【主を待ち望む者は力を得る】
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように、翼を広げて上ることができる。
走っても力衰えず、歩いても疲れない。
イザヤ書40章31節
イザヤ書40章は、イスラエルの民が70年間のバビロン捕囚から紀元前538年にペルシャのクロス王によって解放されることを預言しています。この預言をイザヤが語ったのは紀元前720年頃、すなわち預言が実現する180年も前のことでした。
ちなみに、今から180年前の1843年は黒船来航の10年前ですから、創造主である神は時も出来事もすべてを支配されていることをあらためて実感します。その永遠の神を信じるとき、人は新しく力を得続けるのです。
信じるとは神を待ち望むこと…信仰とは主を待ち望むことです。と同時に、私が主を信じて主の御わざを待望する前から、主は私を待っていたのです(イザヤ30章18節)。さらには、主を待ち望むことは、圧倒的な主の勝利を得られる保証です(イザヤ49章23節)。
信じるとは神の力で高く上がること…香貫山に登ると鷲の仲間であるトビが悠然と飛ぶ姿を見ます。鷲やトビは翼を大きく広げて気流をつかむからこそ、長くそして高く空を舞うことができるのです。それは自分の労力ではなく大気に身を委ねることを会得していればこそですが、信仰も同じです。信仰によって神に我が身を委ねるとき、若さと良いものが満たされます(詩篇103篇5節)。
信じるとは神が授ける義の栄冠を目指すこと…「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(Ⅱテモテ4章7、8節)とパウロが告白したように、信仰には栄光のゴールがあります。神を信じて走り抜くとき、それは得られるのです。