移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ
2018年9月の6回目のヌーサ
の5日目は土曜日だったので
クルマで約30分ほど南下
ショウガで有名なヤンディーナ
のカントリーマーケットへ。
周囲は広大なスポーツグランド
そこにブースを並べて開催する
ファーマーズマーケットでした。
今まで訪れれたヌーサ周辺では
最も農村色、ローカル色が強く
売っているものが全然違う(笑)
前日に続きヌーサ農業の重要性
を実感するような場所でした。
生産者が畑から採ってきたのを
そのまま並べて売っている
外国人どころか地元民以外の
オーストラリア人もあまり
いないのではないかと思われ
生花も
生野菜も
植木も
鮮魚や冷凍魚
など
そう簡単には持ち返れないもの
を売る店がズラっと続きます。
古着や手作り服をキャンピング
カーの中で売っていた店
この年配男性2人のユニットは
足踏みで人形が躍るんです
手作り感満載でみんな器用
ドイツソーセージの店
あちこちで見かける
ドイツ系
ランチはこうなりました。
巨大なプレッツェル(笑)
帰りに立ち寄ったマカダミア
ナッツ専門店ナットワークス
製造工場も兼ねていて
生産過程が丁寧に説明され
観光名所のひとつでした。
おみやげにはピッタリです。
ヌーサ農業祭の帰りに立ち
寄った、小さな町クーロイ
サーカ・クーロイ
半年前にできた窯焼きピザが
売りのカフェとレストラン
コーヒーの焙煎機が届いた
直後のようで放置状態(笑)
ここはヌーサジャンクション
に店があった
ヌーサ・ホット
ブレッド・ショップ系列と聞
いていましたが、2016年に
初めて行った時のバリスタ氏
がいてビックリ
しました。
美味しいコーヒー
パン屋は健在でしたがまだ量が
少なく新規開店直後の雰囲気。
ぜひ今度はピザを食べよう
外には古いガソリンスタンド跡
クーロイは古くから開けた町
意外な場所に意外な中華料理店
ここにこの商店街の歴史が簡単
に記されていて、それによれば
この中華料理店の場所は1930
~60年代までギリシャ人移民が
経営する人気のカフェだったそ
うで、そばの映画館
からの客
などで大変賑わったそうです。
今は人口4,000人未満でずい分
と異なる場所になっています。
さらに行くと、こんな掲示板
クーロイの歴史散策マップ
時間がなかったのでまたいつか。
この辺はさらに大きな商店街で
チャリティーショップもある
(👆つい気になってしまう)
ジャーマンベイクハウスカフェ
屋根にプレッツェルとコーヒー
ドイツ系の食品店兼カフェで、
少しだけ買い物も
店の前はちょっとした憩いの場
地元民が立ち話をしていたり。
バターファクトリーアーツ
センターは旧バター工場を
アートセンターにした場所
クーロイ図書館は屋上が、
ガーデンになっています
この南洋スギは偶然?アート?
まるでニワトリ
ここはヌーサから近いのでまた
時間をかけて散策しましょう
2018年9月の6回目のヌーサ
4日目は全く予想外の場所へ。
(※移動遊園地?)
自分たちで行っておきながら
(※ゴーカート?)
ただただ唖然としてしまい
(※縁日?)
間違った場所に来たのかと
(※ゲームに)
思ってしまったほどでした。
(※容器に入った綿菓子)
来てみてわかったのですが、
(※馬の品評会)
これはヌーサの農業祭でした。
英語名ヌーサショーで、NZで
AG(農業)ショーと呼ばれる物。
(※動物を乗せてきたトレーラー
がた~くさん駐車しています)
こんな小さな子も自慢の馬と
見せるだけではなく乗ります。
歩きます。
走ったりターンしたり
華麗な技も競われます。
ナゼそんなに意外かというと
(※老若男女のバンド)
その日が休日だったから
(※やっと見つけたコーヒー
)
これのために休日
しかも、金曜日なので3連休
(※ヌーサFM)
休日といっても全国的なものでは
なくクイーンズランド州のでもな
く、その下の自治体ヌーサシャイ
アの休日でした。オークランドで
市制記念日が休日のようなもの?
