巨大市場を3社が長らく独占的に支配していた時代のことである。強力な労働組合との交渉を背景に、労務費上昇を市場支配力を介して製品価格へ転嫁してきた。結果として、じわじわと競争力を失ってきた。  

 デトロイトなど組織率の高い北東部の工場と、日本、韓国(現代)、ドイツ(BMW、メルセデス・ベンツ)など外国企業が位置する組合未組織の南東部の工場の間では、賃金率および各種手当の双方において、顕著な差がみられる。特に、ビッグスリーにとって、多額な年金と健康保険給付の支払いが、次第に負担しがたいほとの重荷となってきた。 いわゆるレガシー・コスト(過去の負の遺産)である。 

 こうした厳然たる事実を前に、UAWなど労働組合への風当たりも強まり、かつては50万人近かった組合員数も、7万人台にまで激減している。2007年末の争議の結果、GMはUAWとの協定に基づき、UAWが管理する特別信託基金へ300億ドル以上を譲渡し、長年にわたった巨額な健康保険債務から解放された。しかし、GMの企業価値は低下し、企業力も大きく弱化した。フォード、クライスラーも、ほぼ同様な道をたどった。  

 そして、2006年には日米の販売台数は逆転するというかつては想像しえなかった変化を迎えた。しかし、それが今回の危機の直接的原因ではない。
(続く)



* パトリック・ライト(風間禎三郎訳)『晴れた日にはGMが見える』新潮文庫、1986年)On a Clear Day You CanSee General Motors,アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『自動車』(Arthur Hailey. Wheels, 1980)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Uターンできない自動車:盛者必衰(2)

2009年03月15日 | グローバル化の断面


 1960年代末、未だ繁栄していたデトロイトを最初に訪れた時、自動車を世界へ送り出したこの地の先進性に大きな感銘を受けた。フォード、GM、クライスラー、それぞれに多くの変転を経験していたが、あの頃のデトロイトは輝いて見えた。最後の残光だった。その後調査などで何度か訪れたが、衰退の色は濃くなるばかりだった。

 最近会ったオーストラリアの友人が、見てきたばかりのデトロイトの惨状を知らせてくれた。一時期、共同してこの産業の国際調査をしたことがあった。彼にとってもデトロイトの最近の衰退の現実は、予想した以上にひどく、衝撃的だったらしい。話を聞きながら、スナップショットのように思い浮かぶイメージがあった。その中から2,3を記してみよう。

ビッグスリーの時代
 第一次石油危機前、しばらくアメリカ生活をしていた頃、日本の自動車の対米輸出が始まっていた。しかし、日本車は性能が悪く、サンフランシスコの坂を上れないという「うわさ話」がまことしやかに伝えられていた。路上に日本からの車など、ほとんど目にしたこともなかった。大きく洗練されたデザインのアメリカ車と比較すると、日本の車のイメージは野暮ったく見えた。自動車より前にアメリカ市場で人気があった「HONDA」のモーターサイクルは、スペイン製だと言い張るアメリカ人がいた。発音がスペイン語に似ていたからそう思い込んだのだろう。車はめったに洗わないが、ホンダのモーターサイクルは納屋に入れ、ピカピカに磨いている友人もいた。彼らにとって、自動車は使い捨ての耐久消費財だが、モーターサイクルは別なのだった。  

 この時代、アメリカの消費者にとって、自動車といえばビッグスリーにほとんど限られていた。外国車はスポーツカー、趣味などで、限られた人たちが特別の目的で購入するものだった。8気筒のアメリカ製大型車は、ガソリンを撒いて走っているようだったが、居住性は良く、走行の安定感もあって、アメリカ文化の象徴だった。ハイウエイで巨大なトレイラーに追い越されても、小型車のような恐怖感はなかった。日本にはなかった体育館のように巨大なスーパーマーケットで、カートで2-3台分の買い物をしても、十分収容できるスペースがあった。カルチャー・ショックのひとつだった。

 振り返ると、この時代、ビッグスリーの最後の輝きだった。少しずつではあったが、日本やドイツなどの外国車が、アメリカ市場に拠点を築きつつあった。  

UAWが恐かった時代
 80年代初め、訪問の機会があったホンダ、オハイオ州メリスヴィル工場で最初に生産していたのは、乗用車ではなく、日本では生産できない大排気量(900cc, 1100cc)のモーターサイクルだった。進取の気性がある同社も、最初からアメリカでの自動車生産は自信がなかったのだ(メリスヴィルでの4輪車生産は1982年)。しかし、当時、年間生産6万台といわれた同工場生産のモーターサイクルは、Made in USA の刻印も誇らしげに出荷されていた。

