沼津シオン・キリスト教会

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今週の御言葉 2020年3月29日 ヨハネの福音書15章1~11節

2020-03-30 13:38:10 | 今週の御言葉

【居場所がある幸い】

 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。
                              ヨハネの福音書 15章5節

 ヨハネの福音書14~16章は、イエス・キリストが十字架を目前にして最後の晩餐の席上で語られた説教が記されています。そのなかで主イエスは、信じる者に助け主である聖霊が注がれること(ヨハネ14・15~26、16・7~16)や、平安が与えられること(ヨハネ14・27、16・33)を語ります。そして、主を信じる者は主の内に居場所を得て大きな力を持つことが語られているのです。

 主イエス・キリストは居場所のないつらさを味わった…主イエスは宿屋に居場所がなく馬小屋に生まれ(ルカ2・7)、伝道活動のさなかも、枕する場所すらありませんでした(マタイ8・20)。私たちが救い主として信じる主イエスは、身をもってしいたげられる者のつらさを体験したのです(へブル2・18、4・14~16)。

 キリストにとどまるとは教会の交わりの中に身を置くこと…主イエスのうちにとどまるとは、まず主を信じて礼拝や教会の交わりにとどまることです。なぜなら、教会の頭はキリストであり、教会はキリストの体だからです(エペソ1・22、23)。信仰は教会の交わりの中で養われ、豊かにされるのです。

 祈りはキリストにとどまる者が持つ力…主イエスを信じる者は祈るときに主イエスの御名によって祈ります。それは当たり前のことと思われるでしょう。では、その主イエスの御名による祈りが持つ計り知れない力を私たちはどれだけ体験しているでしょうか。主イエスが語った無限の力を知るとき、私たちの祈りと信仰は変わります(ヨハネ14・14、15・7、16、16・23、24、26)。

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今週の御言葉 2020年3月22日 サムエル記第一 26章1~25節

2020-03-23 11:34:22 | 今週の御言葉

【主が報いてくださる】

 ダビデは言った。「主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。
 私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。さあ、今は、枕もとにある槍と水差しを取って、ここから出て行こう。」     
                               サムエル記第一 26章32~34節

 サムエル第一26章と24章は、状況が似ています。しかし、24章と26章では明らかに違う点もあります。それは、ダビデがサウル王に追われるなか神の護りを実感して、心や態度に余裕と確信を得たことです。生きておられる神を信じて祈りと御言葉に養われるとき知恵や心、人間性が広く深く豊かになるのです。

 創造主である神を信じる者の余裕(1~7節)…ダビデはアビガイルとの結婚(25章42節)を通してナバルの遺産を得、マオンと周辺の荒野に足場を築きます。その結果、荒野に出てきたサウルの行動を把握する偵察網を築き、逆にダビデがサウルの天幕へ忍び入ります。神は信じる者を一つひとつの体験を通して成長させ、大胆な行動をとるだけの自信と余裕を与えます。

 救い主である神を信じる者の確信(8~12節)…神を信じるが故の大胆さには必ず謙虚さが伴います。謙虚さとは、目先の利益や欲に振り回されず、神の御手に委ねる無私の心です。ダビデは主が自分を救い、王としてくださる確信があるからこそ、自分からサウルに手を下す愚かさから守られたのです。

 唯一のまことの神を信じる者の宣言(13~25節)…まことの神に愛されて救われる確信がある者は、臆することなく大胆に神の救いを宣言します。なぜなら、絶体絶命の危機を幾度も神によって救われた体験があるからです。証しとは、自分が体験した救いを言葉はもちろん態度や存在を通して高らかに宣言することです。

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今週の御言葉 2020年3月15日 サムエル記第一25章1~44節

2020-03-16 09:36:17 | 今週の御言葉

【柔和さの内に宿る神】

 ダビデはアビガイルに言った。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように。主は今日、あなたを送り、私に会わせてくださった。 
 あなたの判断がほめたたえられるように。また、あなたが、ほめたたえられるように。あなたは今日、私が人の血を流しに行き、私自身の手で復讐しようとするのをやめさせた。
 イスラエルの神、主は生きておられる。主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった。もし、あなたが急いで私に会いに来なかったら、きっと、明け方までにナバルには小童が一人も残らなかっただろう。」 
                              サムエル記第一 25章32~34節

 柔和さに宿る神…資産家ナバルは、ダビデとその部下達から受けた恩をあだで返します(Ⅰサム25・2~13)。それを知ったナバルの妻アビガイルは即座に多くの贈り物(食糧)を用意してダビデの許へ行き、夫の非礼を詫びました。アビガイルは、「あの責めは私に」(24節)、「はしための背きをお赦しください」(28節)と柔和な言葉で語りました。
 箴言には、「忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。」(箴言25・15)とありますが、アビガイルの柔和な言葉に、ダビデは我に返ります。そしてまた、キリストも柔和なお方なのです(ゼカリヤ9・9、マタイ21・5)。

