大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【東京・港区】 報土寺

2009年10月25日 21時00分00秒 | 旅 - 東京都
10月24日(土)
当日の行程: 【報土寺】【勝海舟邸跡】【赤坂氷川神社】【志賀直哉居住の跡】【久国神社】【勝安房邸跡】【日枝神社】 → (銀座線・溜池山王駅~上野駅) → 【皇室の名宝 ― 日本美の華 1期 永徳、若冲から大観、松園まで(東京国立博物館)】


報土寺は、慶長19年(1614)に、赤坂一ツ木(現・赤坂2丁目)に創建された。
安永九年(1780)、幕府の用地取り上げにより、現在地に移転する。
江戸時代に活躍した力士・雷電為右衛門の墓があることで知られている。
雷電為右衛門については、次のような説明があった。
「明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、頬容はおだやか、性質も義理がたかったといわれる。
 天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九〇)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。
 雲州(島根県)松江の松平候の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(一八一四)当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。
 文政八年(一八二五)江戸で没した。
 昭和五十年十二月   東京都港区教育委員会」


現在地は赤坂7丁目、三分坂の下。
坂の名の由来が書いてある。
「三分坂(さんぷんざか)の名は、急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。『さんぶ』では四分の三両になるので誤り。」


練塀は、三分坂に沿って造られている。


本堂


本堂前に手形があったが、これは雷電為右衛門のものだろうか。


鐘楼


鐘楼の瓦には、「雷」の文字が。


梵鐘
次のような説明がある。
「報土寺の梵鐘は、文化十一年(一八一四)三月に雷電為右衛門が寄進したものが有名です。竜頭の部分は雷電と小野川が四つに組んだ姿、側面に雷電の姿を鋳出し、その臍に撞木があたるようにしたり、鐘の下縁は十六俵の土俵をめぐらすなど極めて異形であったため、寺社奉行によって直ちに没収されました。現在の鐘は、明治四一年(一九〇八)に鋳造されたもので、雷電の鐘に刻まれていた銘と同文のものを刻んでいます。」
雷電の臍に撞木があたる梵鐘を見てみたかった。


雷電為右衛門の墓


当日の歩数:15,214歩