7月19日(日)
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】 → 【猿田彦神社】 → 【伊勢神宮(内宮)】 → 【尾崎咢堂記念館】 → 【田丸城】 → 【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】 → 【三井家発祥地】 → 【松阪商人の館】 → 【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】 → 【松阪市立歴史民俗資料館】 → 【松阪城】 → 【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】 → 【御城番屋敷】 → 【北畠神社】 → 【霧山城】 → (津泊)
【斎宮歴史博物館】
斎王のイメージは、『源氏物語』から得たものがほとんどだ。
読みつつ頭の中で描いた形象、それから、源氏物語絵巻から受ける印象。
野宮神社
野宮神社を訪ねた時には、このあたりで斎王が身を清めたのか、と思ったが、特別な感動はなかった。
野宮神社がいけないというのではなく、鳥居の下で飲み物を口にして大騒ぎをしつつ記念撮影をする人々を目にし、興ざめしてしまったのだ。
野宮から伊勢への移動について、斎宮での暮らしについて、伊勢でのおつとめについては、何も知らなかった。
斎宮歴史博物館は、実によくできた博物館で、訪れた者を数十分にして斎王博士にしてくれる。
斎王の定義、斎王の行路と帰路、斎宮の造営、斎宮寮の組織、衣装や食事、伊勢神宮のおつとめ等々、理解しやすい方法で展示・解説している。
斎王が伊勢神宮に赴くのは年に3回、9月の神嘗祭(かんなめのまつり)と6月と12月の月次祭(つきなみのまつり)の時だけというのは、意外だった。
これらの祭りは内宮・外宮それぞれ2日に渡って行われ、斎王はいずれも2日目に参加していたという。
伊勢神宮でのおつとめは、もっと頻繁なものだと思っていた。
【いつきのみや歴史体験館】
いつきのみや歴史体験館は、近鉄・斎宮駅の目の前、「斎宮跡歴史ロマン広場」の一角にある。
写真の建物前の庭では、蹴鞠を体験する人の姿もあった。
ほかにも、十二単や直衣を試着することができたり、平安時代の年中行事にちなんだ小物作りができたり、その名の通り、いろいろなことを体験できるスペース。
私は、体験よりも、広場にある斎宮の模型のほうに興味があったので、そちらへ直行。
10分の1史跡模型(一部)
【斎王の森】
「史跡斎宮跡
斎宮跡は、斎王の御殿とその事務を取扱った役所の跡である。その創設は遠く飛鳥・奈良時代(7~8世紀)といわれ、南北朝時代(14世紀)に至る間多少の中絶はあるが、約660年間存続した。
この史跡は、昭和44年祓川沿岸の古里地区における大規模宅地造成に伴う事前発掘調査を発端として、歴史や文学に名高い斎宮との関連がにわかに注目されるに至った。このため、三重県教育委員会は、昭和48年度から3ヶ年間範囲確認調査を実施し、その結果ここ斎王の森を中心に東西約2㎞、南北約700m、面積137haに及ぶこの地区一帯が斎宮跡であることを確認し史跡に指定されたものである。
(中略)
この森は昭和33年まで旧斎宮村の村所有地であったが、以後伊勢神宮に寄附され現在では神宮司庁により管理されている。」(案内板より)
斎宮の森入口の鳥居
斎王宮址の碑
大伯皇女の歌碑
大伯皇女(おおくのひめみこ)は、実在した最古の斎王(それ以前の伝承時代の斎王は9名)。
「わがせこを大和へやるとさ夜ふけて
あかとき露にわがたちぬれし」
(弟を大和へ送り出したあと、夜が更けてからも心配で立ち続け、明け方の露に濡れました)
