大倉草紙

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【千葉】 千葉城(亥鼻城)

2009年01月02日 20時00分00秒 | 旅 - 千葉県
11月8日(土)




千葉城は、大治元年(1126)、千葉介常重が大椎城からこの地に移転して築城された。
下総台地から亥の方角に突き出した舌状台地であるここの地名は、亥鼻である。
城は、亥鼻城とも呼ばれる。

千葉氏の全盛期は常重の子、千葉常胤(つねたね)の時。
治承4年(1180)、源頼朝が伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れ安房に逃れた際には、頼朝を助けて鎌倉幕府樹立に貢献して所領を与えられたという。
康正元年(1455)、前年に勃発した古河公方と鎌倉公方の対立で関東に動乱が起こり、千葉氏も内紛が勃発する。
千葉介十四代胤直は、馬加康胤(まかやすたね)と家臣らに急襲され、自刃した。
千葉氏の宗家が滅亡した後は、馬加康胤が千葉氏の名跡を継いだが、長禄元年(1457)に本拠を千葉城から本佐倉城(千葉県印旛郡)に移したため、千葉城は廃城となる。

写真にある天守閣は、小田原城を模したもの。
実際の千葉城には、天守閣はなかったらしい。
石垣もなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した中世城郭だったという。
天守閣の前には、千葉常胤の像が建っている。

天守閣の内部は市立郷土博物館になっている。
入館料は60円と安い。
千葉市の歴史、民俗、千葉氏に関する資料が展示されている。
4階はプラネタリウムになっているが、改修中だった。
5階は展望室。
1月と8月を除く毎月第2土曜日には、鎧や小袖などの試着体験ができるらしい。
訪れた日にも、鎧を試着する子どもと出会った。
兜まで身につけると、重さは20キロを超えるとのこと。
よろよろと、やっとのことで歩いている。



お茶の水


不動堂

千葉城の北側、大和橋の近くに「お茶の水」がある。
「お茶の水」の後方には、小さな不動堂が建っている。
千葉氏は代々この水を産湯水に使ったそうだ。
千葉常胤は、この水で源頼朝に茶を献じたという伝説が残っている。
が、実際はどうだったのだろう。
喫茶の習慣を日本に伝えたのは栄西禅師。
栄西禅師が開山した建仁寺には、茶碑も残っている
『喫茶養生記』が書かれた年代は確定できないようだが、建保2年(1214)に源実朝に献上した「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立時期とみることが多いようだ。
とすれば、「お茶の水」の伝説はあやしいものとなる。



七天王塚

千葉城の近くには、千葉市文化財の「七天王塚」が点在している。

「猪鼻城(いのはなじょう)または千葉城ともいわれる千葉氏の居城があった猪鼻山は、北は都川、西は断崖に面した天険の要害の地で、その大手口にあたる現在の千葉大学医学部構内外には、千葉氏が一族の繁栄を願って作ったといわれる「七天王塚」が残されています。
七つの塚には千葉氏の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)が祀られ、これらは千葉氏の崇拝する北斗七星の形に配置されているといわれています。また一説には、この七天王塚は千葉氏の七人の兄弟を葬った墓であるとか、平将門の「七騎武者」の墓とも伝えられています。
平成十一年三月 千葉市教育委員会」