7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】 → 【猿田彦神社】 → 【伊勢神宮(内宮)】 → 【尾崎咢堂記念館】 → 【田丸城】 → 【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】 → 【三井家発祥地】 → 【松阪商人の館】 → 【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】 → 【松阪市立歴史民俗資料館】 → 【松阪城】 → 【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】 → 【御城番屋敷】 → 【北畠神社】 → 【霧山城】 → (津泊)
【本居宣長旧宅跡】
「国指定特別史跡 本居宣長旧宅跡 附 春庭旧宅・土蔵
所在地 松阪市魚町一六四五番地
面 積 四三六・三六平方メートル
特別史跡指定 昭和二十八年三月三十一日
近世を代表する国学者 本居宣長(一七三〇~一八〇一)が、十二歳から七十二歳で生涯を閉じるまでの六十年間を過ごした場所である。宣長はここで医者を開業する傍ら、日本の古典を研究し、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など七十八種二百六冊に及ぶ著述を成し、また全国五百余名の門人を指導した。言わばこの地は、近世国学が大成された記念すべき場所である。
宣長の住んだ居宅は、明治四十二年に保存と公開のために松阪公園へ移築され、宣長の書斎の名前である『鈴屋(すずのや)』の名称で今も親しまれている。現在、旧宅跡に礎石とともに残る家は、宣長の長男 春庭の旧宅と本居家の土蔵である。(以下略)
平成十六年九月十四日 松阪市教育委員会」(案内板より)
礎石(手前)と春庭邸宅(左奥)と土蔵(右奥)
【本居宣長記念館・鈴屋】
「宣長の探究心」と題した平成21年夏の企画展を見る。
17歳のときに描いた日本地図『大日本天下四海画図』をはじめとし、夥しい数の著作や書簡などが展示されていた。
探究心の強さと持続力に先ずは圧倒される。
『万葉集問目』は感動的だ。
これは、いわゆる「松阪の一夜」の後、師である賀茂真淵と宣長との間で書簡にて行われた質疑応答。
宣長が会った人物や噂に聞いた人物について記された『文通諸子居住処並転達所姓名所書』も興味深い。
なんでもかんでも記録に残したようだ。
不世出の天才は、不断の努力から生まれたのだなあ。
本居宣長旧宅
本居宣長記念館の隣に移築されている。
1階屋根と2階屋根の間に斜めにうだつが設けられている。
松阪のうだつは、このような形なのだそうだ。
2階の書斎は、宣長が53歳の時に物置を改造して設けたもの。
書斎は、「鈴屋(すずのや)」と呼ばれる。
その名は、床の間の柱に掛鈴を下げていたことに由来する。
その掛鈴は、6個の小さな鈴をまとめたものを細い帯状の布の6か所に紐で結んだもので、宣長はこれを勉学の間に鳴らしたのだという。
本居宣長記念館に掛鈴が展示されているが、これは長男春庭が作ったレプリカ。
オリジナルは現存しないそうだ。
書斎「鈴屋」への階段
宣長の身長は約170㎝あったそうだが、この階段をのぼるのは大変だっただろう。
書斎に籠ったら、集中できるように、この階段は外されたのだという。
五右衛門風風呂
【新上屋跡】
本居宣長記念館前にある新上屋跡の碑
「ここにある二つの碑は、賀茂真淵と本居宣長のたった一度の歴史的な出会い『松阪の一夜』を記念し、その対面の場となった日野町の旅籠『新上屋』跡に建っていたものである。
宝暦13年(1763)5月25日夜、兼ねてから私淑していた賀茂真淵に対面することを得た本居宣長は『古事記』研究の志を述べ、真淵はその決意を誉め、指導を約束する。宣長34歳、師真淵67歳のことである。
右の『賀茂真淵・本居宣長初対面新上屋跡』は、この場所が昭和28年松阪市の指定史跡になったときに建ったものであり、また正面の大きな『史跡新上屋跡』碑は昭和45年に建てられたものであるが、たび重なる都市近代化事業の道路拡幅により、ここに移転して保存している。
今は三代目の碑に改まっている。」(案内板より)
日野町に建つ三代目の碑
新上屋が建っていたのはこのあたりか?
