7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
「伊勢平氏の子孫石氏の一族神戸氏は、南北朝時代(十四世紀)飯野寺家の地に沢城を築いたが、戦国時代の一五五〇年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏七代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄十一年(一五六八)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、天正八年(一五八〇)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄四年(一五九五)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保十七年(一七三二)本多忠統が入国する。
本多氏の治世は一四〇年間七代忠貫まで続き、明治八年(一八七五)城は解体される。
その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
平成十四年三月 鈴鹿市教育委員会」(案内板より)
天守台
土塁
水堀
二の丸跡、三の丸跡は、神戸高校になっている。
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
「伊勢平氏の子孫石氏の一族神戸氏は、南北朝時代(十四世紀)飯野寺家の地に沢城を築いたが、戦国時代の一五五〇年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏七代目友盛は、北勢に威を振るったが、信長軍の侵攻により永禄十一年(一五六八)その三男、信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、天正八年(一五八〇)ここに金箔の瓦も用いた五重の天守閣を築いた。しかし、本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃し、文禄四年(一五九五)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通して天守閣は造られず、石垣だけが残された。
江戸時代、城主は一柳直盛、石川氏三代を経て享保十七年(一七三二)本多忠統が入国する。
本多氏の治世は一四〇年間七代忠貫まで続き、明治八年(一八七五)城は解体される。
その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。天守台や石垣に悲運の武将を偲ぶことができる。
平成十四年三月 鈴鹿市教育委員会」(案内板より)
天守台
土塁
水堀
二の丸跡、三の丸跡は、神戸高校になっている。