アジア人など私たちぐらいの(笑)
こんなオーストラリアもアリなのか
と思うほど地元の農家が主役
(※牛の品評会)
街中ではわからないヌーサの一面
ヌーサの農業の重要さをみました。
みんなそれぞれに自慢のものを
持ち寄って品評会に出したり、
(※扇風機に当たるワン)
ただ単に自慢したり(笑)
(※ズラリと並ぶクラッシックカー)
さすが
オーストラリア
ヘビ使いもいて、しかも女性
(※NZに🐍はいません)
子どもから大人までが楽しんで
代々受け継がれてきているよう。
(※この子が最年少ライダーかな)
後から調べたところによると、
クイーンズランド州には
ショー
ホリデー(農業祭休日)というも
のが農村部自治体にありました。
時期はそれぞれで、NZの例なら
畜産が盛んな場所は子どもが生ま
れる春、農業が盛んな場所は収穫
の秋なので、ヌーサは春なのか。
(※母牛にピッタリくっつく子牛)
ランチはこれでした
今回の経験からひとつ学んだのは、
この休日にヌーサに来てはいけない
ということでした
必ず3連休にな
るのでホテルにとっては稼ぎ時
自分たちで泊って営業妨害
している場合ではなかった
早くもヌーサ3日目の朝
投資物件にかかりきりで
出歩いていなかったせいか
時間がとっとと経過します。
やっと落ち着いてやって来た
朝のぺリカンビーチ
後は海ではなく川
名前どおりペリカンがあち
こちにいて普通に会えます。
どうです
この立派なツケマ
目ヂカラ最強
河畔にできたビストロバー
地元民も観光客も集まるヌーサ川
朝の散歩やランにはもってこい。
カフェで簡単に朝ごはん
ヌーサのロースタリーのひとつ
リトルコーブ
その後の写真はいきなり午後3時
仕事を終えてやってきたのは
ヌーサヘッズの
ヌーサ国立公園
ボイリングポットと呼ばれる
岩にぶつかり荒波が立つ場所
ここはラッキーならコアラに
会える場所といわれていて、
上を見上げて歩いているのは
まず観光客(笑)
「アレはナニ~💦」
と数人で指を指しつつ、カメラ
を構えてワーワーやってたら
「ポッサムよ」
と地元民らしい人がボソッと
言い通り過ぎていきました
ポッサムも有袋の樹上動物。
今回もコアラは空振りでした。
さすがサンシャインコースト
9月でもサーファーがいっぱい。
しかも、平日の午後なのに
と思ったら、かなりが子ども
もう放課後だもんね
いや、大人もか(笑)
ヌーサヘッズの端っこにある
フェリックス・エスプレッソ
緑多い静かな一角でお気に入り。
こんな午後にサラダがあって◎
夕方は3回目のヌーサクイーン
サンセットリバークルーズです。
初めて乗ったときに先祖返りか
過去世をのぞいたような
不思議
な体験をした私のヌーサの原点
船長が可愛がるブッチャーバード
今回も
船首像のアルバイト
日没に合わせての出航なので
この日も完ぺきな夕焼けでした。
2018年9月のオーストラリア
はサンシャインコースト
ヌーサの子にチェックインして
翌朝はお気に入り
ベルモンドス
で
クランディスティーノの1杯
その後の写真がいきなりコレ(笑)
部屋の片づけ、買い物、ホテル
との打ち合わせに勤しんでいた
らしく日中の写真がありません。
夕食に訪れたレストラン
ピッチフォーク
ここはヌーサの最南端
ペレジアン
ビーチという場所で、1年前の
投
資物件内見の旅で来ていました。
でも、夜も食事も初めて
干し草用熊手という店名どおり
素朴な造りの店内。メイソンジ
ャーのライトかと思ったら、
いろいろなばらばらの瓶
不揃いさがまたよかったり。
ガランとした店内にたった1人の
ウェイトレスが申し訳なさそうに
「いつももうちょっと混むのに」
と可愛く苦笑いしていました。
オフシーズンの静かさもまたよし。
この日だった
アデレードの子の
無事引き渡しに完了に乾杯
この旅行の最大の目的達成
カトラリーがズラっと並んで
