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時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

年の終わりに

2008年12月31日 | 書棚の片隅から

 今年の特徴を1字であらわす文字として、「変」が選ばれていた。「変なブログ」を自認する者としては、「変な」現象、異変は世界で今年に限らず、かなり前から起きていたと思うのだが、今はそれには触れない。ここで記すのは、少し違ったことである。  

 手にしたばかりの文芸誌『考える人』2009年冬号が、「書かれなかった須賀敦子の本」を特集としていた。この作家の作品は、いくつか読んでいた。文体は平易でほとんどエッセイといってよいものであり、重い感じはしないが、後で心に残るものがあった。  

 多くを読んだわけではないが、特に印象に残ったのは、『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』の2冊だった。短いエッセイは目に触れた時に、いくつか読んではいた。暇になったら、もう少し他の作品を読んでみたいと思う作家の一人だった。雑事にかまけて、フォローが遅れている間に、いくつかの文芸誌、たとえば『芸術新潮』、『考える人』*の特集が続けて出て、この作家が亡くなってもう10年過ぎたのかと気づかされた。読みたい本のメモは残しておくべきだったと感じたが、いつものとおり手遅れだ。

 今回、とりわけ惹かれたのは、『考える人』に掲載されている、書籍になることなく残された未定稿「アルザスのまがりくねった道」であった。作者が目指した最初の小説だったようだ。残念ながら序章だけが未定稿のままに残されている。 作者が人生の途上で出会ったアルザス生まれの友人で、修道女のオディール・シュレベールと彼女の故郷コルマールが出てくる。彼女がなぜ遠い日本へとやってきて、フランスへと戻って行く人生を過ごしたのか。  

 アルザスそしてロレーヌについては、このブログでも少し記したことがあった。というよりは、この見ようによってはヨーロッパの中心部に位置しながら、多くの過酷な戦乱、災厄に翻弄され、それでも華麗な文化の残照のようなものを残し、今ではなんとなく忘れられた地域は、自分の人生のかなり早い時期から身体の中に入り込んでいた。今回、作者の未定稿を読んでいて、なにか不思議な思いに駆られた。

 作者に実際にお会いしたことはないのだが、非常に多くの脳裏をよぎるものがあった。須賀さんが作家活動に入られる前に、その近くにおられた方何人かとは面識があるのも、今となると実に不思議だ。

 今日は記憶をたどるひとつの糸口として、この作品の中から、次のパラグラフを引用しておきたい。
あるバス停近くで、作者と修道女の間で交わされた会話の部分である:

「なにが一瞬、彼女をためらわせたのかが知りたくて、わたしはたずねた。いつもはバスに乗るの? あら、もちろん歩いていくつもりだったわ。バスなんて、もったいないでしょう。それに、わたしはこのとしでもまだ歩くのが人より速いの。アルザス人だからよ。アルザスでは、こどものときからどこへ行くにも歩かされるのよ。ここから駅までだって、十分くらいかしら、わたしの足なら。わたしは思わず彼女の顔を見た。彼女よりずっと若い修道女や、学生たちが、その駅に行くバスを待っているのをわたしはよく見かけていたからだ。」(アルザスのまがりくねった道」『考える人』2008年冬号、91ページ) 

 アルザスへは何度か旅をした。昨年も出かけた。最初訪れたのは、須賀さんの作品のことなど、まったく知らないころである。しかし、アルザス人が健脚で早足であるとは、これまでまったく聞いたことがなかった。この地に住んでいた友人との会話でも話題にはならなかった。彼が歩くことが比較的好きなことには気づいていたが、すでに自動車の時代へ入っていた。この地をめぐる時はいつも車を使った。 

 須賀さんが記しているバス停の場所も、だいたいあのあたりと目に浮かぶ。そこから想像されるコルマールへのまがりくねった旅の軌跡は、W. G.ゼーバルトの一連の作品に似ているところもある。実は、ヨーロッパの歴史や地理をたどりながら、いつとはなしに、最もヨーロッパらしい部分を奥深く残す地域は、アルザス・ロレーヌではないかと勝手に思いこんでいた。表面は無惨に傷つきながらも、懐深く秘めているような感じといおうか。別に歴史家など専門家の意見を聞いたわけではない。自分だけの思いこみにすぎない。  

 須賀さんの遺稿は、序章だけで終わっている。その後については、ほとんど単語の断片としかみえない「創作ノート」だけが残されている。旅の終着までの道筋は、ほとんど想像するしかない。それを知りえないことは大変残念だが、その道をあれこれ夢想することは、なにかの支えになるのかもしれないと今思っている。


* 「特集:没後10年 須賀敦子が愛したもの」『芸術新潮』2008年10月
 「特集:書かれなかった須賀敦子の本」『考える人』2009年冬号

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20世紀の声:スタッズ・ターケル追悼

2008年11月14日 | 書棚の片隅から
 

  ひとつの追悼録*が目にとまった。スタッズ・ターケル Studs Turkel、
2008年10月31日逝去、享年96歳。

 世の中で働いている人は、自分の仕事がどんなものであるかは当然知っている。しかし、他の人の仕事を本当に知っているのだろうか。彼(女)たちは、なにを考えて日々の仕事をしているのだろうか。たとえば、鉄鋼業の労働者、新聞配達、農業労働者、客室乗務員(以前のスチュワーデス)、売春婦、俳優、工場技能工、警官、映画評論家、タクシー運転手、床屋、歯科医、ウエイトレス、主婦、薬剤師、不動産屋、野球選手、元鉄道員、編集者、弁護士、消防士、神父・・・・・・。

 われわれの知っていると思う他人の仕事とは、実は幻影なのかもしれない。実際、そうなのだ。実際に働いてみないと、仕事の真髄は分からないことが多い。 115の職業について、133人の実在の人々のインタビューをした記録を元にターケルは、ひとつの本を作った。1972年のことである。

 スタッズ・ターケルのこの作品 Working(邦訳 『WORKING! 仕事』**)が刊行された1972年頃を思い出すが、まだカセットテープが登場しない頃のテープ・レコーダー、そしてタイプライターが、彼の仕事道具だった。ニュージャーナリズムは、これから始まったといわれた「仕事」だった。よくもこんな手間暇かかることをやってのけたものだとただ驚かされた。分厚い辞書のような体裁。しかし、読み始めると止められなかった。ひたすら読みふけった。

  アメリカ社会を作り上げている一人一人の職業倫理ともいうべきものが伝わってきた。とはいっても、世の中のすべての職業はターケルといえどもカバーできるわけではない。ターケルが意識的に除外したという職業もある。具体的には、牧師(若い神父は入っている)、医師(歯医者は入っている)、政治家、ジャーナリスト、あらゆる物書き(例外は映画評論家)。この人たちの姿勢はターケルによると、自己陶酔以外のなにものでもない、とのこと。なるほど、思い当たることもある。彼の興味は、インタビューを行わないかぎり、なにも聞こえてこないような職業領域にあった。インテリは放置しておいても、勝手にしゃべると思っていたようだ。

 ターケルは同じような手法で、かなり多くの著作を残している。「大恐慌」期についての仕事もある。1985年にはヴェトナム戦争を取り上げたThe Good War でピュリツアー賞を受賞している。彼は、自分の仕事にいくつかの使命を持たせていたようだ。ひとつは、仕事自体が失われてしまう前に記録しておきたいということ、特に8時間/日労働制度前の組合代表や公民権法成立に向けての人々の闘争記録である。もうひとつは、取材の対象となったひとりひとりの人間の尊厳を重んじたことである。一人のインタビューを、貴重でユニークなものとして大切に扱った。

  インタビューではないが、まだ上院議員になる前のオバマ氏にもシカゴで会っている。まさかこんなに早く大統領に選ばれるなどとは、ターケルも思っていなかったろう。ターケル91歳の時であった。この人間を大切にし、過ぎゆく20世紀という時代の貴重な声を残した希有なジャーナリスト、作家、スタッズ・ターケルに哀悼の意を表したい。


主要作品

** Studs Terkel. Working, 1972 (スタッズ・ターケル 中山容他訳『WORKING 仕事!』晶文社、1983年)

Hard Times: An Oral History of the Great Depression.
Coming of Age: Growing Up in the Twentieth Century.
Division Street
America Race: How Blacks and Whites Think and Feel About the American Obsession
Voices of Our Time: Five Decades of Studs Terkel Interviews
The Good War, An Oral History of World War Two
Talking to Myself: A Memoir of My Times


Obituary: Studs Terkel. The Economist. Novemver 8th
2008.
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FDR: 国を救い世界を救った男

2008年11月10日 | 書棚の片隅から

 
  新しいアメリカの大統領が生まれるには、多くのドラマがあった。人種や宗教にかかわる偏見など、とてつもなく高い障壁を乗り越えるには、あの長すぎたと思う選挙過程に費やされた時間や労力も必要だったのかもしれない。すでに、多くの論評がなされている。様々な批判を超えて今はただ、アメリカはやはりすごい国だという思いを新たにする。

