大倉草紙

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【大阪】 大坂の陣ゆかりの地⑪ 八尾・若江

2009年06月12日 21時00分00秒 | 旅 - 大阪府
1月31日(土)
当日の行程:(車) → 【叡福寺】【大聖勝軍寺】【長曽我部盛親物見の松】【常光寺】【高塚地蔵】 → 【木村重成の墓】 → 【山口伊豆守重信の墓】 → 【蓮城寺(木村重成霊牌所)】【若江鏡神社】【木村重成の銅像】 → 【飯島三郎右衛門の墓】【四條畷神社】【忍陵神社】 → 【徳川家康旗掛け松跡】 → 【徳川家康星田陣営跡】

【高塚地蔵】

高塚地蔵
非常に分かり辛い場所にある。
八尾北高校に隣接した工場の間の道を、一本一本歩いて見つけた。
「像容端正、衣文の線はなだらかで、磨滅がはなはだしい。
 右側に『正安三年二月八日大施主』とあり、市内では第二に古い石仏である。
 大阪夏の陣のとき、若江合戦で大阪方の吉田内匠が、この地蔵堂の陰から槍をもってとび出し、東軍の藤堂民部をおそったが、かえって討死したという。
 またこの地からは、古墳時代前期の方形墳が発見されている。
八尾市教育委員会」


【木村重成の墓】

木村重成の墓
八尾市幸町の幸公園内にある。
写真の右側の墓石が木村重成のもので、左側の墓石は山口弘定のもの。
山口弘定は、義兄にあたる木村重成の隊に属し、若江の戦いで井伊直孝隊に討ち取られた。
「大阪夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、昭和四十二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。
 この墓は、宝暦十四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首をおとした安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので、昭和一四年大阪府の史跡として指定されている。
八尾市教育委員会」


木村重成の墓がある公園のそばには、川が流れている。
第二寝屋川。
玉串川の流れはこの第二寝屋川に注ぐ。
開削工事でだいぶ流れも変わってしまっただろうが、若江の戦いの激戦地はこのあたりだったのだろう。
この橋の名前は、

「きむらはし」、木村重成と関係があるのだろうか。


【山口伊豆守重信の墓】

上の写真の橋を渡ると、目の前は、若江南墓地。
この墓地に山口伊豆守重信の墓がある。


山口伊豆守重信の墓
「山口伊豆守重信と若江の戦い
山口家は周防の守護大内氏の流れをくみ、重信の父但馬守重政が徳川家康より常陸国牛久に領地を与えられ大名となりますが、慶長18年(1613)嫡子重信の婚姻をめぐり幕法に反したとして領地を没収されます。このため、武功を上げて旧に復するべく、元和元年(1615)大坂夏の陣に井伊掃部守直孝率いる徳川軍(兵3200人)に父子で参戦しました。5月6日早朝、徳川軍は八尾楽音寺を発し、玉串川から若江堤へと進み、若江に布陣していた木村長門守重成率いる豊臣軍(兵4700人)と壮絶な戦闘を繰りひろげました。これが『若江の戦い』です。
 この戦いで、先陣を競い合った重信は木村方の飯島三郎右衛門など5騎を討つ功をあげますが、武運拙く26歳の若さで戦死し、一方豊臣軍は木村重成が井伊方の家臣安藤長三郎に討ち取られ撤退しました。
 寛永5年(1628)、重信の武功により父重政に牛久など1万5千石が復され、のち次男但馬守弘隆が本領1万石、三男備前守重恒が5千石を継ぎました。
 墓は、兄重信の霊を弔うために弟弘隆が正保4年(1647)に墓碑を建立し、その後さらに弟重恒が承応3年(1654)に石柵を建立、家臣の山口忠兵衛重成が同年に石燈籠を寄進、弘隆の嫡男重貞が元禄5年(1692)に石花瓶を寄進し現在の姿となりました。墓碑前の石柱は若江村庄屋西村九郎兵衛の建立です。
平成17年2月  東大阪市」


【蓮城寺(木村重成霊牌所)】

蓮城寺は、若江の木村重成軍の陣屋跡の近くにある。
蓮城寺のはじまりは、天平年間(729~749)にさかのぼるという。


位牌堂
ここに、木村重成の位牌が置かれている。


位牌堂の中には、木村重成の肖像画もある。


【木村重成の銅像】

木村重成の陣屋跡には、銅像が建っている。


【飯島三郎右衛門の墓】

「飯島三郎右衛門の墓
 飯島三郎右衛門は、市内高井田村の生まれで、幼少の頃より弓道が得意で成人して、戦国の武将織田信長に仕えました。信長の死後、豊臣秀吉に仕え、秀吉死後は、その子秀頼に仕えました。元和元年(一六一五)五月『大坂夏の陣』の若江、八尾付近の戦いで、木村長門守重成に属して徳川軍と戦い、相手方の武将山口伊豆守重信に槍で突かれ、この地で戦死しました。重成、重信とともに戦死するという壮烈な戦いであったといいます。三郎右衛門の長男三吉は殉死をとげ、妻および母も自刃したが、乳母に助けられた次男が成人した後、この地と高井田に父の墳墓を建てたと伝えられています。
 また、三郎右衛門戦死のこの地は、沼地で大小の用水の集合地であり、若江村と岩田村を結ぶ『雁戸樋橋(かりんどひばし)』という細い橋がありましたが、今も道路の下には昔と変わる事無く、楠根川にそそぐ水が流れています。
平成9年3月  東大阪市 岩田町文化財保存会」