 工場近辺には「大鹿に注意」の道路標識が出ていた。州都コロンバスから車で走ると、ほとんど田園地帯であり、労働組合の勢力が弱い地域であった。当時、アメリカへ直接投資をする日本企業は、いずれも労働組合を恐れていた。アメリカの労働組合は、「ビッグ・ビジネス」に対抗する「ビッグ・レイバー」として、強大な力を持つと考えられ、対米投資の際、経営者が躊躇する大きな要因だった。

 日産のテネシー州メリスヴィル工場も、最初は小型トラック生産だった。工場は、ナッシュヴィルから車で1時間近くかかったろうか。広大な野原の真ん中にあった。ローカルな飛行場跡に建設されたとのことだった。日本の立地の制約を受けた、狭苦しい工場を見ていた目には、技術者が白紙の上に理想の工場を設計したようで、その壮大さに大変感動した。日本もここまでやれるのだという思いがした。

追い越し車線の日本
 自動車産業を観察していて、最大の転機は、1973年に勃発した第一次石油危機だ。自動車需要は、省エネルギー化の大きな影響を受け、急速に中・小型車へと傾斜した。大型車開発をあきらめて、小型車に特化していた日本企業にとって、石油危機は願ってもない幸運をもたらした。

 ほどなく怒濤のような対米輸出が始まった。アメリカのハイウエーを日本車が席巻していたような光景もみたことがあった。それは、日米貿易戦争、対米直接投資の増加へとつながる道だった。  

 ビッグスリーは、小型車開発の技術的遅れなど、すぐに取り戻せると高をくくっていたようだ。しかし、その差はなかなか縮まらない。日本車はアメリカ国内市場を急速に浸食し始める。アメリカ人の仕事が奪われるとして、労働者が日本車を目の敵として、打ち壊すシーンが報道された。バイ・アメリカンの動きが台頭していた。80年代初め、インタビューのために訪れたデトロイトのUAW(全米自動車労働組合)本部には、「日本車のパーキング・スペースはない」とのポスターが掲げられていた。  

 80年代に入り、日本企業の優位とデトロイト企業の衰退が一層顕著になった。日本企業の技術力と品質の良さが、確実に競争力の源泉となっていった。長い間、「安かろう、悪かろう」の意味を持っていたMade in Japan は、一転して質の良い優れた製品の代名詞になっていた。 鎌田慧『自動車絶望工場』の英語版 Japan in the Passing Lane: An Insider's Account of Life in a Japanese Auto Factory あるいは、デイヴィッド・ハルバースタム『覇者の奢り:自動車 男たちの産業史』)*など、台頭する日本と追い込まれるアメリカの自動車産業の内幕を描いた作品が注目を集めていた。自動車ばかりでなく、日本経済が追い越し車線を走っていた時代だった。  

 80年代には日本などの外国企業が、アメリカ市場に一斉に参入した。日本企業はアメリカの労働組合の強さなどを恐れ、対米投資をためらっていたが、堰を切ったように、次々と直接投資へ踏み切った。

 今日、組合が未組織で人件費が安い南部諸州中心に日系8社の工場が稼働している。かつて、国内市場をほとんど独占していたビッグスリーは、いわば足下の本丸まで攻め込まれた形になった(2008年にはビッグスリー合計でも市場占拠率が50%強までに落ちた)。しかし、ここまでの路程も決して平坦ではなかった。
(続く)

*
Satoshi Kamata. Japan in the Passing Lane: An Insider's Account of Life in a Japanese Auto Factory, 1982.
David Halberstam. The Reckoning, 1986(邦訳:デイヴィッド・ハルバースタム、高橋伯夫訳『覇者の奢り:自動車 男たちの産業史』)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Uターンできない自動車:盛者必衰(1)

2009年03月10日 | グローバル化の断面


  2007年12月、アメリカではロールスロイスが27台売れた。しかし、2008年12月は文字通り1台も売れなかったそうだ。並みの不況ではない。虚栄のシンボルも崩落しているのだ!

