沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週(2012年4月22日)の御言葉

2012-04-23 10:57:58 | 今週の御言葉

わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかっ
たら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、
わたしは場所を備えに行くのです。 (ヨハネの福音書14章2節)

 父の家こそが居場所…「あなたがたのために、わたしは場所を
備えに行く」と語った主イエスについて、そのご降誕は次のよう
に記されています。「男子の初子を産んだ。それで、布にくるん
で、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったか
らである」(ルカ2・7)と。主イエスには地上の生涯で、枕する
ところすらありませんでした(ルカ9・58)。私たちの罪のために
十字架にかかり、3日目に復活され今も共にいる主イエスのふと
ころに、私たちの居場所があります。
 父の家には、多種多様な人々が集まる…主イエスは「わたしの
父の家には、住まいがたくさんあります」と語りました。すなわ
ち、父なる神はふところの深い方ですから、私のようなものを受
け入れるだけでなく、そこには考え方や経験の違いをはじめ、実
に大勢の多種多様な人々が集まるのです。それはまた、キリスト
のからだである地上の教会もまた同じです。互いの違いを摩擦の
火種ではなく、心を広げる糧としすることが主のはからいです。
 父の家に呼び集められた私たち…「あなたがたをわたしのもと
に迎えます」(ヨハネ14・3)とは、究極には天の御国へ私たちが
死を越えて凱旋することです。と同時に、私たちが主イエスを信
じて神の家である教会へ結びついたのも、主イエスの招きである
ことを忘れてはいけません(マタイ20・1~16)。そして主に招か
れた者として、この救いの喜びを周囲の人々に証ししましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週(2012年4月15日)の御言葉

2012-04-19 16:06:51 | 今週の御言葉

話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が
近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
                           (ルカの福音書 24章15節)

 主イエスご自身から近づき、ともに歩んでくださる…主イエス
が復活された日、主の弟子であったクレオパともう一人は、主が
葬られた墓が空になっている事実に驚き論じながら、エマオへの
道を歩いていました。彼らが主の復活を信じていなかったことは
「暗い顔つき」(17節)からもわかります。話し合うことは大切で
すが、信仰の創始者であり完成者である主イエスから目を離した
議論は、かえって解決を遠ざけ、心も顔も暗くする不毛なもので
す(マルコ9・14~29)。しかし、鈍いクレオパたちに主イエスは
近づき歩調をあわせともに歩いてくださいました。
 主イエスはみことばを説き明かしてくださる…27節の「説き明
かされた」は、直訳すると「翻訳する、通訳する」という意味が
あります。すなわち、聖書のみことばは、知識として理解するだ
けは無味乾燥なものであり、祈りつつ主イエスの語りかけを聴く
心で読むことが大切です。また何より、聖書を健全に読み解く智
恵と心を得るためにも、御言葉が具体的に説き明かされる礼拝や
諸集会へ参加することが大切です(使徒8・26~38)。
 心にともに居てくださる主イエス…「イエスだとわかった。す
るとイエスは、彼らには見えなくなった」(31節)とは不思議です。
しかしここには、主イエスの存在がなくなった、とは書いてない
のです。すなわち身体の目では見えなくなった主イエスは、霊と
して信じる者の心に宿り、常に心を燃やして下さるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の御言葉(2011年4月8日)

2012-04-10 14:48:56 | 今週の御言葉

しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・
 キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
          (コリント人への手紙第一 15章57節)