まずは旬のコフィンベイの
オイスターからスタート
キンキンに冷やしてある石
温かい前菜は夫のラビオリ
私はクイーンズランド州なら
ではと思われる9月のアスパラ
夫はフィッシュ&チップス
私も魚でサイドサラダ添え
魚料理にもふんだんに野菜が
ついてくるのがウレシい
〆のコーヒーまで満足な場所
またいつか再訪しましょう
滞在時間2時間半の
メアリーバラ
の話が4本にもなってビックリ
2018年9月のフレーザーコースト
滞在もいよいよ終了し、ここから
はサンシャインコースト入り
大陸らしい超大型トラックが新鮮
NZでは見たことがない大きさ
「ただいま~」
ヌーサの子にチェックイン
6月以来3ヵ月ぶりでした。
ヌーサに来たのは6回目。
相変わらずガーデンの手入れが
完ぺきでついついパチパチ
南国らしい色合いが白壁に映える。
故障したシーリングファンが新調
されていました。これがホテル指
定ながら、ややプロペラっぽい
でも掃除のしやすさ重視らしい
今までの方が個人的には好みで
リビングにはまだ残っています。
あっという間に夜ご飯
になって
いつものムールラバ産のエビ
塩分控え目に自分で茹でます。
私たちのヌーサでのホテル投資が
エビ
↓
サンシャインコースト
↓
ヌーサ
という勘違いから始まったのは、
前にもお話したとおりですが💦
私のエビLOVEが奏功して
私たちはこの美しい地に出会い
50代の夢を叶えました
エビさまさま(笑)
@
ムール―ラバ
2018年9月のフレーザーコースト
で最後に立ち寄ったメアリーバラ。
2大中心地のもう片方
ハービーベイ
は美しい海と地元民で活気があり
大きなホテルも何軒かあったので
クルマで入って来た時からメアリー
バラの旧態依然の寂れた印象は強く
歩き始めるとさらに強まりました。
商業施設の空室や売り物件が多数
小さな街の限られた中心部にして
これだけの件数ということは
地元経済が推し計られます。
閉店を知らせる紙
この店も売りに出ていました。
19世紀に建てられたホテルの多く
は低所得者向け住居になっており
植木鉢や洗濯物に生活感があり
宿泊施設としてはほとんど利用
されていないのではないか?
完成した頃は街のランドマーク
だったであろうロイヤルホテル
民間職業斡旋所ももぬけの殻
教会系慈善団体。寄付の受付と
食料を無料で配るフードバンク
を兼ねているのかもしれません。
ここもフードバンクで、人が
盛んに出入りしていました。
いずれも大きな通りの路面店で
需要の高さがうかがえます。
隣の中華料理店の名前は『幸運』
街の散策を始めてすぐに気づいた
この信号
誰もが笑顔になってしまいそう。
そしてメリーポピンズの銅像も。
ミュージカルや映画でおなじみ
傘をさして
空からロンドンの
街に舞い降りたスーパーナニー
原作者でイギリス児童文学作家
パメラ・リンドン・トラバーズ
はメアリーバラの出身でした。
右手の銀行の2階で1899年誕生
父親が銀行の支店長で、一家は
2階で暮らしていたそうです。
メリーポピンズが銀行家バンク
ス家で職を得るのも、幼少時代
の経験が基にあると言われます。
てっきりイギリス人だと思って
いたのでオーストラリア出身に
びっくりやら身近に感じるやら。
2020年にミュージカルが来た
時は、いそいそ出かけました。
2018年9月のオーストラリア
はフレーザーコーストで最後
に立ち寄ったメアリーバラ。
19世紀には州都ブリスベンに
拮抗するほど勢いがあった時
期もあったそうですが、今は
大きく様変わりしています。
視界に飛び込んで来るひと際
大きな建物は全て当時のもの。
1879年に完成した教会と
1887年に完成した鐘楼
当時の栄華、教会の権勢を
今に伝える大きさと壮麗さ。
街のシンボル市議会堂
1908年完成
今はクリニックになっていた
1888年の建物
これも19世紀末に建てられた?
