7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
近鉄・伊勢若松駅前に、大黒屋光太夫の顕彰碑が建っている。
天明2年(1782)、ロシアに漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見し帰国を嘆願し、漂流後、約10年を経て帰国を果たした船頭だ。
大黒屋光太夫は、この辺り(現在の三重県鈴鹿市)の生まれらしい。
小さな町のあちこちで、「ようこそ大黒屋光太夫のふるさと若松へ」という旗がたなびいている。
【大黒屋光太夫記念館】
記念館は、2005年に開館した。
受付には、大黒屋光太夫記念館だより『大光』が置かれていて、おもしろそうなのでいただいてきた。
また、表を参考にロシア語で自分の名前を書いてみよう!なんていうシートもあった。
ロシア文字といえば、寛政6年(1794)、光太夫は、大槻玄沢の塾「芝蘭堂」のおらんだ正月に招かれた際にロシア文字を披露したそうだが、その時の様子を描いた『芝蘭堂新元会図』も展示されている。
ほかには、光太夫のロシア文字墨書『鶴(Цуру)』や『北槎聞略』など。
【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】
記念館のお隣にある心海寺は、磯吉や大黒屋家の菩提寺。
御手洗石
山門を入ってすぐ左手にある御手洗石には、寄進者である大黒屋銀太夫・彦太夫の名前がある。
【大黒屋光太夫らの供養碑】
「天明二年(一七八二)十二月九日、当時の南若松村出身の船頭大黒屋光太夫ら十七名が乗り組んだ神昌丸は、紀州藩の廻米五百石などを積み込み白子港から江戸に向けて出帆した。途中、遠州灘で消息を絶ったので地元では、全員が遭難したものとして、二年後江戸大伝馬町組の長谷川氏が施主となって碑を建立した。」(案内板より部分)
【宝祥寺(小市の供養碑)】
宝祥寺は、小市の菩提寺。
大黒屋光太夫や小市は、この寺の付近で生まれ、幼少時はこの境内で遊んだという。
小市之供養碑
小市は、光太夫、磯吉と共に、ロシアの通商使節に伴われて、寛政4年(1792)に根室へ帰国した。
が、その翌年、小市は本土を踏むことなく病死してしまう。
どんな心境だったろう。
ほんとうに、ほんとうに、安らかに眠ってほしい。
【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】
光太夫らが出帆した白子港。
港には、井上靖による『大黒屋光太夫・讃』(手前の碑)と鈴鹿の彫刻家・三村力の手によるモニュメント『刻の軌跡』が建っている。
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
近鉄・伊勢若松駅前に、大黒屋光太夫の顕彰碑が建っている。
天明2年(1782)、ロシアに漂着し、女帝エカチェリーナ2世に謁見し帰国を嘆願し、漂流後、約10年を経て帰国を果たした船頭だ。
大黒屋光太夫は、この辺り(現在の三重県鈴鹿市)の生まれらしい。
小さな町のあちこちで、「ようこそ大黒屋光太夫のふるさと若松へ」という旗がたなびいている。
【大黒屋光太夫記念館】
記念館は、2005年に開館した。
受付には、大黒屋光太夫記念館だより『大光』が置かれていて、おもしろそうなのでいただいてきた。
また、表を参考にロシア語で自分の名前を書いてみよう!なんていうシートもあった。
ロシア文字といえば、寛政6年(1794)、光太夫は、大槻玄沢の塾「芝蘭堂」のおらんだ正月に招かれた際にロシア文字を披露したそうだが、その時の様子を描いた『芝蘭堂新元会図』も展示されている。
ほかには、光太夫のロシア文字墨書『鶴(Цуру)』や『北槎聞略』など。
【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】
記念館のお隣にある心海寺は、磯吉や大黒屋家の菩提寺。
御手洗石
山門を入ってすぐ左手にある御手洗石には、寄進者である大黒屋銀太夫・彦太夫の名前がある。
【大黒屋光太夫らの供養碑】
「天明二年(一七八二)十二月九日、当時の南若松村出身の船頭大黒屋光太夫ら十七名が乗り組んだ神昌丸は、紀州藩の廻米五百石などを積み込み白子港から江戸に向けて出帆した。途中、遠州灘で消息を絶ったので地元では、全員が遭難したものとして、二年後江戸大伝馬町組の長谷川氏が施主となって碑を建立した。」(案内板より部分)
【宝祥寺(小市の供養碑)】
宝祥寺は、小市の菩提寺。
大黒屋光太夫や小市は、この寺の付近で生まれ、幼少時はこの境内で遊んだという。
小市之供養碑
小市は、光太夫、磯吉と共に、ロシアの通商使節に伴われて、寛政4年(1792)に根室へ帰国した。
が、その翌年、小市は本土を踏むことなく病死してしまう。
どんな心境だったろう。
ほんとうに、ほんとうに、安らかに眠ってほしい。
【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】
光太夫らが出帆した白子港。
港には、井上靖による『大黒屋光太夫・讃』(手前の碑)と鈴鹿の彫刻家・三村力の手によるモニュメント『刻の軌跡』が建っている。