沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉 2015年8月30日

2015-08-31 10:49:56 | 今週の御言葉

 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそ
かにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのような
ことが起こるのでしよう。あなたの来られる時や世の終わりには、
どんな前兆があるのでしょう。」
                     マタイの福音書 24章3節
 
 キリストの再臨と世の終わり(1~3節)…「世の終わり」と聞
くと、人類と地球全体の破滅や滅亡といった恐ろしく悲しい出来
事を思い浮かべがちです。しかし、聖書原文の「世の終わり」と
いうことばには「完成する」という意味があります。キリストが
再臨されるとき、いまの世界は終りを迎え最後の審判が行われて、
天地万物が新しくされキリストを信じる者は主と同じ姿に変えら
れて永遠のいのちを得るのです。それはまさに終りではなく、究
極の救いでもあるのです。

 前兆の数々(4~12節)…そのキリストの再臨の予兆として、具
体的に次の三つのことが挙げられています。
 ①主イエス・キリストの偽物の出現(4~5節)
 ②激しい戦争や大きな自然災害が頻繁に起こる(6~8節)
 ③キリスト者に対する迫害と教会内での争い(9~12節)
このように列挙すると、今がまさにその時のように思えます。し
かし主イエスは「ただし、その日、その時がいつであるかは、だ
れも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけ
が知っておられます。」(マタイ24・36)と明言しています。私たち
も、いつ主が再臨しても永遠のいのちにあずかれるよう、日々に
堅く信仰に立ち続けることこそが大切です。

 全ての人が福音を聴く(13~14節)…と同時に、私たちが宣教の
ために祈り証しをすることは、人々を救いに導くだけでなく、キ
リストの再臨へと近づくことでもあります。すなわち宣教とは、
そのこと自体に主の御わざを進める尊い使命があるのです。

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今週の御言葉 2015年8月23日

2015-08-28 19:04:34 | 今週の御言葉

 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く
塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内
側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
                    マタイの福音書 23章27節

 白く塗った墓(25~28節)…主イエスは「わざわいだ。偽善の
律法学者、パリサイ人。」(マタイ23・25、27、29)と、重ねて語っ
ています。しかし、彼らは清く正しく生きることを心がけ、律法
だけでなく細かな言い伝えも守って生活していましたが、彼らの
内面は他の人々と同じく「強奪と放縦でいっぱい」(マタイ23・25)
でした。まさに、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3・
10)のです。誰であっても、神の前に義と認められるのは、ただ
主イエスの十字架の贖い(私たちの罪の犠牲としての死)を信じ
ることによってです(ローマ3・21~24)。

 預言者たちを殺した者たちの子孫(29~36節)…自分の内側に
ある罪深さを認めて神の前に悔い改めないとき、人は自分の内面
に巣くう「強奪(ある和訳聖書では「貪欲」)と放縦(欲望に翻弄さ
れ制御不能の状態)」のゆえに、聖書の御言葉に対して耳を塞ぎ、
聖書の真理を語る者を憎みます。それは御言葉を正しく語る預言
者や伝道者が人の内面にある罪を指摘して悔い改めを迫るからで
す。自分の心と生きざまを根本的に変える悔い改めず、聖書の愛
や平安、救いのメッセージを都合よく解釈するなら、主を十字架
につけた者と同じと、御言葉は問いかけます(使徒7・51~53)。

 あなたがたはそれを好まなかった(37~39節)…決して忘れては
いけないことは、主イエスは自分を十字架にかけるような者の救
いを切に願っています(ルカ23・34)。主の御手が短くて私たちを
救えないのではありません。あの迫害者サウロでさえ救われて伝
道者パウロになったのです。大切なことは自己中心を悔い改めて
心を開き、主イエスを救い主と信じることです(黙示録3・20)。

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今週の御言葉 2015年8月16日

2015-08-16 14:43:14 | 今週の御言葉

 私たちは、この宝を、土の器の中に入れて入るのです。それ
は、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出た
ものでないことが明らかにされるためです。
                 コリント人への手紙第二 4章7節

 宝を入れた土の器(7~12節)…私たち一人ひとりは弱く小さな
存在です。しかし、主イエス・キリストはそのような私たちを愛
し、罪の赦しと永遠のいのちを与えるため十字架にかかって死に、
三日目によみがえりました。しかも今、主イエスを信じる者の内
に、ご聖霊として入ってくださるのです。主イエスを信じる者は
主が内に共におられるがゆえに、内側から変えられていくのです。
主イエスは、あなたがキリスト者にふさわしい人に変わったら救
われる、とは言いませんでした。誰でも宝であるキリストが共に
いるなら、その人は新しく作り変えられ続けるのです。