 昨年末以来、世界の自動車企業の慌てふためきようを見ていると、やはりひとつの時代が終わろうとしているとの思いがしてくる。マスメディアの多くは、金融危機から発した自動車需要の減少幅が異常に大きいという側面を強調し、2-3年後には以前の水準を回復するとしているが、果たしてそうだろうか。今日の自動車不況の深層に
読めるものは、単なる需要の数的な減少だけではない。自動車産業の盛衰を大きく左右する決定的な地殻変動が起きているように思われる。

フォーディズムの終幕
 ひたすら販売台数の増加を追い続けてきた「フォーディズム」(フォード自動車会社が導入した大量生産をベースとする経営管理方式)に基礎を置いた生産・販売の体系自体が、根底から揺らいでいる。言い換えれば、多大なエネルギーを消費する自動車を重要な移動の手段とし、その上に築かれた文明自体が、決定的な曲がり角に来ているように見える。

 簡単に締めくくってしまえば、20世紀を支配してきた「フォーディズム」が、終幕を迎えるということではないか。フォーディズムの極致ともいわれるトヨタ生産方式(トヨティズム)だが、今回の不況にはいとも簡単に弱点を露呈してしまった。フォーディズムの時代が終幕を迎えていることは、ほとんど疑いない。しばらく我慢すれば、また忘れたように販売台数を競い合う時代が来るとはそう簡単には思えない。

 オバマ新大統領の議会演説にも、この巨大化を追い求めた上に、破綻して、国家の手にも負えなくなった産業、企業について、確たる処方箋が描けない苦悩の一端がうかがわれた。本来購買力のない消費者にまで車を買わせてきたオートローンの決定的失敗を含めて、地域の衰退など、病状はきわめて深刻だ。

昔に戻れるのか
 自動車産業は以前の状態に戻れるのか。答えは「否」である。はっきりしているのは、不況前の状態への復元はありえないということだ。とりわけ注目が集まるデトロイトのビッグスリーについては、存続自体も危ぶまれる惨状を呈している。
 
 2月17日、GMとクライスラーの2社は、経営再建計画を提出した。両社併せて約5万人の人員削減計画を新たに打ち出す一方で、実施済みの緊急融資増額174億ドル(約1兆6千億円)に加え、新たに最大計216億ドル(約1兆9800億円)の追加融資を求めた。その直後に明らかにされたGMの昨年の赤字額は、3兆円に相当するという惨憺たる有様だ。3月5日には、GMの監査法人が破産に近い状況と厳しい報告を提出した。フォードは、なんとか自力で再建の道を探っているようだ。しかし、こちらも前途は厳しい。 

 アメリカという自動車を生み出した国で、そのすさまじい崩落を見るのは、耐え難いことだろう。しかし、公的資金をこれ以上投入しての救済は、さらに泥沼状態へ入ることであり、アメリカという国の精神的基盤をも否定しかねない。

 アメリカ企業ばかりでなく、トヨタに代表される日本企業、そして欧州企業も、ほとんどエンスト状態だ。わずかにインド、中国などが、かろうじて前年比プラスで健闘しているにすぎない。 それも多くの優遇策を講じての上だ。昨年の記録で自動車の販売落ち込み(前年比)が著しいのは、国別ではスペイン、アメリカ、日本など、企業別ではクライスラー、現代、トヨタなどだ。VWグループなど、ドイツ系企業が比較的落ち込みの程度が少ないといわれているが、これとても程度の差にすぎない。 これまでの経緯を見ていると、危機は想像以上に深刻であり、その原因も複雑であることが伝わってくる。

再生への手がかり
 金融部門と違って、自動車産業のような実体経済は、これほどまでに自壊してしまうと、復元はきわめて困難だ。生産から販売まで複雑な仕組みが、グローバルな次元で広がっているからだ。とはいっても、今回の大不況で自動車産業自体が消滅してしまうわけではない。しかし、いくつかの企業の名は確実に消え去る。そして、新しい構想に基づく自動車産業の体系が確立されるまでには、かなり時間がかかるだろう。産業内部の大きな再編が必要だからだ。

 幸い、再生のための材料、手段は残されている。この産業の将来は、消費者を含めて、関係者が描き、共有するヴィジョンいかんに大きくかかっている。とりわけ、新エネルギーへの転換、中国、インドなど、自動車の普及度が低い国々の中間層への対応、代替公共交通手段の充実などが鍵になるだろう。アメリカでは運転者人口の1人に1台だが、中国では100人に3台という普及率自体、さまざまなことを考えさせる。

 これからしばらく、自動車産業という名は残っても、内容は大きく異なる新しい産業への転換過程になると見るべきかもしれない。ハイブリッド、電気自動車など、クリーン・エネルギーへの移行ひとつとっても、既存の生産様式、部品生産などに大きな変革が必要になる。石油、電力などエネルギー関連産業への衝撃はとりわけ大きい。