 柔和な者は洞察力を持つ…柔和さと優柔不断は別物です。まして軟弱ではありません。アビガイルは夫を「愚か者」と言い切る一方で(25節)、ダビデに神の器としての自覚を取り戻すよう丁寧に語ります(28~31節)。キリストを救い主として信じる者は、御聖霊を内に宿すことで、心の柔和さと共に、人を見抜く「賢明」(3節)さと適確な「判断」(33節)をする洞察力を持つのです。

 柔和な者は神の御業を前進させ、周囲の人々も自分も主の平安と喜びへ導く…アビガイルの言葉はダビデを罪から守り、自分と周囲の者を滅びから守るだけでなく、後に彼女はダビデの妻になります(34~42節)。その結婚を通して、ダビデはナバルの資産を受け継ぎ、依然としてサウルに命を狙われながらも着実に世に出る足場を築いたのでした。
 主イエスは山上の説教で「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」と語りました(マタイ5・5)。まさにアビガイルはダビデの怒りを鎮めるだけでなく、彼が王となり世を治め子孫に王位を継承していくという神の御心の実現のために、目立たずとも大切な役割を果たしました。
 主イエスの心を心として生きる柔和な者こそが、真に世を治める者です。

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ナバル~本当の「愚かさ」とは~

2020-03-16 09:32:25 | 説教ノート余話

【ナバル】

▽ナバルは、どこが愚かだったのか


☆ナバルという名前は「愚か」という意味です(Ⅰサム25・25の欄外注)。確かにナバルは、「頑迷で行状が悪く」(Ⅰサム25・3)、「よこしまな者」(Ⅰサム25・17、25)でした。その一方で、「事業をしていて、非常に裕福」(Ⅰサム25・2)でもあり、実業家としては有能だったようです。しかし、その商才と事業の成功が自分の力によるという勘違いを招き、自己中心的で高慢になったのでしょう。その本性が、ダビデと部下たちへの態度に表れたのでした(Ⅰサム25・9~11)。

☆ナバルの愚かさ、それは尊大さのゆえに彼が見下して邪険にしたダビデこそが、神に選ばれた器であることを、見抜けなかったことです。

☆それはすなわち、ナバルは傲慢さのゆえに、目に見えない創造主なる神を畏れる心を、すでに失っていたからでした。神を畏れる心を失うとき、人は謙虚さや感謝の心もまた失います。そして、お金よりも事業よりも何よりも大切ないのちを失ってしまったのでした(Ⅰサム25・38~39)。

▽ナバルの末裔たち

☆ダビデの時代から千年後、主イエス・キリストは私たちの救いのために世に来られます。たとえを用いて語る中で、ルカの福音書12章15~21節では、たくさんの収穫を得て財産をためることに気を取られ、神を忘れ永遠を意識しなかった金持ちについて語っています。


☆その自分のために蓄えながら神に対して富まなかった金持ちのたとえに続いてルカ12章22~32節には、マタイ6章25~33節と同じ教えを語っています。すなわち、神の御国を求める者は永遠を知るがゆえに、満ち足りることを知り、今日を生きることへの感謝をおぼえる日々を歩むのです。

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今週の御言葉 2020年3月8日 サムエル記第一24章1~15節

2020-03-08 16:41:08 | 今週の御言葉

【選択をするときに】

彼は部下に言った。「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。」
                     サムエル記第一 24章6節

 人生では様々な場面で選択を迫られます。そのとき、創造主である真の神様を意識する者は守りと祝福を得ます。神様を意識して選択をするとは、次の三つに心をとめて生きることです。

 自分に都合の良い解釈は避ける(Ⅰサム24・1~5)…ダビデ達が洞穴の奥にいることに気づかずに入ってきたサウル王を見て、ダビデの部下は、「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」(2節)と進言します。しかし、ダビデはサウルの上着の裾を切り取るのみにとどめ、しかもその行為さえも後に心を痛めました。
 このときダビデが追い込まれていた状況は、詩篇142篇に表されているように絶体絶命のものでしたが、それでもダビデはこの機会を利用しませんでした。それはこの事態を利用するのは、イスラエルの王位へ正当に就く者には相応しくないと直感的に察したからです。
 これこそが日頃からの祈りと御言葉を通して神と交わる中で養われる霊的感性であり、成熟したキリスト者として必要不可欠なものです。

 あらゆる出来事や人間関係の中で神を意識する(Ⅰサム24・6~7)…ダビデの「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。」(6節)という言葉は、ヨセフの「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか。」(創世記39・9)に通じます。そしてダビデもヨセフも、神を意識するがゆえに悪から守られたのです。

 神の手に委ねる(Ⅰサム24・8~15)…神の御手に委ねるとは、積極的な生き方です。なぜなら主が最善以上をなさると信じて、誠実かつ前向きに生きることだからです(ローマ12・9~21)。

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