興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

金刀比羅神社 その3 

2007年10月17日 | 金刀比羅神社

土俵

 境内に入って左側(西側)に相撲土俵がある。
 網干地域は昔から相撲が盛んであったようだ。
 なぜこのような事を書く事になったのかは、今年9月に姫路市文化財保護協会が発行している『文化財だより第59号』を見たからだ。
その中に掲載されている、『魚吹八幡神社秋季例祭風流』のところに次のように書いている。『石清水八幡宮放生会の中心は雅楽と相撲でありましたが、魚吹八幡の祭礼は確実な記録で鎌倉時代の健治2年(1276)には相撲が主要な位置を占める祭礼が行なわれていたことが想定され、明治時代後半に至るまで祭礼において盛んに相撲が行なわれていました。現在は夏祭りのこども相撲として盛んに行なわれています。』
 上記の通り網干6ヶ村(興浜・浜田・新在家・余子浜・垣内・大江島)にはそれぞれ土俵があり、夏に奉納相撲大会が行なわれている。
 ここ興浜の土俵は金刀比羅神社にあるが、写真のように地面より50cmほど盛土した土俵になったのは、昭和60年代前半のようだ。

 毎年8月に行われる夏祭りでの奉納相撲大会について書いてみます。
 いつの頃より始まったのか、興浜在住の長老が子供の時に参加していたというくらい歴史のある行事です。昭和40年代後半ころまでは夏祭りの二日間とも夜に行われていました。興浜中の老若男女が金刀比羅神社に集い、これからの興浜を担う子供達に一喜一憂した盛大な行事でした。
 昭和32年に興浜子供会ができてからは、子供会行事となったが、それ以前は自治会が行っていたのだろう。
 僕が子供会で6年生(昭和51年)の時は間違いなく夜に行なわれていたが、いつのまにか暑い昼間の行事となっていた。僕が子供会の役員をした平成16年の夏祭りより昔のように夜の行事となった。どうしても夜に行い興浜の方に一人でも多く夕涼みがてら見てもらいたかった。自治会役員の方にお願いして各戸配布した、その時の僕の気持ちを込めたビラを紹介します。
 『毎日の天気つづきで、一雨欲しい今日この頃ですが皆様にはますますご健勝の事と存じます平素から子供会活動にご理解ご協力を頂きまして誠にありがとうございます。さて、今年の金刀比羅神社奉納相撲大会は夕方から開催する予定です。一昔前までのように、興浜の住民みんなが子供達の相撲に一喜一憂した大会にしたいと思いますので、是非とも夕涼みがてら、金刀比羅神社にお越し下さいます様よろしくお願いいたします。これからも、興浜子供会の子供達を、時には叱り、時には一緒に笑い、『ひとりの子供』としてではなく『興浜の大切な宝』として、見守って頂きたいと思います。
 金刀比羅神社奉納相撲大会は僕が大好きな興浜の行事である。
 その時の様子を一部紹介します。


練習風景
網干相撲連盟・網干中学校相撲部・同OBの方に指導して頂いています


金刀比羅神社夏祭り奉納相撲大会当日
大会前の魚吹八幡神社澤宮司による御祓い


低学年の取組みの様子
主審は網干相撲連盟の方です
副審は自治会役員の方です


高学年の取組みの時は夜の帳もおりていい感じです


試合後の表彰は自治会長からです


その時の6年生の写真です