 この大不況という舞台の暗転は、対応いかんでは新たな活力を秘めた時代への幕開けともなり得る可能性も秘めている。いずれにせよ、10年単位のかなり長い転換の時間を擁するだろう。幸い新たなイノヴェーションを創り出す素地は、多く残されている。「創造的破壊」の嵐が吹くことになるに違いない。部品、組み立て、販売を含めて、自動車産業の全局面を覆う激しい淘汰と新生の動きが見られるはずだ。

 とてもブログの視野に納められるようなテーマではない。ただ、第一次石油危機の前から、ひとりの観察者として自動車産業を眺めてきた。国内外の現場を訪れたことも多く、さまざまな感慨がスナップショットのように網膜に浮かんでくる。その数コマだけを記してみたい(続く)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人労働者が争議の原因?:EUとイギリス

2009年03月04日 | グローバル化の断面

  世界に雇用削減の嵐が吹いている。メディアが解雇反対など労働争議のニュースで覆われてもおかしくない。しかし、ストライキとか争議 にかかわる記事はあまり見かけない。

 日本についてみると、第一次石油危機以降、労働組合などが主体となった集団的労働争議は、急速に減少した。代わって、個人の利害関係を背景とした個別労働関係紛争が増加した。それでも、メディアへの紛争・争議の登場は少ない。

 そうした中で、目についた記事があった。イギリスでの労働争議である。日本も関連している。最近、日本の日立製作所は英国の高速鉄道車両にかかわる総額75億ポンド(約9600億円)相当の受注に成功した。車両数では最大限1400両になると言われている。この大不況時、日本企業にとっては喜ばしいニュースだ。

仕事を奪われる?
 ところが、イギリス最大の労働組合のひとつ、鉄道・海運・運輸労働者全国連合(RMT)は、イギリス人労働者の仕事の機会を奪われると反対している。仕事の機会が外国へ流れてしまうというのがその理由だ。実は、こうした争議はイギリスでは、他にも起きている。

 リンゼー石油精製所 Lindsey oil refinery では、去る1月28日から工場外でのデモが始まった。精製所拡大のために外国人労働者が雇用されることへの反対が理由だ。イギリスでは、1984年の炭鉱争議以降、労働法上は違法な争議行為なのだが、同情ストが頻発してきた。同情ストは今回も発生。2月4日現在で、争議は22地点へ波及、約6000人が参加した。

 日立製作所の受注、そしてリンゼー製油所の場合もそうだが、労働組合の反対理由が、これまでのストの原因である賃金その他の労働条件の域を越えて、拡大していることが注目される。

移民労働者への不安
 たとえば、上述のようなイギリスでの移民・外国人労働者をめぐる紛争・争議の背景には、 仕事を喪失することへの恐れ、増える外国人労働者への憂慮、そして移民政策一般、未だ遠い存在ではあるが、いつの間
強力になったEUの権力への不安、そして自分たちに同情的でなく、伝統的な支持者の多くに関心のない現在の労働党への幻滅など、さまざま要因が絡み合っている。

 争議の内容も、従来の争議と比較するとかなり捻れている。リンゼー製油所の例では、製油所を所有・経営するトタール社(フランスの石油企業)が、アメリカ、カリフォルニアのエンジニアリング会社ジェイコブスを起用した。ところが、ジェイコブスは仕事をイタリア企業IREMに外注した。このイタリア企業は、自社の百人近いパーマネント・スタッフ(イタリアおよびポルトガル人)に仕事をさせるべく、イギリスに送り込んだ。その後も、さらに数百人が加わることになっている。

 契約は秘密なので、なぜ仕事がイギリス人ではない外国人に委託されるのかは明らかにされていない。IREMは、イギリス人ではないティームと仕事をした経験があり、彼らの能力が高いと考えたようだ。

 ストライキに参加したイギリス人労働者は、国外からの新参者は地域の賃金、労働条件を引き下げているという。これについてはIREMもTotal社も否定している。法的にもスト実施者側の基盤が確固としているわけではない。


 EU加盟国民はどこの国でも働くことができる。しかしながら、IREMの労働者は、イギリスではEUの特別な指令、posted workers directive*の下で働いている。一種の自国外への派遣労働者である。競争をゆがめることがないことを条件に、派遣元企業が彼ら自身のスタッフを、ヨーロッパのいずれの国でもテンポラリーなプロジェクトで働かすことができるよう送り出す仕組みである。