 選挙結果を見つめる人々の表情からは、自分が選んだ候補への確信と期待、新しい歴史の形成に自ら参加しているのだとの熱気が伝わってくる。日本にはこうした光景が生まれないことを寂しく思う。

 新大統領が、ホワイトハウスで飼うことを娘さんに約束した犬のことが、メディアで話題となっている。大統領も普通の人なのだという親近感を持たせる巧みな演出だ。犬は重要な役者だ。あのフランクリン・D・ローズヴェルト(FDR)の時も、愛犬が新聞記者の注目を集めた。

 これから新年1月の就任式に向けて、新大統領が置かれた環境は、偶然とはいえ、1930年代フランクリン・D・ローズヴェルトが直面した状況とかなり似てきている。大恐慌の時と同様、ウオール街が金融危機の震源地となり、その影響は世界へと広がった。アメリカが関わる戦争に終息の兆しは未だない。新大統領は、アメリカそして世界の問題の解決を迫られる立場にある。明確な方向設定とリーダーの強い意志が必要だ。

 バラック・オバマ新大統領やFDRの人生の生き方、考え方を見ると、逆境や苦難に耐えて生き抜いてゆく一人の人間としての確たる存在を知らされる。すっかりひ弱になってしまい、お互いに傷をなめあっているような今の時代の日本人には見出せないものだ。
   
 「私の政策は・・・・・憲法のようにラディカルだ」。フランクリン・D・ローズヴェルトは、1932年の選挙キャンペーンの折にこう述べている。国民のためには、自らが属する社会階級の利害すらものともしないという気概だ。FDRは電力会社を国有化するのではないかといわれた時の言葉である。そこには、日本人が直感できない重みがこもっている。FDRの評伝は、70年を超える今日でも新たに書き下ろされ、出版されている。時代を超えて強く訴えるものがあるからだろう*。

 FDRは、祖先がピルグリム・ファーザーズの一人としてアメリカに来たこともあって、愛国的であり、強い自信の持ち主だが、名門の家系にありがちなスノッブ的なところはなかったようだ。人当たりは柔らかなのだが、内に強さを秘めていた。フランクリンの友人レイ・モレイは、フランクリンには弛んだところがないとして、「怒ったとき、彼は強硬であり、頑固で、機知に富み、そして厳しい」とその精神的な強靱さを評価している。人間は平静な時よりも、興奮・高揚した時にその本性が出るようだ。

 評伝が伝えるところでは、FDRは危機に直面した場合、驚くほど厳しい対応ができた人物だった。それでも多くの政策の本質と結果は、むしろ保守的なものだった。しかし、必要な時には人々が驚くほどの強い決断ができるラディカルとして、彼は古い秩序を作り直し、ジェファーソン以後、どの大統領にもましてアメリカの力を強めたといわれる。

 他方、公的な生活以外ではかなり複雑な事情を抱えていた。これについては、やはり身体的な障害が根底にあったようだ。31歳で海軍少尉に任官するが、8年後ポリオにかかる。一時はかなり病状がひどいようだったが、幸い
決定的に麻痺したというほどではなかった。しかし、下肢の麻痺は残り、補助器具なしでは歩行できなくなった。罹病後3年した1924年までに、彼は民主党の指導者のひとりとなる。

 政治家にとって健康状態が万全でないとの風評は致命的となる。FDRはジャーナリズムのしつような批評にも耐えて、障害を問題とさせなかった。そして、なによりも考え抜き、心に決めたら動かない強い意志が彼を支えた。その強さが、1928年ニューヨーク州知事に、そして大恐慌の最中の1932年、大統領に選ばれるまでに押し上げた。

 勇気、魅力、才気と狡知さ、隠された強さなどが、FDRをしてアメリカ資本主義を危機の底から救わせた。しかし、彼自身が語ったように、大恐慌を終わらせたのは、大戦に勝利したことが大きく寄与し、ニューディールが大きく成功したとは言い得ないようだ。オバマ大統領にとっても、アメリカがかかわる戦争を、これ以上の犠牲を伴うことなく早急に終わらせることが最重要課題だろう。

 FDRは、ファシズムの危険を国民に辛抱強く説いた。国際政治の舞台での対応については、必ずしもうまく立ち回ったとはいえないようだ。この点は、チャーチルは老獪だった。他方、FDRはアメリカの大統領に忠告しようとした押し付けがましいケインズを「イギリスのインテリ」として斥け、パリの講和会議でもケインズを重要な立役者とはさせなかった。オバマ大統領は外交面でどんな手腕を見せるか、注目点だ。

 FDRは、今日リンカーンに続く偉大なアメリカの大統領として評価されている。重大な身体的障害、大恐慌、そして大戦で試練を受けた。戦時、平和時のいずれにあっても政党、官僚、議会、メディアを通して巧みに働きかけ、アメリカを彼があるべきと思う方向へ導くあらゆる手段を使ったと評価されている。オバマ新大統領もメディアへの対応は、日を追って巧みになった。

 新大統領の直面する課題は、FDRの時もそうであったように、アメリカばかりでなく、世界の命運に重くかかわっている。ホワイトハウスとの距離は、日本人にとっても格段に短くなった。明るさが見える新年を期待して待ちたい。



*
H.W.Brands. Traitor to His Class: The Priviledged Life and Radical Presidency of Franklin Delano Roosevelt. Doubleday: 896 pages, 2008.

Change We Can Believe In: Barack Obama's Plan to Renew America's Promise (Paperback), 2008.

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恐怖の都市ボストン:ノン・フィクション

2008年09月28日 | 書棚の片隅から

Francis Russell. A City in Terror.: The 1919 Boston Police Strike. Penguin Books Ltd.Harmondsworth,Middlesex, 1977.pp.256.

  デニス・ルヘインの「運命の日」The Given Day は、ボストン市警ストの勃発に向けてのプロセスをキーノートとするフィクション(歴史小説)として描かれた。かなり忠実に歴史的事実を踏まえているとはいえ、現実と虚構(フィクション)の間には、当然差異がある。フィクションが持つ面白さもある(発刊以来、すでにいくつかの紹介、書評が行われている)。他方、現実に起きたことは、概略次のような展開であった。

  1919年9月9日、ボストン市の警察官のほとんどが突如職場を放棄した。動機は劣悪な労働条件の改善要求であった。続く2日間、70万人以上のボストン市民は暴徒たちのなすがままに放置される事態が生まれた。白昼、商店が略奪され、婦女子が襲われ、歩行者が殴打されるという蛮行も頻発した。その反面で市民たちがただ事態を傍観したり、警官たちに拍手を送るという光景も見られた。州兵が動員され、ほとんど無名のマサチュセッツ州知事カルヴァン・クーリッジが事態の収束のために動き、ほとんど一夜にして国民的ヒーローとなった(クーリッジは、後に1923-29年にかけて、アメリカ合衆国第29代副大統領、30代大統領に選ばれた)。

  この歴史的事件のリアリティの方に関心を持つ方は、ここに紹介するフランシス・ラッセルのノン・フィクション『恐怖の都市:1919年ボストン警官スト』(A City in Terror; The 1919 Boston Police Strike、残念ながら翻訳はない)をお勧めする。デニス・ルヘインが『運命の日』を執筆するに際して最も頼りにした文献である。

  フランシス・ラッセルはこの時期を子供として過ごし、ボストンにも居住するなど、この出来事の一部始終を克明に描き出した。大戦間期のひとつの歴史的事件を軸として、激動する時代の空気を伝える貴重な資料となった。

  ルヘインの『運命の日』は、サム・ライミ監督による映画化が決まっているといわれる。映像化されれば、文字ではイメージしにくい臨場感、時代の雰囲気がもっと明瞭に伝わってくるだろう。いわば舞台回し役として登場する往年の名選手ベーブルースの雄姿?もイメージしやすいだろう。小説では、ボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースへ移籍する段階までが描かれている。根強く存在した白人、黒人の間の偏見、人種差別の側面も、生き生きと描かれている。

  他方、フランシス・ラッセルのノンフィクションは、事件の忠実な再現であり、実際にいかなることが起きたのかを生き生きと伝えている。当時の歴史的文書、関係者のヒアリングなどに基づき、学術的文献としてもきわめて貴重な作品に仕上がっている。多数の写真が収録されており、臨場感を深めてくれる。写真の中には、職場放棄する警官たち、暴徒が蹂躙する街中、自衛のためにピストルを携行する従業員ガードマン、交通整理に乗り出す市民ヴォランティア、鎮圧にあたる騎馬警官や州兵、視察にあたるクーリッジ知事など、興味深いショットが多数掲載されている。