この歌は、大伯皇女の弟・大津皇子が死の直前にひそかに伊勢に尋ねて来たとき、別れを惜しんで詠んだもの。
大津皇子の墓は、二上山にある。
掘立柱建物跡
井戸跡
道路跡
当日の行程:(車) → 【伊勢神宮(外宮)】 → 【猿田彦神社】 → 【伊勢神宮(内宮)】 → 【尾崎咢堂記念館】 → 【田丸城】 → 【斎宮歴史博物館】 → 【いつきのみや歴史体験館】 → 【斎王の森】 → 【三井家発祥地】 → 【松阪商人の館】 → 【本居宣長旧宅跡】 → 【本居宣長記念館・鈴屋】 → 【松阪市立歴史民俗資料館】 → 【松阪城】 → 【新上屋跡】 → 【本居宣長・春庭の墓(樹敬寺)】 → 【御城番屋敷】 → 【北畠神社】 → 【霧山城】 → (津泊)
【斎宮歴史博物館】
斎王のイメージは、『源氏物語』から得たものがほとんどだ。
読みつつ頭の中で描いた形象、それから、源氏物語絵巻から受ける印象。
野宮神社
野宮神社を訪ねた時には、このあたりで斎王が身を清めたのか、と思ったが、特別な感動はなかった。
野宮神社がいけないというのではなく、鳥居の下で飲み物を口にして大騒ぎをしつつ記念撮影をする人々を目にし、興ざめしてしまったのだ。
野宮から伊勢への移動について、斎宮での暮らしについて、伊勢でのおつとめについては、何も知らなかった。
斎宮歴史博物館は、実によくできた博物館で、訪れた者を数十分にして斎王博士にしてくれる。
斎王の定義、斎王の行路と帰路、斎宮の造営、斎宮寮の組織、衣装や食事、伊勢神宮のおつとめ等々、理解しやすい方法で展示・解説している。
斎王が伊勢神宮に赴くのは年に3回、9月の神嘗祭(かんなめのまつり)と6月と12月の月次祭(つきなみのまつり)の時だけというのは、意外だった。
これらの祭りは内宮・外宮それぞれ2日に渡って行われ、斎王はいずれも2日目に参加していたという。
伊勢神宮でのおつとめは、もっと頻繁なものだと思っていた。
【いつきのみや歴史体験館】
いつきのみや歴史体験館は、近鉄・斎宮駅の目の前、「斎宮跡歴史ロマン広場」の一角にある。
写真の建物前の庭では、蹴鞠を体験する人の姿もあった。
ほかにも、十二単や直衣を試着することができたり、平安時代の年中行事にちなんだ小物作りができたり、その名の通り、いろいろなことを体験できるスペース。
私は、体験よりも、広場にある斎宮の模型のほうに興味があったので、そちらへ直行。
10分の1史跡模型(一部)
【斎王の森】
「史跡斎宮跡
斎宮跡は、斎王の御殿とその事務を取扱った役所の跡である。その創設は遠く飛鳥・奈良時代(7~8世紀)といわれ、南北朝時代(14世紀)に至る間多少の中絶はあるが、約660年間存続した。
この史跡は、昭和44年祓川沿岸の古里地区における大規模宅地造成に伴う事前発掘調査を発端として、歴史や文学に名高い斎宮との関連がにわかに注目されるに至った。このため、三重県教育委員会は、昭和48年度から3ヶ年間範囲確認調査を実施し、その結果ここ斎王の森を中心に東西約2㎞、南北約700m、面積137haに及ぶこの地区一帯が斎宮跡であることを確認し史跡に指定されたものである。
(中略)
この森は昭和33年まで旧斎宮村の村所有地であったが、以後伊勢神宮に寄附され現在では神宮司庁により管理されている。」(案内板より)
斎宮の森入口の鳥居
斎王宮址の碑
大伯皇女の歌碑
大伯皇女(おおくのひめみこ)は、実在した最古の斎王(それ以前の伝承時代の斎王は9名)。
「わがせこを大和へやるとさ夜ふけて
あかとき露にわがたちぬれし」
(弟を大和へ送り出したあと、夜が更けてからも心配で立ち続け、明け方の露に濡れました)
この歌は、大伯皇女の弟・大津皇子が死の直前にひそかに伊勢に尋ねて来たとき、別れを惜しんで詠んだもの。
大津皇子の墓は、二上山にある。
掘立柱建物跡
井戸跡
道路跡