 たとえIREMの労働者がイギリスで、イギリス人労働者(この例では、正確にはイギリス最大の組合UNITE)の労働条件よりも低い水準で働いているとしても、EU基準を下回らない限り、それはただちに不法というわけではない。その点に少し立ち入ってみよう。

困難なEU法との整合
 外国人労働者は、EU労働法の下で、ローカルな労働者と同じ権利を与えられている。大陸では「公正賃金」ルールが、特定の仕事に特定の賃金を設定している。イギリスでは、企業は少なくも全国最低賃金だけは支払わねばならない(時間賃率5.73ポンド、8.30ドル)。この水準は、イギリスの建設産業の多くの仕事をカヴァーしている全国協定で定められた率(組合賃率)よりもかなり低い。

 2007年、「イギリス人労働者にイギリスの仕事を」と述べたゴードン・ブラウン首相は、批判の的となった。その後、保護主義は「景気後退を不況」にするとして、態勢を立て直した労働党だが、イギリス経済の環境は厳しく、党内の舵取りも難しい。

高まるナショナリズム
 グローバル大不況の浸透で、ナショナリズムの動きは強まっている。スペインでは、ザパテロ首相は自ら打ち出した公共事業計画で、失業者の救済を掲げ、30万人の新規雇用を創出するとしている。これについてEUは、失業者救済はよいとしても、これらの仕事に雇用される労働者を地域の失業者やスペイン人だけに限定はできないと釘を刺している。

 同様な論理は、イギリスについても適用される。イギリスで働く外国人が、イギリスの競争相手の労働条件を「切り下げている」と非難される場合である。EU単一市場の論理は、域内のいかなる地域であろうとも、競争原理が働くようにすることにある。このことは、イギリスの水準よりも低い労働コストで働く外国人労働者、たとえばポーランド人労働者をイギリスに受け入れることも(EU基準を充たすことが条件だが)認められるということだ。EUが従来の加盟国よりも、相対的に貧しい国々を加盟させるにつれて、以前からのヨーロッパ諸国の労働組合は、これまで獲得してきた水準を維持することに難しくなっている。

錯綜する現実;頻発する争議
  短期には願いもかなえられた部分もある。今回の場合、トタール社が約100人分の仕事をイギリス人に保証したことで、2月5日ストライカーは職場へ戻ることを選択した。しかし、山猫ストもあり、雇用削減不況への恐れが浸透している。

  しかし、トタール社の争議が下火になったころ、代わって別の争議が発生した。2月5日、建設労働者が、Alstom(フランスの企業)のロンドン支社の前に集まった。この企業は、ノッティンガムシャーの新しいステイソープ発電所の建設に加わろうとしている。仕事はイギリス国外の下請け企業が請け負う。

 エネルギー産業は、2012年ロンドンオリンピックを目指して、大きなブームの対象になる。ステイソープは新しいガス発電所のひとつだ。代替エネルギーの補填として、石炭および原子力発電所も計画途上にある。

 イギリス企業は、これらのある部分は引き受けることができるだろうとみられている。しかし、外国企業は、より高い技術を保有しており、どうしてもその起用が必要となる。労働組合の反対にもかかわらず、空洞化が進んだイギリスの製造業では、それらの仕事を国内の企業、労働者では充足できない。

 3月1日、EU首脳会議は、保護主義的政策はとらず、EU共通の新しい枠組みを推進してゆくことで合意した。しかし、現実には国境の壁は固く、ケースバイケースの対応がなされている。保護と開放をめぐって、緊張は一段と高まるだろう。グローバル化のひとつの分流と考えられるEU基準という大きなプレートが、各国の国内労働市場のプレートと衝突し、軋みあっている。大不況のさなか、各国ともに自国重視の傾向は避けがたく、EUとのせめぎ合いが続く。


*  posted worker とは、限定された期間、通常働いている国から離れて、EC加盟国の別のある国の同じ分野で働く雇用者。この指令では、使用者は実際に働く加盟国の賃金など基本的労働条件を労働者に確保しなければならない。


References
 「日立高速鉄道車両受注」『朝日新聞』2009年2月14
‘Discontents, wintry and otherwise’The Economist February 7th 2009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰ってこない労働者:中国農民工の春節

