興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

あぼしまちなか歩きより 興浜水井家

2011年03月04日 | 興浜新聞

 「あぼしまちなか歩き」のイベントも終盤を迎えてしまったようだ。

 記事の投稿を約束していたので、急遽作成してみた。

 これから調べなければいけない事も多いが、とりあえず「まちなか歩き」の参考にして頂ければと考えます。

 2年前に”あぼしまち交流館”が完成し、ボランティアガイドの加嶋さんからひとつの依頼があった。余子浜の加藤さんが作成したA4版の水井家の説明書以外にもう少し説明できるものが無いかの事であった。

 現在の当主である、水井順一氏に連絡をとり聴き取りをさせて頂いた。

 今回、加藤さんの説明文と共に「まちなか歩き」の一助になればと紹介する。

 水井順一氏が現在の当主であると書いたが、この建物はこのたび姫路市の建物になったようだ。


水井家住宅(平成21年春、興ちゃん聴き取り)
 ここ水井家の現在の当主である水井順一氏は3代目で1代目が市之助、2代目が薫(ただす)である。
 水井家の本家は御津町中島にあり、市之助がここ興浜に出てきて材木問屋を営んだようである。
 材木問屋を営んだのは市之助1代限りであったようだ。
 興浜の金刀比羅神社境内において大正7年に下段敷石を敷いた時の周旋人のひとりに水井市之助の名前がある事からこの頃活躍されていたという事が推測できる。写真①
 揖保川上流の宍粟郡山崎町から切り出された材木は、筏に乗せて運ばれて一旦本町橋南側に係留仮置きされ船で大阪方面に運ばれたようだ。
 ※中島にある善徳寺等をこれから調べる。とメモ書きが有る。

加藤さんの説明書より
 仕事柄よりすぐりの材木を使って建てられた家は、水井家2代目の董(ただす)氏が大正11年(1922)に建てたとされています。職業は材木問屋でしたので、揖保川上流の宍粟郡山崎町から伐り出した木材を河口で集材し、気に入った材を使って建てられていて、また大工としての腕も奮って建てられた家です。土蔵は大正3年(1914)に建てられました。
 主屋は間口8.5間奥行5.5間の本2階建てと、東端に間口1.5間奥行4.3間、西端に間口2.5間奥行3間の平屋建てから成っています。主屋前は高い板塀と前庭で、土蔵は間口2間奥行2.5間で板塀の右端に位置する前蔵で、門は板塀の左端になっています。写真④
 主屋の屋根は入母屋造桟瓦葺き、外壁は黒漆喰塗り板壁張りで、玄関まわりの板壁は赤いベンガラ塗りになって正面を強調しています。写真②
 内部は2列4間取りで、玄関の裏手は2階小屋裏まで高く吹抜けて太さの揃った牛梁が縦横に5本掛かって、材木揃えの贅を現しています。写真③
 建物の特徴としては、大正の建築らしく建ちが高いことが挙げられます。材木問屋として、値打ちのある長材を入手できたことで可能となったと言えます。

  
 写真①
 金刀比羅神社境内にある、下段敷石寄進の石碑
 大正7年4月 周旋人の中に水井市之助氏の名前が有る

   
 写真②

 
 写真③

  
 写真④

 
 興ちゃんは何と言っても精巧に積まれた基礎の石積みがお気に入りである。