  ところで、ブログ読者の中には、なぜこの本を読んだのかと疑問を呈される方がおられるかもしれない。実際に本書を手にしたのは、ペンギン・ブックスとして刊行された1977年(ハードカヴァー版は75年)、イギリスにおいてであった。すでに30年近い前のことである。当時、警官、消防夫などの市民の安全を守る公務員の団結権、団体交渉権、争議権などが、大きな問題となっていた。半ば職業上の関心の延長?として手に取った。しかし、「事実は小説より奇なり」で読み出すと、たちまち引き込まれた。しかし、30年後に再びこんな形で思い出すことになるとは、考えもしなかった。

  警察官という公共部門の労働者が、争議行為に入るという出来事がいかなる対応と結果を生んだかという興味深い事例である(ちなみに、日本では警察官、消防士、刑務官、自衛官などの団結権、団体交渉権は認められていない)。彼らの労働条件はいかにして維持・改善されるのか。人手不足が深刻化する今後、問題が新たな形で再燃する可能性は高い。事件はおよそ90年前のこととはいえ、今日との距離はきわめて近い。

目次
Contents:

A Personal Recollection
The Year of Disillusion
The Bosteon Police Department
Overture to a Strike
Summer's End in Boston
On a Tuesday in September
The Riots
Law and Order
After the Strike
The Ghost of Ccollay Square
Postscript in baltimore

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ロッテルダムの灯:東京の灯

2008年09月25日 | 書棚の片隅から

 
  インターネット世界から離れた日を過ごしている間、束縛されていた思考の活動が解き放たれるのか、普段なら予想もしていないようなことが浮かび上がってきた。思考の世界はいつの間にか北方ヨーロッパへ移り、17世紀オランダの画家の軌跡を追っていた。アムステルダム、ハールレム、レイデン、ロッテルダム、ハーグ、デルフトなど、懐かしい地名が去来する。
  
  ロッテルダムという地名が、一人の作家の作品を思い出させた。庄野英二「ロッテルダムの灯」という短いエッセイである。

  この児童文学作家の作品は、いつとはなしに好んで読むもののひとつとなっていた。作家の経歴については、あまり関心を抱いていなかったが、その後ふとした折に、作品に添えられた著者自筆の年譜を見て、いくつか驚いたことがあった。時代は異なるが、なんとなく心の遍歴を共有するような部分を見いだしたためである。

  
庄野英二は1915年(大正4年)、山口県萩町に生まれ、戦時中は俘虜収容所員として、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、マレーシアなどを転々と移動し、戦後は大学教員をしながら創作活動を続けた。1993年没。芥川賞作家の庄野潤三氏は弟。

  「ロッテルダムの灯」(1959年)は、作家の小さな旅の一齣を描いた小品である。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たした年、この作家はヨーロッパへの旅に出た。当時のBOAC機の機内で、朝鮮戦争で負傷し、入院していた東京のアメリカ陸軍病院からイギリスへ戻る兵士に出会う。この兵士は朝鮮における戦闘のことも、又どのようにして朝鮮へ行ったかも全然記憶を失っていて思い出せない。そして、わずかに「私が最後にたったひとつだけ覚えていることは、軍用船の甲板の上からロッテルダムの港の灯を眺めたことです」と答えている。

  作品には、「ロッテルダムの灯」が、実際にいかなる光景であるかも、まったく出てこない。それどころか、エッセイはこの帰還兵士の言葉の後、トルコの山々を機内から望むところで短く終わっている。

  ロッテルダムへは何度か旅したことがある。港近くのホテルへ泊まり、大きな貨物船やタンカーが出入りする光景を眺めた時もあった。EU最大の貿易港としてユーロ・ポートとも呼ばれたこの港は、昼夜を分かたず、繁忙をきわめていた。しかし、庄野の作品は、読んでいたにもかかわらず、ロッテルダムの港の灯という場面を特に意識したことはなかった。多分、目前の仕事に追われて、回想する余裕がなかったのだろう。

  しかし、今回は新たな回想の連鎖が生まれた。かつて、アメリカで学業生活を送っていた頃、寄宿舎の隣室に朝鮮戦争から帰還し、ヴェテラン(退役軍人)
に準備された奨学制度で、大学院へ来ていた学生 J がいた。このことは以前に少し記したことがある。生物学を専攻する学生だった。除隊後、帰国し、中西部の実家でしばらく休養の年月を過ごした後、大学へ入り直したという。

  30代も半ば近く、落ち着いていて、時々、日本の思い出などを話し合った。日本からの留学生は少なく、珍しかった時代でもあり、Jはアメリカ人学生よりも、私に親しみを感じたようだった。彼にとっては、生まれて初めて見た外国が戦場の朝鮮半島であり、後方兵站基地の日本だった。殺伐とした戦場からしばらく休暇をもらって東京などで過ごす時間は、天国のように思えたという。J は、
陽気なアメリカ人学生とは異なり、寡黙で、どことなく心に影を背負っているような印象を受けていた。時々、キャンパスの芝生に、ぽつねんと座っているのを見かけたことがあった。

  Jは、やはり大きな悩みを持っていた。多感な青年期に徴兵され、陸軍兵士として朝鮮に派遣された彼は、生まれて初めて銃を手にし、敵と対峙したという。その経験はトラウマとして残り、時々、夜中に自ら気づくことなく目覚め、夢と現実が区分できなくなり徘徊するという。ヴェトナム戦争はアメリカの敗色濃く、反戦運動が急速に高まっていた。

  Jの目に東京の灯はどんなに映ったのだろう。聞くこともなく、年月だけが過ぎた。
     

 

庄野英二『ロッテルダムの灯』講談社文庫、昭和49(1974)年(私家判、レグホン社、1960年

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「失われた地平線」その後

2008年03月20日 | 書棚の片隅から

  Lost Horizon: 原作は1937年に映画化されたが、1967年にはオリジナルは損傷が激しく再生不能となった。その後1973年に世界に残存するフィルムを集め、制作時のスチール写真とフィルムなどを加えて再生を図る試みがなされた。イメージはそのDVD版。


    目前に迫った北京オリンピック。もしその開催を損なうことが起こる都市があるとすれば、それはチベットのラサと、中国政府首脳部は思っていたといわれる*。真偽のほどは別として、最も恐れていたことのひとつだろう。それだけに対策も練られていたに違いない。徹底的な武力による制圧と厳重な情報規制。それが、現在展開している実態だ。このIT時代にもかかわらず、西側のメディアの現地報道はきわめて少ない。  

  しかし、この時期に暴動が発生するとは中国政府当局が思っていなかったのではないかと思われる記事を目にした*。これまで西側ジャーナリストがラサで取材活動を行うことには、厳しい管制体制が布かれていた。ところが、予想しなかったことに、英誌 The Economist のジャーナリストが突如1週間の取材を許され、その最初の日が3月12日であったと記されている。当局にとっては不意をつかれた暴動だったのだろうか。今のところ真偽のほどは分からない。

  チベットと聞くと、反射的に思い出すひとつの小説がある。今ではほとんど読まれることはないだろう。ジェームズ・ヒルトン「失われた地平線」(1933年)が、そのタイトルである。1937年には映画化もされた。「チップス先生さようなら」の作者と云えば、うなずかれる方もいよう。この小説で描かれるチベットの秘境「シャングリラ」の名は、その後さまざまな場面に登場するようになった。  

  小説のストーリーは、暴動などという血なまぐさい話とはまったく無縁の世界である。1931年5月、第一次大戦後の革命騒動に揺れるインド北部の地から、ペシャワール(現パキスタン北西部)へ白人の居住者たちを移動させる飛行機が、ハイジャックされ不時着する。そして、まもなく一人のラマ僧が現れ、その導きで秘境への旅が始まる。

  この飛行機には、英国の外交官二人、石油関係の仕事をしていたというアメリカ人男性と宣教師の白人女性の計4人が乗客として乗っていた。彼らはカラコルム山系を越えて、ラマ教寺院が聳えるチベットの秘境シャングリラへと導かれる。そこは空がかぎりなく青く、花々が咲き乱れる文字通り秘境の地であった。チベット人と中国人が住んでいた。原作では、この地は「連絡できない場所」とされている。  

  この桃源郷とも見える土地。それに対して、外の世界である西洋世界は発展はしているが、なにか汚れて腐敗しているとイギリス人である主人公コンウエイは感じている。人はなにかに追われるようにせわしなく暮らしている。しかし、シャングリラは「時」を感じないような不思議な世界である。そこでなにがあったかはここでの話題ではない。(小説後半では、この秘境にも暗い影が忍び寄っていたのだが。)  

  実は、この小説にはプロローグがある。行方不明になった乗客コンウエイを探していた、学生時代の古い友人で作家のラザフォードが、事件のはるか後に思わぬ形で再会を果たす。コンウエイは中国で記憶を喪失したままで発見された。その後、ラザフォードが日本郵船の客船に友人を乗せ、サンフランシスコへ連れ帰る途上の追想として、ストーリーは展開する(エピローグにもかなり驚かされるが)。

   ちなみに、この小説は Pocket Book の第一号となり、ペーパーバックの世界でも一世を風靡した。フランクリン・D.ルーズヴェルトは、メリーランドの隠れ家(大統領別荘)をシャングリラと名づけていた。その後、1978年にキャンプ・デイヴィッドに変えられた。

  地球上に理想郷も秘境も無くなった今、チベットが平穏な地に戻ることを祈るのみ。 


Reference
James Hilton. Lost Horizon, Pocket, 1934.
(ジェームズ・ヒルトン、増野正衛訳「失われた地平線」新潮文庫、1959年)

 'Monks on the march' The Economist, March 15th 2008.