2009年02月23日 | グローバル化の断面

 移民問題のウオッチャーとしては、大変興味深い番組を見た。『再訪・上海バスターミナル:不況下の帰省ラッシュ』と題するドキュメンタリーである。上海と中国各地を結ぶ長距離バスの発着点である南駅(正しくは長途汽車客運南站)の一日を追った内容だ。上海という中国きっての大都市と内陸部を結ぶ拠点的存在のバスターミナルだ。実は、この番組では2007年春節(中国の正月)の時に、同様なテーマを取り上げていた。今回は、2年後の追跡番組に相当する。上海は一時かなり頻繁に訪れた所だけに懐かしい。

 前回の上海は好景気に沸いていた。南駅は90万人近い帰省する出稼ぎ労働者や家族で、文字通りごったがえし、大混雑だった。バスに乗れない乗客のために臨時バスが増発され、駅職員にお年玉袋まで出された盛況ぶりだった。

激変した駅の光景
 しかし、2年後の今年は、まるで様変わりだった。
グローバルな大不況の衝撃は、まぎれもなく上海にも及んでいた。春雪前夜、いつもなら立錐の余地もない駅の構内は、ピーク時を除けばガラガラだった。上海から寧波への最終バスは、二人しか乗客がいなかった。
 
 最終バスが出た後に、小学生の息子と父親がベンチに座り込んでいた。店を開くと故郷を出て、上海へ出稼ぎに行った妻を追ってきた。しかし、やっと電話に出た妻は「私を捜さないで」と、居所を明かさない。父親の懐には残金10元しかない。結局、傷心の父親と子供は、駅関係者の好意で一夜の宿を得て、寒風吹く中で過ごすことだけは免れたが ・・・・・・。 
 
中国では外国への出稼ぎよりも、国内農村部から都市部への出稼ぎの方がはるかに多い。北京五輪の施設の建設に当たったのも、ほとんど出稼ぎ労働者だった。しかし、会期中、彼らは会場から遠ざけられた。   
 
  春節が終わっても上海へ帰ってこない人たちもいる。不況で春節後の仕事の見込みがないのだ。彼らの中には、
給料不払い、遅配などで、故郷へ戻りたくとも戻れない人もいる。いつも家族が楽しみにしている故郷へのお土産もなく、身一つで故郷へ帰る寂寞感の漂う農民工の姿(2千万人近くが失業ともいわれる)。でも、帰れるだけよいのかもしれない。故郷へ帰ることをあきらめ、春節の間も上海に留まる人も増えた。警察の取り締まりが始まらない厳冬の早朝、駅の屋台で帰郷客に食べ物を売って過ごす。

避けがたい「一家離散」 
 農村へ家族を残しての出稼ぎは、出稼ぎ者にも残された者にも過大な負担を強いる。多くの出稼ぎ者は2年、3年と都市の下層生活を続ける。故郷へ帰れるのはわずかに春節の時1回だけだ。家族の生活費、このごろは子供の教育費を稼ぐための出稼ぎも多いようだ。「夢を子に託す」人々だ。

 家族が離れて住む間には、多くの悲劇も生まれるのは人間社会の常だ。「一家離散」(ディアスポーラ)の苦難は、国内出稼ぎでもいたるところに起きている。

 中国の都市と農村間に存在する想像を絶する所得格差。それは数十倍ともそれ以上ともいわれる。その格差はすさまじいばかりの光と影の場を作り出す。天災のように襲ってきた金融危機で、農民工と呼ばれる出稼ぎ労働者、そして彼らの家族の姿は、いま大揺れに揺れている。

 ひとりひとりの農民工やその家族が過ごしている日常の実態は、日本の実態よりもさらに過酷に思われる。上海ではやっと農民工を対象とする再就職説明会が3カ所で開催されたようだ。270社、4500人分の求人があったらしい。公共事業でできるだけ吸収する方針と伝えられる。いまは、かろうじて人間としての連帯が支えている。番組編成上の配慮からかもしれないが、かすかながらも人間の温かみが伝わってきた。加油中国!                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             


*
 原題: 再訪・上海バスターミナル ~不況下の帰省ラッシュ~制作: NHK/日本電波ニュース社(日本) 2009年 ★ BS1 2009年2月19日「金融危機」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペイン:EU・フロンティアを襲う失業

2009年02月21日 | グローバル化の断面

 このたびのグローバル大不況が及ばない地域は、探すのが難しいくらいになった。市場経済が存在する限り、不況は容赦なく浸透して行く。変化は、しばしば地域の最前線で厳しい。象徴的な例が、EU砦の外壁を構成するスペインやポーランド、チェッコなど東欧・旧ソ連圏諸国だ。母国にまともな仕事の機会がないことを知りながらも、出稼ぎの夢破れ、帰国する労働者が増えている。