碑の傍らの説明は、近くの化粧品店「むらさきや」さんが書いている。
訪ねると、快く説明をして下さったうえに、宣長と春庭の墓所へ案内してくれた。
新上屋は、だいぶ大きな敷地を持つ旅籠だったようだが、今では道路拡張で、様変わりしてしまったとのこと。
【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】
樹敬寺は、京都・智恩院の末寺。
天正16年(1588)、蒲生氏郷が松坂城下建設に伴って、松ヶ島城下から現在地の松阪市新町へと移った。
本堂
宣長・春庭の墓
松阪市山室町高峰の妙楽寺から山道を登ったところに、宣長が生前に指示した通りに建てられた奥墓(おくつき)がある。
墓の上には、宣長が好んだ山桜が植えられているそうだ。
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】 → 【猿田彦神社】 → 【伊勢神宮(内宮)】 → 【尾崎咢堂記念館】 → 【田丸城】 → 【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】 → 【三井家発祥地】 → 【松阪商人の館】 → 【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】 → 【松阪市立歴史民俗資料館】 → 【松阪城】 → 【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】 → 【御城番屋敷】 → 【北畠神社】 → 【霧山城】 → (津泊)
【本居宣長旧宅跡】
「国指定特別史跡 本居宣長旧宅跡 附 春庭旧宅・土蔵
所在地 松阪市魚町一六四五番地
面 積 四三六・三六平方メートル
特別史跡指定 昭和二十八年三月三十一日
近世を代表する国学者 本居宣長(一七三〇~一八〇一)が、十二歳から七十二歳で生涯を閉じるまでの六十年間を過ごした場所である。宣長はここで医者を開業する傍ら、日本の古典を研究し、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』など七十八種二百六冊に及ぶ著述を成し、また全国五百余名の門人を指導した。言わばこの地は、近世国学が大成された記念すべき場所である。
宣長の住んだ居宅は、明治四十二年に保存と公開のために松阪公園へ移築され、宣長の書斎の名前である『鈴屋(すずのや)』の名称で今も親しまれている。現在、旧宅跡に礎石とともに残る家は、宣長の長男 春庭の旧宅と本居家の土蔵である。(以下略)
平成十六年九月十四日 松阪市教育委員会」(案内板より)
礎石(手前)と春庭邸宅(左奥)と土蔵(右奥)
【本居宣長記念館・鈴屋】
「宣長の探究心」と題した平成21年夏の企画展を見る。
17歳のときに描いた日本地図『大日本天下四海画図』をはじめとし、夥しい数の著作や書簡などが展示されていた。
探究心の強さと持続力に先ずは圧倒される。
『万葉集問目』は感動的だ。
これは、いわゆる「松阪の一夜」の後、師である賀茂真淵と宣長との間で書簡にて行われた質疑応答。
宣長が会った人物や噂に聞いた人物について記された『文通諸子居住処並転達所姓名所書』も興味深い。
なんでもかんでも記録に残したようだ。
不世出の天才は、不断の努力から生まれたのだなあ。
本居宣長旧宅
本居宣長記念館の隣に移築されている。
1階屋根と2階屋根の間に斜めにうだつが設けられている。
松阪のうだつは、このような形なのだそうだ。
2階の書斎は、宣長が53歳の時に物置を改造して設けたもの。
書斎は、「鈴屋(すずのや)」と呼ばれる。
その名は、床の間の柱に掛鈴を下げていたことに由来する。
その掛鈴は、6個の小さな鈴をまとめたものを細い帯状の布の6か所に紐で結んだもので、宣長はこれを勉学の間に鳴らしたのだという。
本居宣長記念館に掛鈴が展示されているが、これは長男春庭が作ったレプリカ。
オリジナルは現存しないそうだ。
書斎「鈴屋」への階段
宣長の身長は約170㎝あったそうだが、この階段をのぼるのは大変だっただろう。
書斎に籠ったら、集中できるように、この階段は外されたのだという。
五右衛門風風呂
【新上屋跡】
本居宣長記念館前にある新上屋跡の碑
「ここにある二つの碑は、賀茂真淵と本居宣長のたった一度の歴史的な出会い『松阪の一夜』を記念し、その対面の場となった日野町の旅籠『新上屋』跡に建っていたものである。
宝暦13年(1763)5月25日夜、兼ねてから私淑していた賀茂真淵に対面することを得た本居宣長は『古事記』研究の志を述べ、真淵はその決意を誉め、指導を約束する。宣長34歳、師真淵67歳のことである。
右の『賀茂真淵・本居宣長初対面新上屋跡』は、この場所が昭和28年松阪市の指定史跡になったときに建ったものであり、また正面の大きな『史跡新上屋跡』碑は昭和45年に建てられたものであるが、たび重なる都市近代化事業の道路拡幅により、ここに移転して保存している。
今は三代目の碑に改まっている。」(案内板より)
日野町に建つ三代目の碑
新上屋が建っていたのはこのあたりか?
碑の傍らの説明は、近くの化粧品店「むらさきや」さんが書いている。
訪ねると、快く説明をして下さったうえに、宣長と春庭の墓所へ案内してくれた。
新上屋は、だいぶ大きな敷地を持つ旅籠だったようだが、今では道路拡張で、様変わりしてしまったとのこと。
【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】
樹敬寺は、京都・智恩院の末寺。
天正16年(1588)、蒲生氏郷が松坂城下建設に伴って、松ヶ島城下から現在地の松阪市新町へと移った。
本堂
宣長・春庭の墓
松阪市山室町高峰の妙楽寺から山道を登ったところに、宣長が生前に指示した通りに建てられた奥墓(おくつき)がある。
墓の上には、宣長が好んだ山桜が植えられているそうだ。