
昭和11年3月7日(土)に武神祭の当番であった記録が、津宮山魚吹寺からの請書として残っている。
津宮山魚吹寺とは徳寿院の事である。
現在と変わらず、徳寿院への献上品は御鏡餅三重六個と御供酒一樽である。
昭和32年以降の記録では、津宮山魚吹寺と魚吹八幡神社社務所への目録という形で残っている。
当然昭和11年にも魚吹八幡神社社務所への献上品はあったであろうが記録は残っていない。
数年前から昭和11年の武神神の写真を探していたが発見できずの状況である。
現在、檀尻が魚吹八幡神社に行く経路は金刀比羅神社を出発して本町通りを東にぬけて東雲橋を渡るが、東雲橋ができるまでは橋本筋商店街に架かる網干橋を渡っていたようである。網干橋の架橋が天保元年(1830)、東雲橋の架橋が明治26年(1893)である。(茨木利雄氏の資料より)
たつの市新宮町の総合建設業の(株)進藤組が東雲橋の架け替え工事を昭和11年3月に受注、昭和12年3月に完成し、渡り初め式は三代夫婦では無くその年の武神祭の当番町であった新在家村の檀尻であったと、(株)進藤組のHPに書かれている。
という事は昭和11年3月7日(土)に行われた興浜当番の武神祭の檀尻は東雲橋架け替え工事の寸前に渡ったのか、それとも網干橋を渡ったのかはわからない。
今残るのはこの一枚の請書のみである。
私が持ってるのがそうだと思うよ。
また、ブログにアップするわね。
貴重な写真です。
是非ともよろしくお願いします。
データも送っておいたからね。
写真ありがとうございます。
新しいブログの記事を書いたら写真の配置がいっしょになってしましました。