 過去10年近く、スペインはEU諸国の中で最大の雇用創出を行った国といわれてきた。ところが、このたびの不況では最も激しく雇用が失われている。現在の失業率は13%、失業者は3百万人を越えている。その数は人口が8割以上多いドイツにほぼ匹敵する。ヨーロッパの失業率平均は7%である。スペイン貯蓄銀行の予測では、同国の失業率は2010年には18%、4百万人を越えるとされる。

 スペインではアメリカ同様住宅ブームも瞬く間に崩壊した。建設現場では農家の若者が高い賃率を求めて多数働いていた。労働力が不足し、農業が立ちゆかなくなった農村は、移民労働者を多数受け入れることで、なんとかEUの農産物需要へ対応してきた。スペインの農業部門は、過去10年間に5百万人近く外国人労働者を受け入れてきた。しかし、不況は彼らに最も厳しい。農業労働者への風当たりが強くなっている。国内の若者が農業へ戻りつつあり、移民労働者が追われている。どこでも、不況は弱者に厳しいのだ。EU加盟国の中でも、砦の外壁を形作る国々から中心へ向かって、危機は強まっている。

 さらにスペインの成長を引っ張ってきた自動車産業も苦境のまっただ中にある。EUの中では相対的に労働コストが低かったスペインは、自動車、電機などの多国籍企業が立地を求める所であった。ところが、今回の不況では、GMが最初に大量のレイオフを行い、日産、ルノーも人員削減を実施している。自動車産業は、スペインが大きな期待をかけてきた産業分野だけに、その崩壊は国民に衝撃を与えた。

 ザパテロ首相は330億ユーロの公共事業を行い、新たなプロジェクトを創出すると発表している。しかし、スペインでは社会保障システムも破綻しており、惨憺たる状態のようだ
 
 スペインの大きな問題は、将来を担う産業基盤が十分確立できていないことだ。今後の成長に大きな鍵となる国民教育の充実、競争力ある研究開発がまったく地に足がついていない段階での大打撃だ。この国は「粘土の足」で歩いているとまでいわれている。

 スペインではこれまで、不況時には伝統的に家族がお互いに頼りあって過ごしてきた。しかし、その家族も小さくなり、高齢化も進んでいる。この点はポルトガル、イタリアなども同様だ。これらの国々がいかなる形で不況に対処するかは、地域開発の今後を測る意味で注目に値する。

 不況の進行とともに、最も深刻な状況に置かれているのが、同国内で働く移民労働者だ。スペインは、かつて移民送り出し国であったが、いまや移民受け入れ国に転換している。しかし、今は多数の移民労働者が仕事を失い路頭に迷っている。EUの他地域へ移動しても、仕事の機会は期待できなくなった。ザパテロ首相は、移民労働者には帰国費用を提供すると言っているが、応募者は少ないようだ。そして、スペインが再生のために必要とする高いスキルを持った労働者から逃げ出してしまう。

 同様な動きは東欧圏諸国でも起きている。フロンティアでの労働力の動きはきわめて激しい。グローバル不況のバロメーターのようだ。大きな潮目の変わり時、移民ウオッチャーも結構忙しい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

がんばれ中国!

2009年02月13日 | グローバル化の断面

把握しがたい失業実態
  最近発表されたアメリカの雇用統計によると、本年1月の全米失業率は7.6%(季節調整済)、1992年9月以来、16年4ヶ月ぶりの水準にまで悪化した。ABCのキャスターは「まぎれもなく」crystal clear 最悪の事態だと報じた。オバマ大統領は失業が厳しい事態を生んでいる各地を歴訪、視察しているようだ。
 世界にはきわめて深刻な事態でありながら、その実態が「明らかでない」地域もある。その最たるものは、アジアの大国、中国である。中国の都市失業率は、2008年4.2%(2007年4.0%)とされ、中国政府は今年は4.6%以下に抑制したいとしている。
 実はこうした数値から中国の労働実態を推測することはきわめて難しい。失業率は都市部についてのみ公表されており、膨大な農村部が含まれていない。農村部から都市部へ出稼ぎにくる農民工といわれる出稼ぎ労働者の実態も、この数値からは推測できない。公式発表としては、出稼ぎ労働者の数はおよそ1億3千万人(2億人という推測もある)とされ、その15.3%が職を失っているとされる。なお、この中には帰郷せず沿岸部で職を探している人は含まれないので、実際の失業者はもっと多い。中国政府は、2千万人以上の出稼ぎ労働者が沿岸部工業地帯で職を失い、旧正月時に地方へ帰郷していると発表した。
  農村からの出稼ぎ労働者は毎年600万―700万人ずつ増加している。2009年は失業した農民工と合わせ、約2500万人の就業圧力がかかるという。
  これまでの中国の発展過程において、農村はしばしば衝撃を吸収する緩衝材の役割を果たしてきた。失業に限らず、さまざまな問題をその膨大な人口の中に包み込み、嵐の過ぎるまで耐えてきた。しかし、今回はかなり難しい。アメリカ発の大津波は中国全土を覆いそうだ。

