主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛を
いけにえとしてささげた。ダビデは、主の前で、力の限り踊った。
(サムエル記第二 6章13~14節)
失敗に学ぶ(1~13節)…ダビデはイスラエルの王となったとき、
新しく都としたエルサレムに、神が共におられることを象徴する
契約の箱を運び入れようとします。その動機は信仰的かつ純粋な
ものでしたが、まず最初に運ぶときは牛に引かせるという、あろ
うことかペリシテ人のやり方で行います。それゆえ、いくら彼と
イスラエルの民が喜び歌い踊ろうとも、ついに途中で神の怒りが
発せられたのでした。そのことを反省してダビデは次の機会には
律法の教えを忠実に守り、祭司たちが契約の箱をかつぐよう改め
ました。信仰とは、最初から完成されたものではありません。動
機は純粋でも失敗や過誤を通して悔い改めながら、深められ広げ
られて、成長していくのです。
礼拝の心(13~17節)…悔い改めは、必ずその人の行いや言葉の
変化となって外側にあらわれます。この折のダビデの場合、最初
に契約の箱を移す際はいきなり賛美と踊りが始まりましたが、二
回目のときには、契約の箱が動き始める際に、いけにえを献げる
ことを通し、神への礼拝を行いました。もちろん賛美もまた神を
崇めるものです。しかし、時として賛美が神を崇めることが中心
にあるよりもむしろ、自分自身の感情の発露のほうが重きをなし
てはいないでしょうか。ダビデはあくまでもここで、神様が主で
あり中心であることをいけにえを献げる礼拝を通して示し、その
うえで再び、喜びの賛美と踊りを力いっぱい献げたのです。
喜びを分かち合う(18~23節)…ダビデは、力いっぱい主を賛美
し踊ることで神への感謝と喜びをあらわすと共に、人々や家族に
も祝福を分かち合おうとしました。礼拝する者は思いやりの心を
持ちます。なぜなら、神は愛だからです(マルコ12章28~34節)。