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北方への旅:デューラー

2008年01月20日 | 書棚の片隅から

St Jerome
1521 Oil on panel, 60 x 48 cm,
Museu Nacional de Arte Antiga, Lisbon
 


    前回記した「北方への旅」との関連で、印象深い書籍がある。昨年のことになるが、旅の徒然に読んだデューラー『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳、岩波書店、2007年)は大変興味深いものだった。

  デューラー(Albrecht Dűrer, 1471-1528)が、ネーデルランドへ旅をした時代は16世紀前半で、今日から遡ること500年ほど前になるが、それだけの隔たりを感じさせない。時代は16世紀なので、レンブラント、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやジャック・カロなどの時代よりも1世紀遡るが、同じ画家たちの北方文化圏への旅として、多くの示唆を得ることができた。なによりも、驚くほど活動的で好奇心が衰えない、この偉大な画家の日常を知ることができて、興趣が尽きない。

  本書は、デューラーが1520年7月から翌年1521年7月にかけて、ニュールンベルグからネーデルラント地方に旅した日記である。日記といっても、その主たる部分は毎日の出納簿覚書のような形になっているが、これが単なる覚書の域をはるかに超えて、期せずしてこの大画家の人生を集約したような作品になっている。しかも大変緻密な翻訳の労をとられた前川誠郎氏の詳細な解説、あとがきによって、一見小著ながらきわめて読み応えがある作品に仕上がっている。あまりに面白く、その後も何度か読み返すことになった。   

  デューラーが、その人生の絶頂期にあった49歳から50歳にかけての時期の旅である。この偉大な画家は、この時までに生涯の作品の大半を完成しており、その名声はヨーロッパに広く行き渡っていた。それはデューラーが旅の途上、各地で受ける歓迎、歓待に象徴的に示されている。   

  旅には画家デューラーに妻アグネスと召使スザンナが同行した。デューラーがこの旅を企画した直接的動機は、訳者の「解説」によると、1512年2月ころから、当時の神聖ローマ帝国皇帝マクシミアヌス1世のために、画家が作成した大木版画や祈祷書の周辺装飾挿絵等の制作に対して、報酬として約束された年金100グルデンの支払いが、皇帝の急逝などもあって、継続給付の見通しがつかないため、問題解決の請願のために自ら出向くことにあった。たまたま新帝カルロス5世のアーヘンでの戴冠式を機に、自らの手で解決を図ろうとしたようだ。   

  ちなみに、この年金というのは現代の福祉政策概念のそれではなく、皇帝、領主などが芸術家など顕著な功績のあった者に、一種の報酬として付与する個人的な約束に基づくものである。たとえば、このブログでも取り上げているラ・トゥールも真偽は不明だが、晩年フランス王から年金を付与されていた可能性を推定させる記録がある(真偽のほどは不明)。また、同時期の宮廷画家ヴーエ(Simon Vouet, 1590-1649)なども、フランス王からイタリア修業の際に同様な給付を受けていたことが知られている。そのため、プッサンのようにイタリアにとどまらることなく、パリへ戻ったという事情もあるようだ。   

  デューラーが約束されていた年金は、100グルデンだった。この額が当時の貨幣価値で、どの程度のものであったかは推測が難しいが、これも前川誠郎氏の「解説」によると、当時アントヴェルペンに滞在していたポルトガルの商務官の年俸が3千グルデン、ニュールンベルグの外科医の年収が80グルデン、内科医が100グルデン、市参事会付き弁護士が160~260グルデン、他方学校教師はわずかに20グルデンであった。ポルトガル商務官の額が飛びぬけて高額だが、これはポルトガルが香辛料貿易で巨富を上げ、アントヴェルペンなどの港市の財政に多大な利益をもたらしていた。こうした商務官などは市の収入役のような役割まで果たしていたらしい。ともかく、デューラーにとって、この年金は大変大きな額であったことが分かる。   

  さて、デューラーは、旅の最初の段階に、ブラッセルでマルガレータ女公から年金問題への支援をとりつけて安堵したこともあって、当初2ヶ月くらいの旅の日程をなんと1年近くまで延ばして滞在するという豪勢な旅に変えてしまった。行く先々で歓待されて居心地もよかったことはいうまでもない。画家は旅の終わりに収支を総計し、この旅で大きな散財をしてしまったと嘆いているが、前川誠郎氏が記されているように、それは「少し欲が深すぎる」のであり、デューラーは実際この旅を大変楽しんだのだった。   

  とにかく、この時代に妻ばかりか召使まで連れて、行く先々での土産代わりや販路開拓のための版画など大量の美術品を携行しての豪勢な旅は、誰もができるものではなく、大画家デューラーだからこそなしえたものだった。この旅で、デューラーは当時の貴顕諸侯をはじめとして、同業の画家など、きわめて多数の人々と交流していた。クラナッハ(1472-1553)にもこの旅で会っている。そして、アントヴェルペンを拠点として、全ネーデルランドの画家たちとの交流が展開する。   

  さらに本書の白眉ともいうべきことは、1521年5月17日、マルティン・ルッターが陰謀によってアイゼナッハ近郊で逮捕されたという報せを受け、長文の哀悼文を寄せていることである。この事件は、実際には5月4日に起こり、すでにルッター自身がクラナッハに身を隠す旨をあらかじめ報せていたらしい(同書訳注194)。デューラーがルッターをいかなる存在と考えていたかが、切々たる文面で記されている。この出来事に関連してのエラスムスの老獪な態度なども伺われて、きわめて興味深い。   

  一見すると、一日の現金出納の覚書を中心に日々の出来事が淡々と記されているような印象だが、興味深い記述が多々出てくる。とりわけ、驚くのは当時の交通費の高さであり、馬車、船賃、通関料など、富裕でなければとても支払えない額となる。とりわけ、マイン川、ライン川などの舟行などは関所だらけの観を呈していた。当時の領邦国家の実態が彷彿とする。さらに、暴風雨で航行中に遭難しそうになったり、アントヴェルペンで凱旋門といわれる屋台の制作を手伝ったり、巨鯨を見に行ったり、画家は東奔西走である。その好奇心の強さには、レンブラントと似たところを感じる。   

  かくして、この旅は大画家デューラーの晩年を飾り、人生を総括するような充実した旅となった。画家はニュールンベルグへ戻り、7年後に世を去った。

 
Source
デューラー『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳、岩波書店、2007年)

Albrecht Dűrer. Schriften und Briefe (Reclam-Bibliothek Band 26 Leipzig 1993).

アルブレヒト・デューラー『デューラーの手紙』 (前川誠郎/訳・注, 中央公論美術出版, 1999年12月)刊行以来年月が経過し、古書扱いになっているが、新刊で入手できる可能性もある。

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もうひとつのアフガニスタン

2007年12月16日 | 書棚の片隅から

    今週のNewsweek Dec.17, 2007 のトップ記事に、かつてこのブログに記したことのあるThe Kite Runner 『凧を追いかけて(仮題)』(邦訳「カイト・ランナー」佐藤耕士訳)が取り上げられていた。カーレド・ホセイニの小説(2003)が映画化され、今週からアメリカ、そしていずれ世界中で上映されることを前にしての紹介記事である。

  小説の舞台であるアフガニスタンについては、ある個人的体験も重なって関心を持ってきた。カブールに関わる小説もいくつか読んできた。ホセイニの小説は、1979年のソヴィエット侵攻、オサマビン・ラディン、アメリカの武力攻勢以前のアフガニスタンを描いている。アフガニスタンは国家離散(ディアスポーラ)、今に続くタリバンの台頭と荒廃の時を迎える。かつて貧しくも心豊かで平和な時期をカブールに過ごした二人の少年の友情とその破綻、そしてほぼ30年後の姿を、戦争の悲惨と悲哀の中に描いている。ファルシー語(現代ペルシャ語)などの海賊版を除いて、すでに8百万部以上が読まれたという。

  最初読んだとき、アフガニスタンの惨状を舞台としながらも、ややメロドラマ的な印象も受けたのだが、この焦土と化した国に生きる人々の人間性にあふれた姿には強い感動を受けた。深く心の底に残る一冊である。アフガニスタン。かつては輝かしい文化の栄光に溢れていた国であった。舞台に光の当たっていた時代のカブールと、暗転、瓦礫の地と化したカブールを時代を隔てて描く2都物語の趣きもある。晴れた日、カブールの大空に舞う色とりどりの凧。それにはこの国に住む人々のさまざまな思いがこめられている。

