大倉草紙

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【三重】 鍵屋ノ辻

2009年11月01日 21時00分00秒 | 旅 - 三重県
7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】【津城】【伊勢上野城跡】【神戸城】【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】【伊賀亀山城】【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】【伊賀流忍者博物館】【伊賀上野城】【蓑虫庵】【鍵屋ノ辻】【御斎峠】【多羅尾陣屋跡】 


「日本三大仇討、伊賀越鍵屋辻の決闘
 事件の発端は、寛永7年(1630)7月11日の夜、備前国岡山藩士河合又五郎が同僚の渡辺源太夫を殺害して、行方をくらましたことにはじまります。時に又五郎は19歳、源太夫は17歳でした。
 藩主池田忠雄候は、又五郎の行方を探らせたところ、江戸で直参の旗本安藤治左衛門方にかくまわれていることが判明したので、身柄の引き渡しを申し出ましたがこれに応じなかったので事件は大名と旗本との対決へと発展しました。
 源太夫の兄渡辺数馬は、藩主より上意討の免許をあたえられ、大和国郡山藩につかえる姉婿荒木又右衛門に助太刀を頼み又五郎の行方を追い求めて旅立ちました。
 諸国を逃げ回っていた又五郎は、武芸の達人河合甚左衛門、桜井半兵衛らに警護され江戸に下ろうと、寛永11年11月6日には奈良から笠置を越え、その夜、伊賀国島ヶ原に投宿しました。
 これを知った数馬、又右衛門の主従4人は、翌7日、伊賀上野城下西のはずれの鍵屋ノ辻にある茶屋萬屋で待ち伏せていました。
 又五郎の一行11人は人目をはばかるように早朝の宿をたち、鍵屋ノ辻にさしかかったところ、数馬、又右衛門は一行の前に立ちふさがり、仇討の主意を伝え、斬りかかりました。
 又右衛門は、河合甚左衛門、桜井半兵衛とわたりあってこれを討ちとり主勢を崩しましたが、まだ又五郎と数馬の勝負はついていなかったので、かけつけた又右衛門は数馬を叱咤し、激闘のすえ遂に大願を成就しました。検視に立ち合った藤堂藩は、武門の作法にならい数馬、又右衛門の武勇を讃えるとともに、又五郎の霊を懇ろに弔いました。世にこの本懐を『伊賀越鍵屋ノ辻の決闘』とよび芝居などで天下の話題となりました。」(案内板より)

ところで、初夢に見ると縁起が良いものといわれるのが、「一富士、二鷹、三茄子」。
この起源には諸説があるようだが、日本三大仇討ちに関係があるとするものもある。

【一富士は、曾我兄弟の仇討ち】
曾我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったのが、源頼朝の富士の巻狩りの時だったことから。

【二鷹は、赤穂浪士の討ち入り】

浅野家の家紋が、「鷹の羽の打違い」であることから。

【三茄子は、伊賀越鍵屋ノ辻の決闘】
名を「成すび」の花が咲く荒木又右衛門の仇討ちからというが、すっきりしない。
かなり強引だ。

強引といえば、こちらも↓

葛飾北斎『富嶽百景 夢の不二』
「一富士、二鷹……」「三茄子」は?
と思ったら、鷹が抱え込んでいる。
さすが北斎!