「無給休暇」の実態
  最近、中国の友人、知人や留学生が知らせてくれたことで興味を惹かれたことのひとつに、メディアで「無給休暇」という言葉が目立つようになったということがある。日本でも「有給休暇」という言葉は一般化しているが、「無給休暇」はあまり聞くことがない。 「無給休暇」は、最近の経済不況の過程で、人件費削減のひとつの手段として、企業に静かに広がっているらしい。
 非公式だが総工会の弁護士なども、原則として労働者に休日・休暇を与えることは望ましいとした上で、「無給休暇」は導入プロセスが合法であり、従業員代表と話し合い、現地の組合又は企業の組合が同意すれば実施ができるとの見解のようだ。
  「無給休暇」とは二つの概念を含み、第一に、労働者が自ら休暇を申請、取得した場合、第二に、使用者が積極的に労働者に対して休暇を手配し、かつその休暇の給与を支払わない場合である。前者は、特に説明は不要だが、後者が問題だ。
  昨年1月1日に施行された中国の労働契約法には、「無給休暇」については特段の規定はない。現在の段階では「無給休暇」のケースが発生した場合、直ちに失業とは見なされず、また解雇ともいえない状態におかれる。すでに労働契約を締結している場合、会社の生産、経営が困難あるいは業務・生産停止により会社が従業員を休ませる場合、会社は、従業員に毎月基本生活費を支給しなければならない。その額は該当地の政府と会社が基準を決める。労働者に給与を支給しなければならない。国家の統一規定はなく、上海などの場合は、少なくとも市規定の最低賃金基準を下回ってはならないとされているようだ。
 新労働契約法が施行されたが、現実にはさまざまな違法あるいは法をかいくぐる動きがみられるようだ。なにしろ、「上に政策あれば下に対策あり」の国である。現在の段階では、上海のような都市部で、大量解雇によって大きな紛争などの社会問題に発展しているケースは見られないようだ。しかし、こうした事態が一般に話題となるほど、労働市場でも状況の悪化は急速に進んでいるとみるべきだろう。

深刻な大卒者市場
  農民工の問題と並び、深刻な事態に直面しているのは、大学などの新卒者だ。昨年、中国の大学の新卒者は560万人と前年より65万人増加し、過去最高の増加となった。今年はさらに約61万人が上乗せされると推定されている。しかし、すでに昨年末、約150万人が失業している。中国共産党は、今年は5月4日が五四運動90周年、6月4日は天安門事件20周年にあたり、厳戒体制であたることになろう。温家宝首相は大学へ出かけていって学生に言った。「君たちは心配だろうが、私はもっと心配しているのだ」(The Economist Jan.31 2009)。温家宝首相への信頼は高いようだが、心中大変なストレスがたまっているだろう。
  崖から落ちるようだといわれる急激な輸出の低下は、これまで破竹の勢いで伸びてきた中国輸出関連産業に大打撃を与えている。昨年来、中国メディアに目立つようになったのは、「内需」という言葉だ。海外市場が総崩れの状況では、内需の喚起以外に経済回復の道はない。その道はかつてない苦難に満ちている。家計の貯蓄率は高いとはいえ、社会保障面などが不安な中国では、政府が消費を推奨しても庶民の懐は緩まない。
 世界で一国だけが繁栄できる時代ではなくなったことはいうまでもない。中国の雇用問題はアメリカなどと比較すると、統計上の問題もあり、これまであまり関心を集めなかった。しかし、今やその動向から目が離せなくなってきた。政治、経済共に迷走を続ける日本の今後は、アメリカ、中国の経済に大きく依存している。加油!中国。




References
‘A great migration into the unknown.’ The Economist January 31st
.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする