大倉草紙

旅の記録 食の記録 日々の記録

【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑩ 常光寺

2009年06月06日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月31日(土)
当日の行程:(車) → 【叡福寺】【大聖勝軍寺】【長曽我部盛親物見の松】【常光寺】【高塚地蔵】 → 【木村重成の墓】 → 【山口伊豆守重信の墓】 → 【蓮城寺(木村重成霊牌所)】【若江鏡神社】【木村重成の銅像】 → 【飯島三郎右衛門の墓】【四條畷神社】【忍陵神社】 → 【徳川家康旗掛け松跡】 → 【徳川家康星田陣営跡】


常光寺は、行基の創建で、聖武天皇の勅願所だった。
南北朝の戦乱で焼失したが、その後、又五郎大夫藤原盛継が再興。
大坂夏の陣の八尾の戦いの激戦地でもある。


河内最古之音頭発祥地の碑
塩川正十郎氏の揮毫による。


本堂


大イチョウ
樹齢約600年の大イチョウ。
痛みが激しくなり倒木のおそれがあったため、上部を伐採し養生治療中なのだそうだ。


森本行誓宝筐印塔
「森本行誓(七郎兵衛貞治)は、久宝寺村の年寄で、林田善右衛門、満田六左衛門、松井源左衛門、杉本孫右衛門とともに、慶長十一年(一六〇六)に八尾に移住し、八尾寺内の開発や八尾御堂大信寺の建立に尽力した人物である。
 この宝筐印塔は、行誓の百五十回忌の時、子孫が建立したもので、供養は、常光寺で行なわれた。」
(案内板より)


八尾別当顕幸の墓
「寺伝によると、多田満仲の子、賢快が初めて八尾別当職に任じられ、八尾僧正と称された。顕幸はその十世の孫で八尾城主として権勢を持ち、後に楠木正成の八臣の一の家来となり、大いに南朝方に尽した武士であり、権僧正でもあった。
 正成の湊川戦死の後、顕幸は和田恩智両氏と共に正成の子、正行を助けたが延元三年(一三三八)八尾城で病死し、この地に葬られたと伝えられる。」
(案内板より)


血天井
大阪夏の陣のとき、藤堂高虎は長曽我部方の戦死者の首を廊下に並べ、首実検をしたという。
この廊下の板を後に天井に上げ、血天井として保存されている。


足利義満筆扁額
康応元年(1389)、足利義満が参詣した際に奉納したという扁額。


藤堂家家臣七十一士墓


勢伊死事碑
「勢伊死事碑と藤堂家家臣七十一士墓
 元和元年(一六一五)大坂夏の陣のとき徳川方の先鋒藤堂高虎軍と豊臣方長宗我部盛親軍が常光寺門前で遭遇し、双方とも多くの戦死者を出した。
 藤堂軍の戦死者は七十一名。そのうち桑名弥次兵衛、藤堂勘解由、山岡兵部、藤堂仁右衛門、藤堂新七郎、藤堂玄蕃ら重臣六人が含まれている。六つの五輪塔は、これら重臣の墓である。
 また勢伊死事碑は、宝暦十四年(一七六四)の百五十回忌法要の時に、藤堂家によって建立されたものである。」
(案内板より)


常光寺の御朱印