7月20日(月)
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
三重櫓
「津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が寛政し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が『回』の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる城の形である。
城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りをしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。」(案内板より)
本丸跡は公園になっている。
うるさいくらいに蝉が鳴いていた。
本丸跡に建っている藤堂高虎の銅像
高山公遺訓
高山公とは、藤堂高虎のこと。
「可為士者常之覚悟之事
寝屋を出るより
其日を死番と可心得
かやうに覚悟を極めるゆへに
物に動ずる事なし
是可為本意」
西の丸跡は、日本庭園になっている。
入徳門
文政3年(1820)にできた藩校「有造館」の正門。
西の丸跡に移築されている。
内堀
当日の行程:(車) → 【高山神社】 → 【津城】 → 【伊勢上野城跡】 → 【神戸城】 → 【大黒屋光太夫記念館】 → 【心海寺(磯吉の菩提寺・大黒屋家の菩提寺)】 → 【大黒屋光太夫らの供養碑】 → 【宝祥寺(小市の供養碑)】 → 【白子新港(大黒屋光太夫出帆の地)】 → 【伊賀亀山城】 → 【関宿旅籠玉屋歴史資料館】 → 【関まちなみ資料館】 → 【芭蕉翁生家】 → 【芭蕉翁記念館】 → 【伊賀流忍者博物館】 → 【伊賀上野城】 → 【蓑虫庵】 → 【鍵屋ノ辻】 → 【御斎峠】 → 【多羅尾陣屋跡】
三重櫓
「津城は、織田信長の弟信包(のぶかね)によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正8年(1580)には五層の天守閣が寛政し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主となり、慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城・城下町とも戦火を受けた。
慶長13年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が『回』の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる城の形である。
城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りをしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。」(案内板より)
本丸跡は公園になっている。
うるさいくらいに蝉が鳴いていた。
本丸跡に建っている藤堂高虎の銅像
高山公遺訓
高山公とは、藤堂高虎のこと。
「可為士者常之覚悟之事
寝屋を出るより
其日を死番と可心得
かやうに覚悟を極めるゆへに
物に動ずる事なし
是可為本意」
西の丸跡は、日本庭園になっている。
入徳門
文政3年(1820)にできた藩校「有造館」の正門。
西の丸跡に移築されている。
内堀