  書籍としての文学作品を読んで、さらに映画化された作品まで見るということは、これまであまりない。ただ、今回の映画化について、製作者側が強調している点に多少関心を惹かれた。それは、原作著者であるホセイニがアフガン人であり、今はアメリカに住んでいること、監督のマーク・フォレスターはスイス人でやはりアメリカにいる。主演男優はエジプト人でイギリスに住んでいる。映画での俳優間の会話の多くはダーリ語(現代ペルシア語のひとつ)で行われ、英語のサブタイトルがつけられるという。興行上は英語の方が通りやすいのではないかとの見方もあったらしいが、やはり違和感をがあり、臨場感がないと判断されたらしい。

  大変衝撃的なことは、この映画はアフガンでは撮影できなかったことだ。30年近い戦争で、撮影に使える場所はすべて破壊され、カブールにも当時を思い起こす建物はほとんどないという。そのため、すべてが中国で撮影された。今や、アフガニスタンの映画館はすべて破壊され、存在しない。したがって、今回、映画化されてもアフガン人はDVDの海賊版で観るしかないのだ。

 制作者たちは、こうした制約はかえってアフガンに思考の次元を拘束されることなく開放し、アフガニスタンにおけるロシア、イラクにおけるアメリカ、そして他の同様な地域へと移転しうる普遍性を主張できるという。映画を観るか否かは別にして、ホセイニのこの作品は、戦争、狂信といった視点から描かれることが多いアフガニスタンに、人間という内側から迫り、もうひとつのアフガン像を提示していることだけは確かなようだ

"The Other Afghanistan" Newsweek Dec.17, 2007.

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おぼつかない旅

2007年11月27日 | 書棚の片隅から

    本の読み方はさまざまだ。専門書の類はひとまずおくとして、エッセイのように断続的に読んでも、いっこうに差し支えない作品もあるが、小説のように感情の起伏、持続が消えないうちに一気に読みたいものもある。時々立ち止まって、考えながら読む方が深く味わえる作品もある。なんとなく、食べ物に似ている。

  これとは少し違ったタイプの本もある。仕事に追われていた頃、途中でさえぎられることなく時間をかけて集中して読んでみたいと思う本を書棚の一角に積み重ねていた。実はその時読もうと思えば読めないわけでもなかったのだが、断続的に読むのは著者に申し訳ないという感じを持っていた(なんとなく言い訳がましい)。結果として、取り上げるに少し勇気?のいる作品が山積みになる。

  外国作品の場合、しばしば初めに高い言語の壁が聳えていて身構えてしまうことが多い。とりわけ、ブログ筆者があまり得手ではない非英語圏の作品はそうである(そのいくつかはここに登場したが)。かつてドイツ語の恩師からいただいた100ページほどの現代思想の作品を、辞書を頼りに1年近くかけてなんとか読んだこともあった。いただいた以上、なにかの折には話題となるという圧迫感?がいつも背中を押していた。

  これに似たような感じを多少持っていた作家のひとりが、ドイツの現代作家フォルカー・ブラウンである。一寸不思議なご縁で著者には親しくお会いしており、作品に献辞まで記していただいた。それだけにおろそかには読めないという思いがしていた。そんな言い訳も積み重なっている作家の作品だが、これまでに2冊だけ読んでいた。そのひとつは『自由の国のイフィゲーニエ』という戯曲である。幸い日本語訳が刊行されていて、解題を含めても60ページ足らずの小冊子なのだが、読み始めてみるとかなりの難物だった。表題の通り、ギリシャ神話(悲劇)とゲーテに関する素養、そして旧東ドイツの社会についての心象的イメージなしには十分理解できない。中島裕昭氏による「訳者解題」がなかったら、座礁していた可能性が高い。真理は細部にあるのだが、その細部が読み切れない。

    この作家に別の点で関心を抱いていたのは、旧東ドイツのドレスデンに生まれ、その後東西ドイツの統合を自らの人生、作家活動の舞台として今日にいたっていることにあった。あのB・ブレヒトの創設した劇団ベルリーナー・アンサンブルの文芸部員、座付作家であったことも関心の片隅にあった。旧東西ドイツ双方の体制を経験してきたこの作家は、2000年、日本における芥川賞にあたるともいわれる「ゲオルク・ビューヒナー賞」を受賞している

  旧東ドイツの時代と社会がいかなるものであり、そこで作家としての純粋性を貫いて生きることがどんなことであったかは、今日ではある程度の情報が蓄積され、想像をなしえないわけではない。かなり注意して知見を増やそうともしてきた。しかし、第3者としての想像と、そこに身を置いた人の現実の間には越えがたい断絶がある。

  作家として自らが日々を過ごす社会の矛盾に正面から向かい合うほど、軋轢は増す。この作家は、ある時期からあのシュタージ(国家公安局)の常時監視下に置かれていたといわれる。89年に突如として「壁」が壊れた当時、フォルカー・ブラウンは来るべき東ドイツの選ぶ方向として「人民所有+民主主義」を構想していたらしい(訳者解題, p50)。この作家に関心を寄せた理由のひとつに、実はこの問題があった。ブラウンの想定した「人民所有」とはいかなる概念そして実体なのか。

  しばらく「労働者自主管理企業」といわれるモデルを研究課題として探索していたことがあった。主として旧ユーゴスラビアなどの社会主義体制下において試みられていた企業組織である。フォルカー・ブラウンが東ドイツの企業管理組織の下で働く労働者の迷走する姿を描いた戯曲の作者であることは知っていた。社会主義に期待が寄せられた時代は消滅したが、代わって世界を席巻している倫理なき資本主義への望みも薄れるばかりだ。

  今や「平らになった世界」を体験しているこの作家が、彼の人生の大半を過ごした政治体制との比較において、なにを思っているか、改めて聞いてみたい思いがする。そうしたわけで、ブラウンの新しい作品を読んでみようと思っている。とはいっても、目指す地にたどりつけるかは、まったく定かではない。


「作者による注解」からの引用(p.45):

略)核心をなす問いは、延期されているかに見える平和的労働の別の可能性に向けられる/
だがその労働は、旧い人間たちが新しいタウリスの地を踏むことで緊急のものとなる。トーアスが何を「なす」かは、経験が教えるだろう。ポストコロニアル時代には、勝者も敗者も勝手な振る舞いをしていて、区別ができない。その振る舞いが個性も自然も消し去るのだ。敵役となるのは、排除され、失業者として取り残された者たちだ。それは女性の姿をした黒人男か、黒人の姿をした女性である。サチュロス劇の衣装を取り換えて登場する狂気と理性だ。(以下略)

* Volker Braun. Iphigenie in Freiheit. Frankfursst/M. suhrkammp, 1992(フォルカー・ブラウン:中島裕昭訳)『自由の国のイフィゲーニエ』ドイツ現代戯曲選30(論創社、2006年)、pp.59.

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「アンクル・トムス・ケビン」の記憶

2007年09月17日 | 書棚の片隅から



最近、世界文学の古典的名作が多数、新訳で出版されるようになった。アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』などあまりに多数の新訳が並んでいて、選択に迷うほどだ。なんとか原著で読める作品もあるが、原著の外国語自体を知らない、生半可な語学力ではとても歯が立たない、などの理由で邦訳が頼りになる作品は大変有り難い。

こうした古典的作品の中で、これまでの人生で強い影響を受けた本は数多い。だが、その中から1冊を選べという選択を迫られるとかなり困る。本はいわば頭脳の栄養源に相当するので、一冊の本だけが自分の考え方を形作ってきたとは思えない。他方、愛着のある作品はかなり多い。人生の各段階で大きな印象を受け、また読んでみたいと思う作品はいくつか思い当たる。

たまたま書棚の整理中に思い当たり今回とりあげる、ハリエット・ビーチャー・ストウ『アンクル・トムス・ケビン』もそのひとつである。 これを読んだのは、戦後の小学生の頃だった。当時は今日のように児童書として平易に書き直された邦訳もなく、大人向けの書籍であった。内容があまりに衝撃的であったので、何度も読み返した。家のどこかに原本が残っているはずなのだが、残念ながら見つからない。しかし、そのイメージはかなりはっきりと脳のどこかに刻み込まれていた。

検索の助けを借りて記憶をたどってみると、当時手にしたのは、ハリエット・ビーチャー・ストウ(和気律次郎訳)「アンクル・トムス・ケビン」(世界大衆文学全集、改造社、昭和3年、原作1852年)であったことはほぼ間違いない。一時東京で教師をしていた母親の書棚から勝手に取り出して読んだ。最近の翻訳ではストーとなっていることもあるが、著者名も正しくフルネームで覚えていた。この時期の出版であったにもかかわらず、タイトルに「ケビン」(小屋)と英語のままに残されていたことなど、なんとなく懐かしいところがある。B6版?の箱入りで表紙も赤褐色(小豆色)の布目装幀であったように思う。今度、図書館へ行った時にでも確かめてみたい。  