 死からの勝利…「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さ
る賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちで
す。」(ローマ6・23)とあるように、人は創造主である神様から
離れ罪を行い、死を得ました。しかし、救い主イエス・キリスト
の十字架と復活には、信じる者に対して永遠のいのちを与えます。
まさに「死は勝利にのまれた」(Ⅰコリント15・54)のです。
 罪の力の勝利…「私たちの古い人がキリストとともに十字架に
つけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれから
は罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6・
6~7)とみことばに宣言されているように、誰でもキリストを
信じてそのうちにあるなら、過去の罪の赦しとともに罪の力や束
縛からも解放され全てが新しくされるのです(Ⅱコリント6・17)。
いつまでも恐れにとらわれることなく、いつもともにいてくださ
る主イエスとともに喜びと感謝の道を歩みましょう。
 敵からの勝利…「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、
主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろ
もろの悪霊に対するもの」(エペソ6・12)ですが、救い主はまた
十字架と復活によって、あらゆる悪の力に対し圧倒的な勝利を得
られました。そして、「神はいつでも私たちを導いてキリストに
よる勝利の行列に加え」(Ⅱコリント2・14)て下さるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週(2012年4月1日)の御言葉

2012-04-04 16:00:28 | 今週の御言葉

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しくだ
さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
                   (ルカの福音書23章34節)

 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分
でわからないのです(34節)…このことばは、十字架上のことばの
なかで最初に語られたものです。人間の罪の恐ろしさは、自分が
犯した罪の大きさがわからないところにあります。そのような自
分の罪に対して鈍感な私たちのため主イエスは十字架にかかり、
今もとりなしています(ローマ8・34)。
 まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしととも
にパラダイスにいます(43節)…誰もが神の恵みにより、主イエス
を信じるとき救われる、これが聖書に一貫されている神様のメッ
セージです。そしてその代表例ともいうべき人物が、主イエスと
ともに十字架につけられた者のひとりでした。自分の行った犯罪
のゆえに十字架につけられた者ですが、主イエスは彼の信仰に対
し、パラダイスでの永遠のいのちを約束されたのです。
ちの救いのために御子イエスを世に遣わすほど私たちを愛される
神様のみこころが、人生に実現するのを求め続けることです。
 父よ。わが霊を御手にゆだねます(46節)…これは、十字架上で
の七つの言葉の最後であり、同時に、イスラエルの子どもたちが
一番最初におぼえる、寝る前に捧げるお祈りの言葉でした。主は
十字架という極限状況でも、父なる神様への絶対的な信頼を失い
ませんでした。それは神様のみこころに従い、私たちの救いのた
め十字架にかかることが、喜びだったからです(ヘブル12・2)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週(2012年3月25日)の御言葉

2012-04-04 15:59:06 | 今週の御言葉

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じた
ら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人は
いったい何を差し出せばよいのでしょう。(マタイの福音書16章26節)

 だれでもわたしについて来たいと思うなら(24節)…この24節の
みことばを別の日本語訳聖書では「わたしの後ろからついてきた
いと思うなら」と訳しています。すなわち、主イエスを信じると
は主イエスの後からついていくこと、と言えます。右に行くにも
左に行くにしても、私たちに先立って導いてくださる主イエスに
後ろから従うこと、これが聖書の教える信仰です。
 自分を捨て、自分のの十字架を負い、そしてわたしについて来
なさい(24節)…自分を捨てるとは、言うまでもなく自分中心な願
いや欲望を捨てなさい、ということです。信仰は決して、自己実
現や自己表現のための手段ではありません。少なくとも聖書は、
主イエスを信じていれば何でも自分の思い通りになる、とは教え
ません。聖書の教える信仰とは、天地万物の創造主であり、私た
ちの救いのために御子イエスを世に遣わすほど私たちを愛される
神様のみこころが、人生に実現するのを求め続けることです。
 まことのいのちを(26節)…まことのいのち、それは生き甲斐で
あり、希望であり、充実した日々や平安、感謝、喜びでしょう。
また、自分に対する健全な誇りと謙虚な自信です。そして、自分
自身を受け入れることができず、心が満たされない者に、他者を
愛し、受け入れることは出来ません。人が人として真に持つべき
このいのちは、私を愛し救ってくださる主イエスを聖書が教える
信仰で信じるときに、私たちのうちに満ちるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする