大倉草紙

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【三重】 神戸城

2009年10月21日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


「伊勢平氏の子孫石氏の一族神戸氏は、南北朝時代(十四世紀)飯野寺家の地に沢城を築いたが、戦国時代の一五五〇年には、この地に神戸城を築いて移った。
 神戸氏七代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄十一年(一五六八)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。
 信孝は、天正八年(一五八〇)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄四年(一五九五)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
 江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保十七年(一七三二)本多忠統が入国する。
 本多氏の治世は一四〇年間七代忠貫まで続き、明治八年(一八七五)城は解体される。
 その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
  平成十四年三月  鈴鹿市教育委員会」(案内板より)


天守台


土塁


水堀


二の丸跡、三の丸跡は、神戸高校になっている。

【三重】 伊勢上野城跡

2009年10月20日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


井戸跡

「上野城は、元亀元年(一五七〇)織田信長の弟信包が津城の仮城として、この地に築城し、天正八年(一五八〇)津城の完成と共に、信包に代り、分部光嘉が上野城代となり 文禄四年(一五九五)一万石の独立した上野城となって光嘉が城主となった。
 慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦の際 津城主富田信高をたすけ、その功によって所領二万石となったが、元和五年(一六一九)城主分部光信は江州大溝藩へ移封となって、上野藩は廃藩となった。
 この城は、標高三〇米の大地に土畳ねかさみで構えたものであって現在 跡といわれる台状地があり、その北隅にさらに高い櫓状の台状地がある。この東側の畑と山林が二の丸といわれ 本丸、二の丸を囲む、南、北、西の平坦地は、家中の侍屋敷が立ち並んでいたという。
 本丸の一角に本城松という、一大松樹があって 海上を航行する船々漁民のめじるしとして尊重されていた。」(案内板より)


上野城の遺構(案内板より)
錆びて読み辛くなっているが、中央の文字は「本丸」、下の方に書かれているのは「二の丸跡」。


展望台
現在、城跡は、本城山青少年公園になっている。

【三重】 津城

2009年10月19日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


三重櫓

「津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が寛政し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
 慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が『回』の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる城の形である。
 城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りをしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。」(案内板より)


本丸跡は公園になっている。
うるさいくらいに蝉が鳴いていた。


本丸跡に建っている藤堂高虎の銅像


高山公遺訓
高山公とは、藤堂高虎のこと。
「可為士者常之覚悟之事
 寝屋を出るより
 其日を死番と可心得
 かやうに覚悟を極めるゆへに
 物に動ずる事なし
 是可為本意」


西の丸跡は、日本庭園になっている。


入徳門
文政3年(1820)にできた藩校「有造館」の正門。
西の丸跡に移築されている。


内堀

【三重】 霧山城

2009年10月18日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】【猿田彦神社】【伊勢神宮(内宮)】【尾崎咢堂記念館】【田丸城】【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】【三井家発祥地】【松阪商人の館】【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】【松阪市立歴史民俗資料館】【松阪城】【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】【御城番屋敷】【北畠神社】【霧山城】 → (津泊)


本丸跡にある霧山城跡の碑

霧山城跡は、館跡のある北畠神社から比高差約240メートルの山頂に位置する。
霧山城は、北畠親房の子・顕能が、興国3年(1342)に築城。
永禄12年(1569)、織田信長は滝沢一益に命じて霧山城を陥落させる。
北畠具教は、信長の二男・信雄を養子に迎えて和議を結ぶが、天正4年(1576)、隠居していた三瀬館にて信雄に暗殺され、廃城となった。


霧山城登山口は、北畠神社の裏手にある。


山道は整えられている。


途中にあった案内板
見辛いが、緑色が霧山で、左側の黄色い部分が「鐘撞堂跡」で、更に進むと(右側)「本丸跡」「米倉跡」「矢倉跡」が残っている。


鐘撞堂跡


鐘撞堂跡がある場所は、標高562メートル。


本丸跡


米倉跡


矢倉跡




山頂からの風景
山並みが美しい。
風が涼しく、木々がざわざわと音を立てるのも心地よい。
暗くなりかけていたし、雷の音が遠くに聞こえてきたので、長居ができなかったのは残念。
夏の日にお弁当と本を持って霧山城に登り、一日ゆっくり過ごしてみたいと思った。
今まで登った山のなかで、一番気持ちが良かったんじゃないかな。

【三重】 北畠神社

2009年10月17日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】【猿田彦神社】【伊勢神宮(内宮)】【尾崎咢堂記念館】【田丸城】【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】【三井家発祥地】【松阪商人の館】【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】【松阪市立歴史民俗資料館】【松阪城】【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】【御城番屋敷】【北畠神社】【霧山城】 → (津泊)


北畠神社は、北畠氏館跡に鎮座する。
寛永20年(1643)、北畠一族の末裔鈴木孫兵衛家次がこの地に小祠を設けて、北畠八幡宮と称したのがはじまり。


本殿
中央に天狗が!


末社・多藝神社


北畠顕家像


北畠顕能の歌碑

北畠氏館跡は、北畠神社境内を中心に西を山裾、それ以外を川で囲まれた場所にあある。

入口跡


石垣
中世城館では日本最古の石垣なのだそうだ。


建物礎石跡


留魂社
祭神は、北畠具行、北畠満雅、北畠具教、北畠一族並びに家臣、郎党、農民の戦没者。


北畠氏館跡庭園
16世紀に細川高国が作庭したものと伝えられている。


北畠神社の御朱印

【三重】 御城番屋敷

2009年10月16日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】【猿田彦神社】【伊勢神宮(内宮)】【尾崎咢堂記念館】【田丸城】【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】【三井家発祥地】【松阪商人の館】【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】【松阪市立歴史民俗資料館】【松阪城】【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】【御城番屋敷】【北畠神社】【霧山城】 → (津泊)


松阪城の隠居丸跡あたりから町を見渡すと、長屋の瓦屋根が美しく並んでるのが見える。
御城番屋敷(ごじょうばんやしき)と呼ばれるこの建物は、文久3年(1863)、紀州藩が松阪城を警備する藩士たちのために建てた住居。
国の重要文化財に指定されている。
屋敷に住んでいた藩士の子孫たちは今もなおこの武家屋敷で暮らし、合資会社苗秀社を設立して維持管理にあたっている。


石畳の道の両側に、御城番屋敷が建っている。
生垣が美しい。


屋敷はこんな感じ。


松阪城に向かって左側の棟は、補修工事中。
築146年の屋敷なので、傷みもひどいのだろう。


御城番屋敷・土蔵
中は、資料館になっている。

美しく保存されている御城番屋敷。
子孫たちと松阪の人々の誇りが感じられる。
伝えていくものが存在する幸せと、その担い手がいることの心強さ。
よいものを見ることができた。

【三重】 松阪城

2009年10月15日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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天正12年(1584)、蒲生氏郷は12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城。
しかし、松ヶ島城は伊勢湾に面し狭小なことから、天正16年(1588)、この地に新たに築城した。
「松坂城」の名は、縁起のいい「松」と大坂城の「坂」の字をもらって付けられたという。
現在は、「阪」の字を用いる。
天正18年(1590)、氏郷は小田原攻めの軍功により、黒川城(会津若松城)の太守となり、以後は、服部一忠、古田重勝・重治が城主となる。
その後、徳川頼宣の領地となり、和歌山藩松坂城代が置かれたが、建造物は明治になって取り壊された。


天守閣跡


敵見櫓跡


金の間櫓跡


本丸跡


本丸跡の石垣


中御門


中央に建つのは梶井基次郎文学碑、その右側が月見櫓跡


二の丸跡に建つ梶井基次郎文学碑
『城のある町にて』では、松阪の町が描かれている。


隠居丸跡
本居宣長記念館の隣に移築された「鈴屋」(本居宣長旧宅)の敷地内にある。

【三重】 松阪市立歴史民俗資料館

2009年10月14日 21時00分00秒 | 美術館・博物館・記念館・資料館
7月19日(日)
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城の傍らにしっくりくる、とても素敵な建物だ。
玄関脇に置かれた赤いポストも愛らしい。
案内板を見れば、国登録有形文化財だということだ。

「松阪市立歴史民俗資料館
 (旧飯南郡図書館)本館・倉庫
 資料館の建物は、明治四十三年(一九一〇)の皇太子の飯南郡への行幸を記念して一般から寄付を募り、飯南郡図書館として建設されたもので、明治四十五年四月に開館した。開館当初は、本館、倉庫、新聞雑誌縦覧所の三棟があったが、新聞雑誌縦覧所は昭和初期に解体された。
 本館は二階建てで、伝統的な和風の意匠をもち、左右に翼部、中央に玄関が突出した左右対称の構成に特徴がある。倉庫は、本館の東に隣接して建つ二階建ての土蔵で、漆喰壁を下見板で覆い、外観の意匠を本館と合わせているが、高さを低く押さえている点が、立ちの高い本館とは対照的になっている。
 その後、背部を増築して松阪市立図書館として使用してきたが、昭和五十二年(一九七七)に図書館が別の場所に新築移転したため、翌年に内部改修を行い、松阪市立歴史民俗資料館として現在しようされている。
 二〇〇七年十一月二十一日  松阪市教育委員会」(案内板より)

参宮街道沿いの湊町にあった薬種店を再現したもの、松阪木綿や伊勢白粉(おしろい)に関する展示がある。
伊勢白粉の原料は、丹生から採れる水銀。
水銀鉱石を蒸留加工すると白い粉になるという。
「おしろい」という名の通り、もちろん化粧品として使われ、お伊勢参りのお土産として人気を博していたそうだが、それだけではなく、様ざまな薬の原料にもなっていたようだ。
身体には悪くないのだろうか?

【東京】 乃木神社 管絃祭

2009年10月13日 21時14分00秒 | 祭り・催し

乃木神社で管絃祭があるというので、出かけてみた。


目の前の乃木坂がその名で呼ばれるようになったのは、乃木希典が殉死した大正元年9月以来のこと、とこの碑に書いてある。
それまでの名は「幽霊坂」。


一の鳥居


一の鳥居をくぐると、左手に、旧乃木邸裏門がある。
年末年始と祝祭日以外は拝観できる。
邸内も拝観するなら、9月12、13日。


手水舎の脇では、管絃祭を待つ人のために軽食を販売していた。


メニューは、神社っぽくない。


拝殿


拝殿の中のこちらの椅子に座って、管絃祭を鑑賞する。


幣殿で管絃や舞楽が奉納される。
撮影はできない。

管絃祭は18時から2時間弱。
修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、玉串拝礼の後、管絃、舞楽と続く。
演目は次の通り。
【管絃】 
盤渉調音取(ばんしきちょうのねとり)
青海波(せいがいは)
朗詠 紅葉(こうよう)
蘇莫者破(そまくしゃのは)
【舞楽】
北庭楽(ほくていらく)
延喜楽(えんぎらく)

日がだいぶ短くなってきた。
始まる頃には、あたりはすでに暗い。
虫の音がどこからか聞こえてきて、風流、と思いきや、ヘリコプターの音が。
でも、次第にそれもあまり気にならなくなるから不思議だ。
古くから伝えられてきたものと、今と。
様ざまなものが溶け合った空間を楽しんだ。


乃木神社の御朱印

【三重】 本居宣長ゆかりの地

2009年10月12日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月19日(日)
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【本居宣長旧宅跡】