作品のいくつかの描写はずっと後まで脳裏に刻み込まれていた。1850年代当時、奴隷州であったケンタッキー州からの逃亡奴隷イライザ母子は、騎馬でやってくる追手から逃れようと、想像を絶する決心をする。厳冬のオハイオ河、流氷の上を危険を覚悟で徒歩で越え、対岸の自由州であるオハイオ側へと渡り、さらにカナダへと逃れるようとする。流氷の間に落ちたら、それで終わりである。必死の思いで河を渡り、寒さに凍えきって助けを求めた家がなんと、「逃亡奴隷を救助することを禁ずる法律」の制定に関わったジョン・バード上院議員の家であった。

まさに手に汗握る情景なのだが、今でもかなりはっきりと覚えている。原著と比較して、どれだけ正確な翻訳であったかなどの点については、まったく分からなかったが、戦後まだ書籍数も少ない時代、子供心にもただ夢中で読んでいた。

この翻訳作品が当時の日本でどのように受容されたのか。その後少し気になっていたのだが、全容はまだよく分からない。1904年、仙台医専にいた魯迅なども読んでいたようだ。改造社版の翻訳は和気律次郎氏が出版事情で急遽引き受けた仕事ともいわれ、その後今日まで10人以上の訳者による翻訳が出ている。日本でも読者が多く、注目の作品であったことは間違いない(ちなみに、今参照しているのは Penguin Classics の1986年版*1である)。 

いうまでもなく、アメリカではこの作品は名実ともに衝撃的な影響を社会に与えたのだが、その実態については後に私自身がアメリカへ行くことになり、人種問題のさまざまな現実と直面して改めて実感したことも多かった。ストウのこの作品は多数の読者を得たが、いくつかの問題をめぐり、毀誉褒貶の大きな渦に翻弄された。

奴隷制廃止以後の実態については、アメリカ滞在中にかなり想像と現実のギャップを埋めることができた。1960年代以降、AFL-CIOを中心とする労働運動の大きな戦略的目標であった南部の組織化キャンペーンが遅々として進まなかった背景への関心、研究課題としていた繊維産業の北部から南部への移転にかかわる調査などを通して、南部深奥部(ディープ・サウス)の実態の一端に触れたことなどで、この文字通り画期的な作品の世界とその意味を再び考えさせられた。その後も南部や中西部諸州における日系企業や鉄鋼ミニ・ミルの調査などの関連で、公民権法成立以降の変化の一端にも触れることができた。

今改めてこのテーマを考え出すと、とめどもなく回想の糸がほぐれて行く感じがする。最初に思い出したのは、指導教授の一人だったN教授夫妻が自宅でのディナーに、この分野の主導的な歴史学者であったD.B.デイヴィス教授夫妻と共に招いてくださったことである。デイヴィス教授は、1967年『西欧文化における奴隷制の問題』*2で、ピュリツァー賞(歴史・自伝部門)を受賞された。その直後にお会いしたことになる。

  この受賞作は、アメリカ独立戦争当時、奴隷貿易は13州植民地でも法的に根を下ろした制度であり、独立宣言の起草者自身が奴隷を所有していたという衝撃的な指摘を含めて、当時の宗教的・思想的風土を掘り下げた力作であった。1770年頃までの人々の奴隷制への対応の分析が周到な考証に基づいて展開されていた。西欧における奴隷制の受容と反奴隷制思想がいかなる風土から生成したかを詳細に分析した名著となった。デイヴィス教授はその後、奴隷制と反奴隷制思想を中心にアメリカ屈指の歴史学者として、現在もグローバルな視野で活発に活動されている。

デイヴィス教授とは専門領域もまったく異なっていたのだが、日本から来たひとりの学生のために、こうした機会を設けてくれた恩師とアメリカの寛容さにはただ感謝するばかりだった。せっかくアメリカに来ているのだから、日本との比較研究などせずに、アメリカでしかできないことに時間を割いたほうがよいとのアドヴァイスもいただいた。

デイヴィス教授も働き盛りだったが、温厚、誠実な学者でさまざまな助言をしてくれた。当時のアメリカはヴェトナム戦争にかかわっており、国内では公民権運動が興隆し、「自由」と「束縛」というテーマを切実に考えねばならない時期であった。キャンパスでも反戦フォークソングが響き、その外には徴兵制度が待っていた。このブログでも触れたフォークナーやスタイロンなど南部を対象とした文学者へ親近感を持つようになったも、こうしたことがきっかけになっている。  

その後、アメリカ社会は大きな転換をし、ある意味では閉鎖性も強まった。奴隷制度の背後にある人種問題も大きく変容した*3。私のアメリカについての見方、関心の対象、社会観もかなり変わった。しかし、『アンクル・トムス・ケビン』を読んだことから始まった一連の強い印象の数々は、スナップショットのように今日も消えることなく残っている。

 

 

 

*1
Harriet Beecher Stowe. Uncle Tom' Cabin or Life Among the Lowly. first published 1852, Reprinted  in Penguin Classics 1986.

*2
David Brion Davis. The Problem of Slavery in Western Culture. Ithaca: Cornell University Press, 1966. (画像はPelican Books edition)  
デイヴィス教授はその後1970年にイエール大学へ移られ、奴隷制度史研究の第一人者として、多くの栄誉ある賞なども受けられ、今日でも研究、著作活動を続けておられる。
Sterling Professor of History Emeritus and Director Emeritus, Gilder Lehrman Center, Yale University.

*3
高野フミ編『『アンクル・トムの小屋』を読む』(彩流社、2007年)は、この作品を小説、宗教、女性運動、ジャーナリズムなどの多角的観点から批評、論じている。記憶を確認する上でも大変有益だったが、『アンクル・トムの小屋』が刊行されてからすでにかなり長い年月が経過しており、現代の読者のために日本における受容の歴史についての言及が欲しい思いがした。


 

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記憶の糸:「三文オペラ」へ

2007年08月24日 | 書棚の片隅から

 このところ記憶の糸が不思議なほぐれ方をしている。映画『善き人のためのソナタ』のブレヒト詩集の連想から、グリンメルスハウゼン、『肝っ玉おっ母とその子どもたち』までつながったのは予想外であった。さらにベルリンの陰翳、イシャウッドまでいってしまった。

 これでしばらく、このトピックスはお休みと思っていたところ、ブログではあえて触れないでおいたブレヒトの名作『三文オペラ』が、東京で10月9日から音楽劇として公演の運びとなるとの案内を受け取った。あまりにタイミングがよいのでまた驚くことになった。

  『三文オペラ』は名作だけに世界中でとりあげられてきたが、そういつでもどこでも上演されているわけではない。幸いこれまで文芸座公演、ミュージカルを含めて見る機会があった。しかし、ブレヒトが考えていた音楽劇なるものが、本当はどんなものであったかについては、あまり深く考えたことがなかった。

 人生の結末が見えてきた今、もう一度だけ見せてやるよという神の思し召しと考えることにして、早速予約手配をした。文学や美術を専攻したわけでもなく、世俗のまっただ中で日々を過ごしてきた。ブログでとりあげている対象も、その間いくつかのジャンルに引っ張られて息抜きのように見てきたものの断片にすぎない。しかし、不思議なことにある時代にはまったく見えなかったものが、急に見えてきたりしている。

 
『三文オペラ』は、「オペラでもオペレッタでもミュージカルでもない音楽劇」(岩淵:解説)であるとのこと。今回、演出の白井晃氏は音楽劇を標榜されており、その点でも楽しみである。今回の翻訳は酒寄進一氏である。設定も異なり、新しいイメージが創られる。『三文オペラ』はかなり自由度がある。

 
 『三文オペラ』の邦訳は、2006年にブレヒト研究の第一人者、岩淵達治氏の新訳(岩波文庫)*で読んだこともあり、とりわけソングの翻訳になみなみならない努力を傾注されていることに圧倒された。新訳に付された「訳注」、「解説」部分は、この翻訳がプロの仕事であることを十二分に見せてくれた。今回の公演ではどんな翻訳がされているか楽しみだ。

 演出に当たる白井晃氏は現代のアジアのどこかの街をイメージして描くとのこと。どこのことだろう。これまで異なった解釈から、いくつもの『三文オペラ』がステージに登場してきたが、それもブレヒトの意図なのかもしれない。

 そのひとつの証左として、原作の『三文オペラ』自体、時代設定が特定されておらず、19世紀後半のような雰囲気といわれてきた。読んでみて確かにそうした印象を受ける。ヴィクトリア女王の戴冠式では外れている。といって、他の時代への特定はできない。ブレヒトは設定を演じる者や見る者の裁量にかなり委ねている。他方、ブレヒトにはこの作品にベルリンの「黄金の1920代」の空気を反映させたいという思いもあったらしい。読んでいると、また眠っていた脳細胞が呼び起こされそうな部分がいくつもある。

