時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(1)

2008年11月06日 | フェルメールの本棚

Johannes Vermeer. Allegory of Faith, ca.1672-4, oil on canvas, 114.3 x 88.9 cm. New York: The Metropolitan Museum of Art, The Friedsam Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.

  オバマ新大統領の当選演説を聞いて、さまざまなことを考えさせられた。そのことについては、いずれ感想を記すこともあるかもしれない。とりあえず強く印象に残ったのは、彼の当選は、アメリカという国にあった多くの厚い壁を壊す過程でもあったという点だ。多少、この国をさまざまな折に体験した一人の日本人としても、ついにここまで来たかとの思いで感動する。

 アイルランド系カトリックであった J.F.ケネディ大統領当選の状況と似通っている点も感じられた。ケネディの場合は、アイルランド系とカトリックという厚い人種と宗教の壁があるといわれていた。もうひとつの近似点として。
オバマ氏の選挙戦回顧の中に、JFKと同様に熱狂的な歓迎を受けたベルリンでの演説があった。そこでは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の壁を打破するという力強い言葉が聞かれた。ひとつの連想が生まれた。

 このブログで時々取り上げている17世紀の画家たちの作品を見ていて気づいたことだが、画家そして、彼らが活動していた社会の宗教的風土が持つ重みだ。この点を解き明かさないかぎり、作品の深奥が見えてこない。たとえば、フェルメールやラ・トゥールの信じた宗教、宗派は、なにだったのだろうか。答はそれほど簡単には出てこない。

画家の制作活動と宗教
 画家と信仰の問題は、直接・間接に画題の選択、描き方にかかわってくる。ひとつの例を挙げれば、フェルメールの晩年の作品『(カトリック)信仰の含意』Allegory of Faith. Ca.1672-74 が描かれた状況だ。フェルメールの制作歴の中では、少なからず<すわりの悪い>作品とされている。現存作品の中では、初期の作品といわれ、比較的含意が読みやすい『聖女プラクセディス』と『マリアとマルタの家のキリスト』(そして『ダイアナと侍女たち』)を除くと、ほとんど唯一、宗教的寓意が明瞭に意識されている。この絵の依頼者はいかなる人物だったのだろうか。カトリックの信仰者であったらしいことは推定できるが、フェルメールとはいかなる関係にあったのだろうか。

 制作した画家フェルメール自身が、心の底で信じていた宗教・宗派はなんであったのか。この点が明らかになると、画家の作品世界にさらに踏み込めるかもしれない。他の作品の解釈も一段と深まる可能性がある。たとえば、仮に画家フェルメールが改宗してカトリック教徒になっていたとしたら、宗教色のない風俗画に特化するのは、当時のネーデルラントの社会状況で画家として生きるためには当然の選択となったはずだ。カトリック信仰と直接的につながる画題での制作は、カルヴィニズムを掲げる新教国となった当時のネーデルラントでは、少なくも表向きはできなかった。

 しかし、この画家と宗教の問題を解明するには大きな難問が待ち受けている。フェルメールが生きた時代までは、400年近い年月を遡らねばならないし、個人が信じていた宗教という精神世界の問題である。ことはさほど簡単ではない。しかし、フェルメールは、幸いオランダ、デルフトという史料もよく保存された国、地域で画家としての活動をしていた。そして直接、間接に研究の蓄積もかなりある(ほとんど同時代ながら、戦乱、疫病、飢饉などで荒廃の極みを経験したラ・トゥールのロレーヌとは決定的に異なる点だ)。

 17世紀ネーデルラントというカルヴィニストの国で、カトリックの信者はいかなる状態に置かれていたのだろうか。手元にある資料を見ながら少し考えてみた。ただし、美術史家ではない、ひとりのアマチュア美術愛好者としての管見にすぎないことをお断りしておきたい。しばしば例として挙げるフェルメールについては、特に記すことのないかぎり、この画家の生涯を原資料の発掘というきわめて地味な仕事を通して、しっかりと位置づけたMontias を思考材料としている。 

 フェルメールは、結婚を機にカトリックへ改宗したとの解釈はかなり有力だが、現存する史料からの推論であり、十分に確立されたものではない*。いわば、状況証拠からの推論である。信仰は個人の心の内面の問題であるだけに、教会登録記録あるいは個人の信仰告白など明確な証拠がないかぎり、それほど簡単に断定はできない。迫害を恐れ、自らの信仰をできるだけ隠していた人々も多い時代だった。

 蓋然性という点からだけみれば、カルヴィニストの両親の下に生まれ育った画家フェルメール Johannes Vermeer が、カトリックへ改宗することは、新教国として独立した新生ネーデルラントでは、社会生活の上でも多くの問題を抱え込むことでもあった。多くのカトリック教徒がカルヴィニストとして改宗したり、国外へ逃げていた。そうした状況下で、フェルメールが改宗したとすれば、かなり特別な事情があったと思われる。

