7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
井戸跡
「上野城は、元亀元年(一五七〇)織田信長の弟信包が津城の仮城として、この地に築城し、天正八年(一五八〇)津城の完成と共に、信包に代り、分部光嘉が上野城代となり 文禄四年(一五九五)一万石の独立した上野城となって光嘉が城主となった。
慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦の際 津城主富田信高をたすけ、その功によって所領二万石となったが、元和五年(一六一九)城主分部光信は江州大溝藩へ移封となって、上野藩は廃藩となった。
この城は、標高三〇米の大地に土畳ねかさみで構えたものであって現在 跡といわれる台状地があり、その北隅にさらに高い櫓状の台状地がある。この東側の畑と山林が二の丸といわれ 本丸、二の丸を囲む、南、北、西の平坦地は、家中の侍屋敷が立ち並んでいたという。
本丸の一角に本城松という、一大松樹があって 海上を航行する船々漁民のめじるしとして尊重されていた。」(案内板より)
上野城の遺構(案内板より)
錆びて読み辛くなっているが、中央の文字は「本丸」、下の方に書かれているのは「二の丸跡」。
展望台
現在、城跡は、本城山青少年公園になっている。
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井戸跡
「上野城は、元亀元年(一五七〇)織田信長の弟信包が津城の仮城として、この地に築城し、天正八年(一五八〇)津城の完成と共に、信包に代り、分部光嘉が上野城代となり 文禄四年(一五九五)一万石の独立した上野城となって光嘉が城主となった。
慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦の際 津城主富田信高をたすけ、その功によって所領二万石となったが、元和五年(一六一九)城主分部光信は江州大溝藩へ移封となって、上野藩は廃藩となった。
この城は、標高三〇米の大地に土畳ねかさみで構えたものであって現在 跡といわれる台状地があり、その北隅にさらに高い櫓状の台状地がある。この東側の畑と山林が二の丸といわれ 本丸、二の丸を囲む、南、北、西の平坦地は、家中の侍屋敷が立ち並んでいたという。
本丸の一角に本城松という、一大松樹があって 海上を航行する船々漁民のめじるしとして尊重されていた。」(案内板より)
上野城の遺構(案内板より)
錆びて読み辛くなっているが、中央の文字は「本丸」、下の方に書かれているのは「二の丸跡」。
展望台
現在、城跡は、本城山青少年公園になっている。