 恵みがますます多くの人々に及ぶために(13~15節)…そして、
主イエス・キリストがともにおられるとき、主の恵みは私たちの
内面だけでなく、態度や行動を一変させます。言うまでもなく、
人の内側にあるものは必ず言葉や行いを通して外に現れるからで
す。コリント人への手紙を記したパウロ自身、かつてはキリスト
者を迫害する者でしたが、主イエスを信じて一変しました。主を
信じる喜びのゆえにどのような迫害を受けても主イエスを宣べ伝
える伝道者へと変えられ、多くの人々に主を信じる喜びと永遠の
いのちの希望を伝え、主の恵みを多くの人々に分かち合いました。
主を信じる者は、喜びと希望を人々に分け与える者となります。

 目に見えないものにこそ(16~18節)…ここで大切なことは、主
を信じる者は日々の生活のなかで目に見えない、しかし心では確
かに感じることができる主イエスを意識して歩むことです。主に
救われた者は、主の喜ぶ態度や言葉、行動を心がけることで、い
よいよ主に似た者と変えられるからです。

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今週の御言葉 2015年8月9日

2015-08-10 18:55:13 | 今週の御言葉

 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されま
した」と言われた。
                    ルカの福音書 5章20節

 律法学者、パリサイ人の罪…主イエスは罪人を救うために地上
へ来てくださいました。そしてあたたかな愛のまなざしで罪に沈
む者たちを見つめ、救いへと導いてくださいます。しかし、その
主イエスはパリサイ人、律法学者たちに対して、たいへん厳しい
態度で接しています。それは彼らが、「自分を義人だと自認し、
他の人々を見下している者たち」(ルカ18・9)だったからです。
そして、この中風を患う人の癒しの奇跡こそ、パリサイ人、律法
学者たちとの対決の最初でした。それは、主イエスが「罪を赦す
権威を持っている」(ルカ5・24)ことを彼らが認めようとしない
ことに端を発しているのです。そしてそこにこそ、パリサイ人た
ちの傲慢という罪の根があるのです。

 中風の人の罪…もちろん、パリサイ人たちだけでなく、私たち
も含め全ての人が神様の前には罪人であり、中風の人やその友人
たちも例外ではありません。「すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キ
リスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるの
です。」(ローマ3・23~24)と書いてある通りです。

 罪を赦すイエス…しかしここで、「彼らの信仰を見て」(ルカ5・
20)とあるように、中風の人や友人たちは主イエスを信じていた
のです。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われた
のです。」(エペソ2・8)とあるように、主イエスを信じる者は
救われます。ここで大切なのは、主イエスご自身が「罪を赦す権
威を持っている」(ルカ5・24)ことなのです。信仰とは、その主
イエスを救い主として信じることで、罪の赦しと神の子とされる
喜び、永遠のいのちの希望という救いを得ることです。

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今週の御言葉 2015年8月2日

2015-08-03 17:46:53 | 今週の御言葉

 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々
から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうと
している人々をも入らせません。
                    マタイの福音書 23章13節

 わざわいだ(13、14、15、16、23節)…マタイの福音書23~25章
には、マタイの福音書における主イエスの最後の説教が記されて
います。そして、同じマタイの福音書の5~7章の山上の説教と
対比することが出来ます。山上の説教の冒頭には、8回繰り返し
て「~は幸いです」とありますが、23章13~29節には8回繰り返
し「わざわいだ」と記されています。キリスト者が主の心を心と
して地の塩、世の光として生きるとき、周囲の人々に対し祝福と
慰めの言葉と行動をとるとともに、主が喜ばれないことに対し、
毅然とした言葉や態度をとるべきこともあるのです。


 偽善(13、14、15、23節)…ここで主が語られている律法学者や
パリサイ人の偽善とは、周囲の人々の目をごまかそうとして、か
えって見破られてしまうようなものではありません。周囲の人々
はもちろんのこと自分自身も心底から何もやましさを感じない、
その人の本性となっている偽善です。それは、罪の闇の中にいる
者には自分の汚れがわからないからです。そのことは、自分の思
いや周囲の人々にどう思われるか、といった自己満足や周囲の評
価を気にする生き方に端的に現れます。


 目の見えぬ(16、17、19、24節)…偽善に満ちた者に主を見るこ
とはできません。しかしどんな人でも、迫害者サウロが宣教者パ
ウロに変えられたように、復活の主イエスと出会うとき、霊の目
が開かれて主の心を心とした生き方へと変えられるのです(使徒
9章1~20節)。主イエスは私たちを裁くためではなく、救うた
めに世に来られました。主イエスを信じるとき、隠れた所で見て
おられる神を見る霊の目が開かれ、主に在る確かな価値観をもっ
てゆるぎない確信と喜びに満ちた歩みが始まるのです。

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