 ここでは、ブログとの関係でひとつだけ記しておこう。個人的には、以前にとりあげた1910年頃のロンドンを舞台としたT.シュヴァリエ『天使が墜ちるとき』ともかなり重なるような読後感がある。 ここでは戴冠式ではなく、婦人参政権運動サフラージュのデモのシュプレヒコールが響いていたが。


*ブレヒト作・岩淵達治訳『三文オペラ』岩波文庫、2006年。

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キリストはエボリに止りぬ:ある個人的な回想

2007年08月20日 | 書棚の片隅から


 10代の終わりの頃であったか、「岩波現代叢書」と呼ばれたシリーズをかなり夢中になって読んだ時があった。別に岩波書店のPRをするつもりではないが、大変魅力的なタイトルが含まれていた。その中には今もかなり鮮明に記憶に残っている数冊がある。

 すぐに思い出すかぎりでも、R.ネイサン『いまひとたびの春』 、C.レーヴィ『キリストはエボリに止りぬ』、H.J.ラスキ『国家:理論 と現実』、E.コールドウエル『タバコ・ロード』、P.ギョーム『ゲシュタルト心理学』などである。たとえば、『いまひとたびの春』は1920年代の大恐慌のことが話題になると、どういうわけかキーワードのように最初に出てくるほど記憶度の順位が高い。後になって読んだガルブレイスの『大恐慌』よりも先に思い出す。このブログで映画「クレードル・ウイル・ロック」に関連して、記したこともあった。

 数年後初めて仕事に就いた職場の先輩で、なにかとご教示いただいた Iさんが、この叢書にも含まれているラスキやカーの翻訳でも知られたIR氏の奥様であったのも、人生の出会いの不思議さのひとつであった。

 余談はさておき、配送されてきたばかりの雑誌を拾い読みしていると、「キリストはまだエボリに止まっている」:Christ still stops at Eboliという小さな囲み記事が目にとまった。カリオ・レーヴィCario Leviの作品表題が未だ生きていたからだ。今の時代、ほとんど誰も忘れているだろうと思っていた。個人的にはこの作品を読んだことがひとつのきっかけとなって、その後グラムシやパオロ・シロス=ラビーニなどの著作に惹かれることにもなっただけに、強く印象に残っていた(これについても、後年不思議な出会いがあるが、別の機会に記す)。

 レーヴィは、北と南が別の国のように異なる当時のイタリアについて、北の繁栄と対比しての南の絶望的な貧困を描いた。エボリは、1935年ムッソリーニがカリオ・レーヴィを追放した場所である。ちなみに、エボリは長靴型のイタリアの底に近い所である。

 エボリ周辺の今日の風景は、カリオ・レーヴィの描いた当時とあまり変わっていないらしい。土灰色の丘陵が平原へ急斜面でつながり、アグリ川が流れている。渓谷の上に広がるアリアーノと呼ばれる一群の家々も当時と変わりなくそこにある。

 もちろん、レーヴィがこの地域の貧困の悲惨さを書いた後、70年余の年月が過ぎ、多くの変化もあった。今日のアリアーノには水道、電気、道路、学校もある。長らく人々を悩ませたマラリアも50年前に絶滅された。出稼ぎ労働の結果とイタリア政府やEUからの地域開発援助によって多くの消費財も持ち込まれた。

  しかし、ここはいまやマフイア組織犯罪の巣窟ともいえる地域に化しているようだ。その内部抗争はエボリという地域を離れて、今年8月初めドイツのデュイスブルグ駅近くで仲間同士の争いになり、6人のイタリア人が射殺されるという事件にまで展開した。デュイスブルグは、何度か訪れただけに記事を見て驚いた。

  こうした抗争の背景には、EUから流れ込む南イタリア地域開発のための多額な公的資金の争奪がかかわっているらしい。あらゆる組織が犯罪にかかわり、歯止めがかからない状況が生まれている恐ろしい状態。自浄作用がほとんどなくなっているのだ。考えてみると、南イタリアばかりではない。世界には神も足を踏み入れない地域がまだ多数あるようだ。 酷暑の中、突然の記憶の再生に複雑な思いだった。

 

References
‘Southern Italy: Christ still stops at Eboli.’ The Economist August 18th 2007.


C.レーヴィ(清水三郎治訳)『キリストはエボリに止りぬ』岩波書店、1951年。

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交錯する記憶の旅:ゼーバルト『土星の環』を読む

2007年08月04日 | 書棚の片隅から

 

W.G. ゼーバルト(鈴木仁子訳)『土星の環:イギリス行脚』白水社、2007年.


  「ゼーバルト・コレクション」の新訳『土星の環:イギリス行脚』が配本されてきた。この作者の作品に親しむようになってから、いつも少なからぬ衝撃と驚きがある。これまで読んできたいずれの作品も、過去・現在・未来、そして現実と虚構が隔てなく行き交い、それもある部分はすさまじい迫真力をもって、ある部分は深い靄の中に紛れ込んだような不思議な世界である。さまざまなプロットが縦糸と横糸のように複雑に織り込まれている。しかし、ひとたび足を踏み入れれば違和感はいつとはなしに解消し、ゼーバルトの世界に浸りきってしまう。

 この作者にとりわけ惹かれるのは、ひとつには自分がこれまで過ごしてきた日々や関心の在り処と微妙に交錯しあう部分があるからかもしれないと思う。その意味では、今度もきわめて個人的な受け取り方なのだ。作品の内容からしても、読者ひとりひとりがイメージするゼーバルトの世界は、決して同一のものではないだろう。

 それにしても、ゼーバルトが使っているプロットは、不思議と私的に因縁があるものが多い。とりわけ、その思いは、『土星の環』を読み始めてたちどころに深まった。というよりは、あまりの重なり方に背筋が冷えるような思いがした。

 その衝撃はページを開いた時から始まった。ゼーバルトの著作には写真が多用されているのだが、今回はレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』のモノクロ写真にいきなり驚かされた。先日、まったく異なった脈絡の中で出会い、ブログにも記した作品だからである。

  ゼーバルトはその生涯を2001年末、イギリス北部ノフォーク州ノリッジ近くで不慮の交通事故で終えた。娘さんと運転中に脳卒中の発作が起き、タンクローリーに衝突したらしい。

  この作品は、1992年にある大きな仕事を終えた著者が、その空虚を埋めるがために、イギリスのイーストアングリア南東部サフォーク州*を徒歩で旅するとの設定で始まっている。ここはゼーバルトが長年勤務したイーストアングリア大学のあるノフォークの隣の州である。そして、1年近い旅の終わりに身動きできないような状態でノリッジの病院へ担ぎこまれ、入院生活を送る。なにかその後の人生を予感させるような話である。

 退院後、あるきっかけで17世紀、1605年ロンドンに生まれた外科医トマス・ブラウンなる人物の遺骨の行方をめぐる問題に関わる。トマス・ブラウンは医学を志し、モンペリエ、パドヴァ、ウイーンのアカデミーで学び、オランダのライデンで医学博士となり、28歳ごろにイギリスに戻る。そして、このオランダ時代、あのレンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』を実見していたのではないかという推理が投入される。この歴史的にも名高い講義は1632年1月に公開講義として計量所会館で行われた。作品に描かれた名医以外に多数の人々が見守っていたのだ。まさに医学を志す者ばかりでなく、人知の闇から光へと抜けるひとつの歴史的瞬間でもあった。

 ゼーバルトのこの『テュルプ博士の解剖学講義』についての視点の鋭さは、驚異としかいいようがない。レンブラントはラ・トゥールとともに私の「仕事」以外の関心の重要な部分に位置しているので、この作品(マウリッツハイス美術館所蔵)はかなり克明に見てきたつもりであった。いくつかの専門書も読んできたが、この作品についてこれほど深く読み込んだ観察は初めてであった。

 まず、テュルプ博士を初め、描かれた当代著名な外科医たちが正装し、テュルプ博士にいたっては帽子まで被っているという光景は、グループ・ポートレートという新たな肖像画ジャンルのために、画面上で正装させて描いたと、うかつにも思い込んでいた。しかし、これは単なる解剖学の講義ではなくて、人間の肉体を切り刻むという太古の儀式を継承しており、現実にこうした姿で講義も行われたらしい。さらに、医師たちの視線がテュルプ博士の説明する解剖部位ではなくて微妙に逸れている理由にも驚かされた。視線の先は解剖された部分ではなく、画面右端に置かれた解剖学図譜のページに向けられている。

 ゼーベルトの驚くべき指摘は、解剖されている左手の腱は虚構であり、実は右手のものであるという点であった。描かれているのは解剖された左手のものではなく、解剖書の右手の部分なのだ。レンブラントはなにを思い、ゼーベルトはいかなる解釈をしたか。さらに興味深い点は多いのだが、レンブラントという稀代な画家がこの一枚の作品にこめた深い思想と、それを読み解こうとしたゼーベルトという作家の能力には、言葉を失った。 

