興浜(おきのはま)で候 

興(こう)ちゃんの手掘り郷土史

金刀比羅神社 その2

2007年10月07日 | 金刀比羅神社

 鳥居

 


     
 高さ十六尺四寸 柱回り四尺四寸 柱間内法十二尺
 大正七年四月十日 太田勝治・山本真蔵・水田専次 三名ヨリ寄進
 10月21,22日の魚吹八幡神社秋季大祭において、ここ興浜は檀尻・流しをくりだし、お旅所(西の馬場)もしくは魚吹八幡神社楼門前において檀尻芸を披露して帰って来るのだが、その出発地点がここ金刀比羅神社である。
平成2年に新蔵された2代目になる檀尻の高さが今までより高くなった為、平成2年にクレーンを使用して鳥居を高さ80cm持ち上げ、沓をはいたようにコンクリートで嵩上げをした。
 鳥居寄進者のひとり山本真蔵氏は明治10年5月に生まれ、明治37年3月町会議員に選ばれて、大正10年3月まで在任した。また明治40年9月郡会議員に当選し、大正11年3月まで在任した。詳しくはのちほど改めて紹介するが、寄進した時は網干町会議員と揖保郡会議員をされていた。その時、山本真蔵氏42歳の話です。


 

 しめ柱(正面)

             

 正面に刻字は無い。裏側のみ刻字有り。高さ3.7m,断面435mm×390mm
 東側(写真左) 『壬辰十一月  嶋津拾作・太田市次郎』 
          『周旋人  伊藤佐助・児嶋繁作・岡井周助・安部新兵衛』
 西側(写真右) 『明治二十五年  山本宗右衛門・福井治助』 
          『周旋人  福井治助・水田傳蔵・嶋津拾作・山本金治郎』
 拝殿内に明治25年(1892)の『屋根換寄付芳名板』がある事から、文政7年(1824)に造られた本殿(筆者推測)が68年後の明治25年に1回目の屋根換工事と何かを行った事は確かである。境内にはまだまだ沢山の歴史の証拠がある。これから気合を入れて手掘り作業を行わなければならない。