予想外に緩やかだった信仰選択?
 最近はさまざまな分野での研究成果で、これまで不明だった領域にも少しずつ光が当てられている。たとえば、17世紀初め、厳格な新教カルヴィニズムで塗りつぶされたかに見えるオランダ社会においても、「オランダ・ミッション」Holland Mission **として知られるカトリック側の組織的な布教活動の具体的事実
がさまざまに明らかにされてきた。ミクロ・レヴェルまで下りると、なかなか興味深い事実がある。

 宗教戦争での勝利を経て、国教の地位を確立したカルヴィニズムの下で、カトリック信仰は少なくも社会的に表面には出られなくなった。公式には1580年代初期までに、オランダ共和国では、カトリックにかかわるすべての活動が禁止されていた。しかし、現実にはローカルな町や村ごとに、実態と対応はかなりさまざまであったようだ。カルヴィニスト、カトリック、メノナイト、ルター派などの間で、かなり流動的な宗教上の選択が行われる余地があったらしい。レンブラントの時代のユダヤ人の問題については、ブログでも少し記したことがある。サーエンレダムなどによって教会画といわれるジャンルで描かれた状況についても、多少記した。

苛酷なカトリックへの抑圧の時期
 オランダ人は今日においては異文化に寛容な国民といわれるが、カトリック、スペインとの戦争状態にあった時は、当然とはいえ、状況はきわめて異なっていた。宗教改革でプロテスタント(カルヴァン派)からの直接的批判の対象となったカトリックへの攻撃は、オランダでは時に苛酷、苛烈なものとなり、教会内外の偶像破壊、信者に対する抑圧など、さまざまだった。
 
 1572年、ヴィレム・ファン・オラニエ公を擁した北ネーデルラントは、スペインからの独立を求め、反乱を起こした。当初、ヴィレムは宗教面でも寛容さを示すが、カルヴィニストのカトリックへの敵意は強く、短命に終わった。1584年には、ヴィレムはデルフトの自宅で暗殺されてしまう。スペイン総督はヴィレムの暗殺のために懸賞金まで出していた。ヴィレムはオランダ独立のために、すべてを投げ打ち、清貧に甘んじた志の高い指導者だったようだ。結果として、カルヴィニストのカトリックへの攻撃はさらに強まり、教会の没収、破戒、司祭の追放などが行われた。

 宗教間の争いは、17世紀に入ると、カトリック対プロテスタントの抗争にとどまらず、プロテスタント間の争いにまで拡大した。オランダ改革教会 Dutch Reformed Church に拠る保守的なカルヴィニストとルーテル、メノナイトなどとの対立である。彼らはカルヴィニストに追われたカトリックが失った部分を争奪にかかった。かくして17世紀初めの北ネーデルラントの宗教世界は、概していえば、混乱、機能不全ともいうべき状況であった。

カルヴィニスト宗派間の争い
 
紀半ばには、デルフトその他で、DRCのみが公的認知を受け、他のプロテスタントは抑圧の対称となった。そして、状況を複雑にしたのは、カルヴィニストの間にも分裂が進んだことだ。レモンストラント Remonstrants と呼ばれる寛容的な一派があり、アルミニウス Jacobus Arminius(1560-1609)をリーダーし、アルミニウス派と呼ばれていた。これに対してより正統なカルヴィニストがいた。彼らは反レモンストラントであり、コマルス Franciscus Comarus(1563-1641)を指導者としていた。両派の争点は、予定説 predestination といわれる問題、国家と宗教の関係などにあった。


 こうした宗派間抗争の結果、アルミニウス派は、デルフトその他の地で、ローマン・カトリックに包含される。ネーデルラントの国家布告ではカトリック信仰は否定されたが、それまでの継続もあって現実には宗教的自由はかなり認められていた。ユトレヒトのような地域では、人口の多く、そして行政主体もカトリックのままに残されていた。

 もちろん、カトリック側は抑圧や攻撃を回避するために、さまざまな手当てをしていた。地域の保安官 sheriff に心づけを与え、納屋、倉庫、自宅などで宗教儀式を行っていた。厳しい逆境に置かれながらも、オランダのカトリックはいつか環境が改善されるまでとひたすら、礼拝、教育を続けていた。

  デルフトに住んでいたフェルメールと家族、姻戚たちを取り囲む宗教的状況は、いかなるものだったのだろうか。連想が広がってゆく。


References
*
日本語文献については、次に簡潔、的確な説明、推論がある。
小林頼子『フェルメール論』 八坂書房、2008年

最近の研究成果については:
Valerie Hedquist. 'Religion in the Art and Life of Vermeer' The Cambridge Companion to Vermeer, Edited by Wayne E. Franis.Cambridge: Cambridge University Press, 2001.
本書は、フェルメールに関心を抱く者には、
John M. Montias.Vermeer and His Mileau: A Web of Social History, 1989 と並ぶ必携の書だろう。この画家に関する基本的情報が豊富に含まれている。ちなみに、Montiasの労作なしに、今日のようなフェルメール研究の進展はないといえる。
**
Charles H. Parker. Faith on the Margins. Cambridge, Mass: Harvard University Press, 2008.

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