「国指定特別史跡 本居宣長旧宅跡 附 春庭旧宅・土蔵
所在地 松阪市魚町一六四五番地
面 積 四三六・三六平方メートル
特別史跡指定 昭和二十八年三月三十一日
 近世を代表する国学者 本居宣長(一七三〇~一八〇一)が、十二歳から七十二歳で生涯を閉じるまでの六十年間を過ごした場所である。宣長はここで医者を開業する傍ら、日本の古典を研究し、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など七十八種二百六冊に及ぶ著述を成し、また全国五百余名の門人を指導した。言わばこの地は、近世国学が大成された記念すべき場所である。
 宣長の住んだ居宅は、明治四十二年に保存と公開のために松阪公園へ移築され、宣長の書斎の名前である『鈴屋(すずのや)』の名称で今も親しまれている。現在、旧宅跡に礎石とともに残る家は、宣長の長男 春庭の旧宅と本居家の土蔵である。(以下略)
 平成十六年九月十四日  松阪市教育委員会」(案内板より)


礎石(手前)と春庭邸宅(左奥)と土蔵(右奥)


【本居宣長記念館・鈴屋】

「宣長の探究心」と題した平成21年夏の企画展を見る。
17歳のときに描いた日本地図『大日本天下四海画図』をはじめとし、夥しい数の著作や書簡などが展示されていた。
探究心の強さと持続力に先ずは圧倒される。
『万葉集問目』は感動的だ。
これは、いわゆる「松阪の一夜」の後、師である賀茂真淵と宣長との間で書簡にて行われた質疑応答。
宣長が会った人物や噂に聞いた人物について記された『文通諸子居住処並転達所姓名所書』も興味深い。
なんでもかんでも記録に残したようだ。
不世出の天才は、不断の努力から生まれたのだなあ。


本居宣長旧宅
本居宣長記念館の隣に移築されている。
1階屋根と2階屋根の間に斜めにうだつが設けられている。
松阪のうだつは、このような形なのだそうだ。
2階の書斎は、宣長が53歳の時に物置を改造して設けたもの。
書斎は、「鈴屋(すずのや)」と呼ばれる。
その名は、床の間の柱に掛鈴を下げていたことに由来する。
その掛鈴は、6個の小さな鈴をまとめたものを細い帯状の布の6か所に紐で結んだもので、宣長はこれを勉学の間に鳴らしたのだという。
本居宣長記念館に掛鈴が展示されているが、これは長男春庭が作ったレプリカ。
オリジナルは現存しないそうだ。


書斎「鈴屋」への階段
宣長の身長は約170㎝あったそうだが、この階段をのぼるのは大変だっただろう。
書斎に籠ったら、集中できるように、この階段は外されたのだという。


五右衛門風風呂


【新上屋跡】

本居宣長記念館前にある新上屋跡の碑
「ここにある二つの碑は、賀茂真淵と本居宣長のたった一度の歴史的な出会い『松阪の一夜』を記念し、その対面の場となった日野町の旅籠『新上屋』跡に建っていたものである。
 宝暦13年(1763)5月25日夜、兼ねてから私淑していた賀茂真淵に対面することを得た本居宣長は『古事記』研究の志を述べ、真淵はその決意を誉め、指導を約束する。宣長34歳、師真淵67歳のことである。
 右の『賀茂真淵・本居宣長初対面新上屋跡』は、この場所が昭和28年松阪市の指定史跡になったときに建ったものであり、また正面の大きな『史跡新上屋跡』碑は昭和45年に建てられたものであるが、たび重なる都市近代化事業の道路拡幅により、ここに移転して保存している。
 今は三代目の碑に改まっている。」(案内板より)


日野町に建つ三代目の碑


新上屋が建っていたのはこのあたりか?
碑の傍らの説明は、近くの化粧品店「むらさきや」さんが書いている。
訪ねると、快く説明をして下さったうえに、宣長と春庭の墓所へ案内してくれた。
新上屋は、だいぶ大きな敷地を持つ旅籠だったようだが、今では道路拡張で、様変わりしてしまったとのこと。


【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】

樹敬寺は、京都・智恩院の末寺。
天正16年(1588)、蒲生氏郷が松坂城下建設に伴って、松ヶ島城下から現在地の松阪市新町へと移った。


本堂


宣長・春庭の墓
松阪市山室町高峰の妙楽寺から山道を登ったところに、宣長が生前に指示した通りに建てられた奥墓(おくつき)がある。
墓の上には、宣長が好んだ山桜が植えられているそうだ。