 さらに瞠目したことがあった。数ページ後に、あのグリンメルスハウゼンの『阿呆物語』におけるジムプリチウス・ジムプリチシムスが登場するのだ。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』(1967年、ブエノスアイレスで刊行)を介在して、ジンプリチシムスが出くわした怪物、<刻々変幻>パルトアンデルスが登場する。森の奥で石像と化していたこの怪物は、ジムプリチシムスの眼の前で変身し、書記となってつぎのことばを書く。「われは初めにして終わりにして、いかなる場所にても真なり」(邦訳p.27)。 

 かくして、医師トマス・ブラウンを追い求める思索の旅は、細々とした糸ながら切れることなく、この作品に縫いこまれていく。まさに絶妙としか言いようがない。縦糸と横糸は不思議な世界を織り出しながら、時には復元しがたいような脈絡に迷い込む。しかし、いつの間にか、基調に戻り、ストーリーが紡ぎだされてゆく。短いが深い脈絡を保つ10の章の第1章からこの深み、闇というべき最中にはまり込み、一人の読者として、しばらく茫然自失のような時を過ごすことになる。

 トマス・ブラウンという医師の探索を細い糸として、ゼーベルトは時空を縦横にかけめぐる。ヨーロッパのほぼ全域のみならず、中国、西大后の時代へ、そして第二次大戦中のホロコースト、さらにはサッチャーの新資本主義まで織り込まれている。しばしば、ノスタルジックな色を漂わせながらも、それに沈潜しきってしまうわけではない。

 終章に近く、イーストアングリアの都市ノリッジにおける絹織物産業の盛衰が現れる。18世紀初頭はロンドンに次ぐ大都市で、絹織物の繁栄に深夜も工場などに灯火が絶えることがなかったという。その背景には世界史を舞台とした絹織物産業の栄枯盛衰が反映していた。しかし、時代は移り変わる。この壮麗な大伽藍が印象的な都市は、今訪れるとなんとなく寂寞として空虚な感じを受ける。こうした都市にありがちな陰鬱、退廃といった感じではなく、美しさと静かさを保ちながらも盛期を過ぎたという光景であろうか。そして、絹商人の息子として生まれたあのトマス・ブラウンは再びここに現れる。それにしても、『土星の環』とはなにを象徴するのだろうか。読者はそれぞれに、これまでの本書とともに辿った旅を想起させられることになる。

 

* 1994-95年にかけてイギリス滞在中、この地域の旧跡・城址などを歴訪していた個人的体験と重なる部分が多い。埋もれた記憶を呼び起こされた感がする。ゼーバルトの記憶の深さ・広さに感嘆するばかり。

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もうひとつのバロックの響き(2)

2007年07月29日 | 書棚の片隅から

    恐らく若い時期のラ・トゥールがひとつのジャンルとして、大きなエネルギーを注いだシリーズは、「ヴィエル弾き」であった。そこに描かれた放浪の老楽士が使う楽器ハーディ・ガーディ hurdy gurdy(フランスではヴィエルvielleと呼ばれることが多い)は、今日では古楽のアンサンブルなど特別な機会にしか接することができない。

  しかし、この楽器の原型は11世紀くらいには出来上がっていたらしい(organistrum と呼ばれることもある)。あの聖地巡礼で著名なサンチアゴ・デ・コンポステラに、その演奏風景を記した彫像が残っている。楽器の形態は、簡単な鍵と弦楽器を組み合わせたような仕組みで、初期には二人一組で演奏していたらしい。ひとりがクランクを回し、もうひとりが鍵を引っ張って演奏していた。弦も1~3本程度の大変簡単なもので、主として修道院や教会などで合唱の伴奏などに使われていたようだ。

  その後、改良が加えられ、ひとりの演奏者でクランクと簡単な鍵を操作することができるようになった。ラ・トゥールの作品に描かれているのは弦が3本である。この楽器は主として、スペインやフランスで 使われていた。ルネッサンス期にはバグパイプなどと並び、大変よく知られた楽器となった。そして、形状もラ・トゥールの絵に出てくるような短いネックと箱形の本体を持ったものになってきたようだ。弦から発生する独特な振動音が特徴である。

  フランスで発達したものは形状が円形のリュート(14-17世紀に多用された丸い胴を持つ琵琶に似た弦楽器)のような反響板を備えたものである。フランスでは、ヴィエルvielleの名で知られてきた。

  しかし、17世紀末にかけて楽器の主流は、より多音・ポリフォニーな音調を要求するようになって行き、単調なハーディ・ガーディは社会の下層階級のための楽器へと追い込まれていった。「農夫の竪琴」、「乞食の琴」などの名前で呼ばれることになった。ラ・トゥール以外にも、ハーディ・ガーディを描いた作品はいくつかあるが、その多くはみすぼらしい身なり、時には盲目の楽士が演奏する楽器となっている。長い苦難に満ちた漂泊の旅を続ける老楽士として描かれている。

  その後、18世紀に入ると、少し様子が変わってきた。フランスでは、田園風な、雅趣にあふれた曲目が好まれるようになり、ハーディ・ガーディが再び見直され、演奏される機会も少しずつ増えてきた。古楽の復活ブームも背景にある。前回ブログで紹介したアンサンブルはそのひとつの表れである。楽器としてもかなり改良、進歩がはかられた。

  バロック音楽としていかなる概念を組み上げ、イメージを抱くかについては、あまりに多くの記すべきことがあり、ここでの課題ではない。しかし、しばしば思い浮かべるバロック音楽の華麗な世界の片隅に、ひっそりと忘れられたもうひとつの世界があったことを記憶にとどめておく必要がある。

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もうひとつのバロックの響き

2007年07月26日 | 書棚の片隅から

After George de La Tour, A Woman Playing a Triangle(original 1620s?). private collection, Antwerp.

    近着の『考える人』2007年夏号に掲載されている岡田暁生氏の「音楽史を知って深く聴く」という短い読書案内を読んだ。その中で、「民主主義の19世紀において音楽が「誰にでも求めれば手に入るもの」になるより前、それが特権階級(貴族と僧侶)の独占物だった時代に、一体どんな音楽が鳴り響いていたのか?」という一節に目が止まった。  

  確かにバロックの時代、音楽は王侯、貴族のものであった。音楽好きなルイ13世は食事の間、お気に入りのヴァイオリニストとリューテニストに演奏させて眠りへの前奏曲としていた。いわば、睡眠薬にもなっていた。彼らのBGMがいかなるものであったのかは、いずれ触れてみたいこともある。   

  他方、民衆に音楽がなかったかといえば、そうではない。彼らは豪華絢爛とはまったく縁遠いが、別のジャンルの音楽を持っていた。たまたま2005年5月に西洋美術館で「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」展が開催された折、それに合わせて「ラ・トゥールの響きをもとめて」と題する小さなコンサートが開催された。演奏はル・ポエム・アルモニークという古楽アンサンブルであった。  

  そこでは今では珍しい楽器ヴィエル(手回し琴)も演奏されて、目と耳を同時に楽しませてくれた。曲目の中には15世紀初頭より伝わるボーヌ地方民謡、ブルターニュ地方の哀歌など、遠い時代の響きを復活させようとした試みも含まれ興味深かった。演奏会場が美術館のロビーであり、古楽とはいえ、楽器も当時のものより改良されているので、雰囲気がなんとなくモダーンで、期待と異なる部分もあったが、それなりに楽しむことができた。舞台装置という意味では、かつてケンブリッジのコレッジの一室で時々催されていた古楽アンサンブルやイーリーの教会で図らずも聴いた誰も観客がいない部屋での練習風景の方がぴったりしていた。  

  この時代、辻音楽師がそれぞれ町や村をめぐり、漂泊の旅を続けながら生活の糧を得つつ、人々を楽しませていた。 17世紀のこの時期、民衆の耳に響いた音楽の音は、きわめて素朴なものだった。歌唱に加えて、楽器はフルート、リュート、ヴァイオリン、トライアングル、ヴィエル、バグパイプ、ドラムなどが主たるものである(原画はラ・トゥールではないかといわれる「トライアングルを弾く女」というコピーも存在する。上掲イメージ)。  

  ラ・トゥールはどうもヴィエル弾きがお好みだったようで、いくつかのヴァージョンを残している。この画家はある時期、ヴィエル弾きを描くことならば、ラ・トゥールという評判を得ていたのではないか。しかし、画家が放浪の音楽師であるヴィエル弾きを好んで描いたのは、彼らをロレーヌでよく見かけたからであろう。工房へ呼びモデルとなってもらったのかもしれない。

  そして、この画題による作品が多く残ることは、当時の人々にも強くアッピールするものを持っていたのだろう。なにが待ち受けるか分からない、不安に満ちた時代、唯一つ楽器に頼って、時に子犬などを旅の伴侶として、漂泊の旅路をたどった楽師は、その哀愁がこもった歌と楽器の響きで当時の人々の胸を打ったに違いない。

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