1876年のホテルと思われる建物
1882年の駅舎
教会と道を挟んだ1898年からの宿
アールデコ風に手直しされて
(※それでも100年近く前
)
今は週140ドル(1.2万円)の木
賃宿か低所得者の住居のよう。
メアリーバラは運輸、金、羊毛
サトウキビ輸出の主要地として
関連する機械製造や造船も発達
した、工業の街でもありました。
しかし、金の枯渇や船の大型化
と陸上輸送の発達で河港の地位
が低下し、街の役割も周辺産業
も衰退していったようです。
金の発見と枯渇が街の運命を
左右したのはNZの
ダニーデン
も一緒ですが、ダニーデンは
遠隔ながら海に面し、良港に
恵まれ、
ポートチャーマーズ
は木材の一大積出し港です。
(※ポートチャーマーズ)
またオタゴ大学を擁する学園
都市、観光名所として発展し
たことで、若者や旅行者を呼
び込むことに成功しました。
(※オタゴ大学)
メアリーバラは20世紀初頭で
立ち止まり、どこにも踏み出
さずにいるように見えます。
ふんぞり返る白人経営者と
働くアボリジナルの従業員
今のNZなら絶対にNGな壁画
ハービーベイと並ぶフレーザー
コーストの中心メアリーバラ
といっても、何の知識もなく
フラりと立ち寄った街でした。
まずは地図を確認。碁盤の目で
19世紀に開発されたのが明白な
オーストラリアによくある古い街
ポートサイドという地名があり、
「こんな内陸に港」
と思ったら、河港でした。
メアリーバラはその地名どおり
クイーンズランド州を北上して
先程フレーザー島からのフェリ
ーを降りたリバーヘッズに注ぐ、
全長300キロ近いメアリー川の
河口近くに位置する街でした。
(※赤線がメアリー川)
河口近くといっても、ここから
リバーヘッズまで30キロ以上で
大陸になじみがないせいか、
港=海の感覚だと内陸です。
メアリー川とかつての河港周辺
鉄道が平行しており物流の要
だった過去がしのばれます。
周囲は新しく整備された公園に。
メアリーバラの歴史は、羊毛の
積出し港として1847年に開始、
街の発展が始まりました。大型
船の入港を可能にするために、
1856年には新しい今の街の開発
に着手され、1859年には通関が
できる出入国港となりました。
今や見る影もないですが、ここ
は20世紀初まで国際交易と移民
の入国で大いに栄えた地でした。
意外にも19世紀には国内屈指の
移民入国港だったそうです。
移民の波に加担したのが1867年
の
ギンピ―での金鉱の発見で、
世界中から一攫千金を夢見る男
たちが押し寄せ、ゴールドラッ
シュが巻き起こりました。
(※ギンピ―博物館の看板)
金の発見はメアリーバラの重要性
を一段と高め、この地の銀行は計
400万オンス以上(113トン以上)
(👆こういう量になると金も鉱物)
の金輸出にかかわったそうです。
カフェがあったアデレード通りや
ケント通りは行政やビジネスの
中心という新しい街の顔となり
次々に建物が建設されました。
来た時と同様にホテルのカート
これに乗って桟橋に向かい、
本土リバーヘッズに戻りました。
(※沖合の島がフレーザー島)
乗客はバスや自分のクルマに乗り
込みあっという間に散り散りに。
後に残った私たち。ハワイを
思い起こさせるような南洋植物
色鮮やかで思わずパチパチ。
同じ植物でもNZより大きい
何が違うんだろうとつらつら
想いつつ、耳ダンボ
で夫の
電話に聞き入っていました。
2018年8~9月のフレーザーコ
ースト旅行には、5月に購入し
ていたアデレードのホテル物件
の引き渡しを無事終えるという
重~い使命があったことはすで
にお話していたとおりですが、
正式な引き渡し日は9月3日で、
この日は翌日の4日でしたが、
まだ引き渡しが終了していない
という、それまで13回の不動
産売買で未経験の初遅延
懲罰的ペナルティーが科されて
も仕方ない非常事態に直面して
マッケンジー湖で心が安らいだ
のもつかの間。本土に戻って
ネットがよくなったこともあり
夫が当局に掛け合っています。
問題は到着時に申請しておいた
私たちが現在オーストラリア国
内におり、NZ人として国内の
中古不動産を購入する権利があ
る、という内務省の証明が期日
内に出ておらず、それがないと
南オーストラリア州では不動産
の引き渡しができませんでした。
相手は政府機関。自分たちでは
どうすることもできないものの、
こちらの事情を説明すると、電
話の向こうの公務員は平謝り。
まるでサービス業のような対応
で、公共サービスという言葉が
身にしみました。この電話で
最終決着し翌5日に取引完了
この証明以外の必要書類と資金
は期日までに揃っており、双方
の弁護士がその点を確認してい
たので、売主側の理解で幸いに
もペナルティーは免れました
(※この話は
コチラでも)
心から安堵してやってきたのは
ハービーベイと並ぶフレーザー
コーストの中心メアリーバラ
可愛い動物たちの銅像が
アデレードのブタたちを彷彿
自然な姿に笑顔になります。
アレっ
キミは本物(笑)
突然出現したのはアデレード通り
なんというアデレードつながり
思わず目の前のカフェに駆け込み
ホッとひといき
大仕事を終えた夫は旅行中の
定番バーガー
にかぶりつき
私はパイとサイドサラダで。
@
パークサイド・オン・アデレード
ともあれ、重~い使命完了
2018年9月のフレーザー島最終日。
朝ごはんに中華粥がありました。
宿泊した
キングフィッシャー
ベイリゾートはオーストラリア
らしい大きさとラグジュアリー
スマートモダンで洗練とはひと味
違う親しみやすさがあります。
それがオーストラリアテイスト
広々としたロビーエリアは画廊
のようでもあり、プチ博物館の
ようでもあり、島にまつわるもの
がたくさん展示してありました。
マヘノに関しても模型、写真、
説明と詳しい展示があります。
わかってはいても胸が痛む、
かつての木材の切り出しの様子
あらゆる手段で運び出したのは
(※マッケンジーレールライン)
NZもオーストラリアも一緒です。
(※木をいかだにして漕いでいく!)
木材運搬用の大きな船が停泊で
きる立派な桟橋が造られました。
当時の建物。左上から時計回りで
木の皮でできた作業員の家
初期の宿泊施設
現場責任者の家
学校
入植者たちは先住民アボリジナル
のブッチュラ族とは比較的良好な
関係を保っていたそうですが、
守り続けた木々が切り出される
のをどんな思いで見ていたのか。
彼らを描いた美しい絵画も。
上下で別れるホテルのスロープ
下に行くと海側のバルコニー付き
の部屋だったようです。
(※私たちは上に行き庭側でした)
リゾートらしいプール周り
またいつか戻ってきましょう。
美しく厳しい自然のままの
自然遺産の島、フレーザー島
観光の最後にやってきたのは
フレーザー島の中心に位置する
マッケンジー湖
砂の島の湖という存在だけでも
不思議なのにその美しさたるや
天国に一番近い湖
と思ってしまったほどでした。
雨水だけでできた湖で、みんな
さっそく飛び込んでいました。
砂の島だから天然のビーチ
クリスタルクリアな水
パウダースノーのような白砂
海にはない淡水ならではの
優しさを感じました。
湖につながる川はないそうで
汚れても流れ出ずに堆積する
だけなので日焼け止めは禁止
みんな思い思いに楽しんでいて
その気持ちもよくわかるけれど
私には神聖すぎて見つめるだけ。
清らかで心まで洗われるよう。
ツアーは無事、楽しく終了。
どこまで行っても砂場のよう(笑)
夜はディンゴのスパークリング
ワインで砂の島に乾杯
(※またシーザーサラダの夕べ)
砂の島なのに緑豊かという
不思議な光景のフレーザー島
砂の中に元よりある
菌根菌
が植物を育み森を育てている
といわれてもなかなかピン
と来ないほどの濃緑と樹勢
樹木に生命力があるせいか
寄生植物もよく見ました。
これなど絡めとられるよう💦
それでも共存しています
水が豊富なことも重要
栄養と水で砂でも木が育ち、
こんな大木にまでなります。
ここはパイルバレーといい、
サティネイまたはフレーザー
島テレビンノキという高木が
見られます。高さ30mにも
なる真っすぐな巨木です。
通称レッドサティネイと呼ばれ
南米ペルーやフランス領ギアナ
産サティーネと並ぶ高級木材。
ステインを塗ると褪せたイチゴ
のような赤になり、高級家具の
材料にもなっていたそうです。
さらに真っすぐな幹は19~20世
紀初頭にかけて、桟橋の支柱や
電柱に利用されていましたが、
今ではもちろん島のすべてが
自然保護の対象になっています。
ここではバスを降りられました。
降りてももちろん砂です(笑)
しかし、フレーザー島は2020年
11月に焚き火の不始末で火災が
発生し、6週間にわたる森林火災
で、島の約半分近くが消失する
という大惨事に見舞われました。
濃緑の森はどうなっているのか。
逃げ場のない島の大規模火災は
野生動物にとっても残酷です。
(※
ディンゴ)
2020年初は南オーストラリア州
カンガルー島でも落雷で出火し
島の半分を焼く甚大な被害が出
ており、森林火災の1年でした。
いずれの島も自然の宝庫だった
だけに残念ですが、1年でも早く
元の姿が戻るように祈ります。
2018年9月に訪れたフレーザー島。
世界遺産で世界最大の砂の島は
どこまで行っても砂でした。
川底も砂なら
道も砂で
湿って硬くなったビーチは
高速道路の走りやすさ
マヘノの後に訪れたピナクルズ
名前の通り山頂のような場所
「砂の島にも山があったのか」
と思ったら、これも砂山でした💦
強い潮の流れによって堆積した海砂
が吹き寄せられてできた島と異なり
この部分は鉄分を多く含む粘土質が
混じることで黄色く、粘り気のある
砂で形成された古い部分だそう。
オーストラリアらしい黄色は国の礎
でもある鉄と切っても切れない関係
なのだと知ると、感慨深いです。
山に見えても砂山なので保護と安全
のために登山は禁じれていました。
眺めるだけで末永く残ってほしい。
島のあちこちに黒焦げの木があり
森林火災予防の野焼きの跡なのか?
夏には気温50度近くにもなるので
火災を拡大させる恐れがある枯草
などを事前に焼き払っておく伝統
的かつ有効な森林管理の方法。
左側の陸地に近いホテルのある
キングフィッシャーベイから、
グルグル回り右の外洋に面した
ユーロンベイにやってきました。
ここにも小さなホテルがあります。
長期滞在者には良さそうな場所で
パン屋やテイクアウトの店や
ガソリンスタンドもありました。
場所柄ガソリン代が高~い💦
リッター200円はこの国では激高
ツアーバスがみなここに集まって、
みんなでビュッフェランチ
NZ史にたびたび登場する
マヘノ
NZとオーストラリア間のライナー
として両国に広く親しまれた後、
第一次世界大戦中は病院船として
HMNZHS(国王陛下のNZ病院船)
という尊称が贈られる活躍を遂げ
両国民の脳裏に刻まれたその名前。
マヘノは1905~1935年の30年間
の数奇な激務を終えた後、6月に
メルボルンから日本に向け、最後
の航海に出ました。大阪の解体業
者に廃船として売却されたのです。
航海といってもプロペラが外され
自走することができなかったので
別の蒸気船に曳航されていました。
鉄くずとなるための片道の航海。
1905年の建造中のマヘノ
NZのダニーデンの地名
これらのプロペラが外されたのか。
しかし、マヘノが日本の地に辿り
着くことは、ありませんでした。
大阪に向けた2艘はオーストラリア
東海岸で猛烈な暴風雨に見舞われ、
ばらばらになってしまいました。
自走できないマヘノは荒海を漂流
した挙句、7月9日にフレーザー島
の東海岸で座礁してしまいます。
船体の片側には大きな穴が開き、
日本行きは断念されました。
船内の家具や装飾は島民が記念に
持ち返り、第二次大戦中には豪軍
の実射の的にもなったそうです。
海風や潮に洗われた年月を物語る
なんとも深い赤銅色の厚い錆
満身創痍も今や骨格を残すばかり。
その姿を目にし、脇に立った時
「マヘノはこのタスマン海
に留まりたかったんだ」
と急に気が付きました。
知らない異国で鉄くずになるより
ずっと行き来したこの海で朽ち果
てることを選んだと感じ、胸が熱
くなり涙があふれるようでした。
何度もくぐり抜けてきた嵐を呼び
曳航される鎖を引きちぎり、2度
と動かなくなって、この砂の島で
最後のひとかけらが朽ちるまで、
慣れ親しんだ海とともにいよう。
意思を持ってそうしたとしか思え
ないような、展開とその後の姿。
私はいろいろな見聞や自身の経験
からモノ、特に動力で動く大きな
モノには意思があると信じます。
国王陛下の白船の誇り高い最期。
いつか砂に埋もれて消えるまでの
長い長い砂葬を目にしているよう。
私も自分の最期は自分で選びたい。
と強く思った、孤高な姿でした。