沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉 2014年2月23日

2014-02-26 19:46:24 | 今週の御言葉

 そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむこ
とのない栄光の冠を受けるのです。
              ペテロの手紙第一 5章4節

 栄光…神さまが信じる者に授けてくださる「栄光」とは、何で
しょうか。第一ペテロ5章では、次の三つの点が挙げられます。
 いまだ見ぬ(まだ得られていない)もの(1節)ー主イエスを信じ
る者が永遠のいのちに与るとき、罪の汚れが一つもない、主の復
活の姿と同じに変えられる希望です(ピリピ3章1~14、21節)。
 永遠に朽ちることのないもの(4節)ー永遠のいのちは、「銀や
金のような朽ちる物」(Ⅰペテロ1章18節)ではなく、「キリスト
の尊い血」(19節)によって与えられます。主の十字架は神の栄光
の表れであり(ヨハネ12章23~28節)、その救いは永遠に不変です。
 キリストにあって得られるもの(10節)ー第一ペテロの手紙は、
厳しい迫害の中にあるクリスチャンを励ます目的で記されました。
それゆえ、主イエスも苦難を体験したことが強調され、と同時に、
主にあって苦難を耐え忍ぶ者こそキリストの栄光が与えられるこ
とが語られています(1章4~21節、4章12~14節)。
 冠…4節の「冠」は元々は古代オリンピックの勝者に与えられ
た月桂冠を指しましたが、次の三つの意味があります。
 永遠の勝利ー使徒の働き7章で最初の殉教者となったステパノ、
その名の意味は「冠」(ギリシャ語でステファノス)です。死に至
るまで忠実な者には天でいのちの冠があります(黙示録2章10節)。
 喜びの冠ー主を信じる者に、この冠は分け隔てなく与えられま
す。全ての主を信じる者に喜びがあるのです(イザヤ35章10節)。
 冠を投げ出すときー私たちが戴冠するのは、救って下さった神
の栄光が表れるためです。それゆえ、神様を礼拝する際には、ひ
れ伏してしもべの姿となるのは当然です(黙示録4章10~11節)。

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今週の御言葉 2014年2月16日

2014-02-20 15:51:38 | 今週の御言葉

 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。
                マタイの福音書 11章6節

 獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは(マタイ11・
2)…このヨハネとは、バプテスマのヨハネのことで、国主ヘロ
デの不倫を厳しく非難したため、捕えられ獄中にいました(マタ
イ14・3~4)。主イエスの福音に敵対する力が働くところでは、
単に主イエスの教えに反目するだけでなく、福音以外にもあらゆ
る異論や違った考えを封じたり、ときには暴力的に排除しようと
します。それは自己中心という罪のゆえであり、それこそがあら
ゆる罪の根本なのです。
 あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていること
をヨハネに報告しなさい(マタイ11・4)…これは、「おいでにな
るはずの方は、あなたですか。」(マタイ11・3)というバプテス
マのヨハネの問いに対する主イエスの答えです。主は続けて、
「目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒さ
れた者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、
貧しい者たちに福音が宣べ伝えられられている。」(マタイ11・5)
とイザヤ書35章5、6節と61章1節の預言が成就したことも、教
えています。証しとは実に、自分が体験した主の御わざを周囲の
人々に報告することです(使徒4・20、Ⅰヨハネ1・1~3)。
 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです(マタイ11・6)…
バプテスマのヨハネは主を事前に人々へ紹介する先触れであり、
(マタイ3・1~12)、イエス様こそ救い主であるとよく知ってい
ました(ヨハネ1・29、36)。その彼でさえ戸惑うほど、主の福音
は人知をはるかに越えるものでした。そして、人は誰しもつまづ
くものです(マタイ26・31~35)。そして、つまづいた者さえ救い、
神の器に作り変えるのが主イエスの福音です(ルカ2・31~34)。

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今週の御言葉 2014年2月9日

2014-02-10 11:47:08 | 今週の御言葉

 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。ま
た、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れる
のです。         マタイの福音書 10章40~42節

 あなたがたを受け入れる者は(40~41節)…「受け入れる」との
ことばが、40~41節には6回繰り返されています。私たちは生ま
れたときから信仰者である人は誰もいません。教会に来るきっか
はそれぞれですが、みな主イエスに受け入れられて救われ、そ
して教会の交わりに受け入れられることで、信仰の養いを受け
クリスチャンとして成長しました。それゆえ、私たちもまた、これ
から救いを求める人々を交わりに受け入れていくことが大切
です。主イエスもまた、今いる人々とは別の人々もまた群れに
に導き、一つの群れとする(ヨハネ10・16)と語りました。主の
弟子とは、主の御名のゆえに自分とは違う小さな存在であって
も受け入れる者でしょう(マルコ9・36~37)。
 小さい者、義人、預言者(41~42節)…また主イエスは、弟子の
三つの特色として、小さい者、義人、預言者を示しす。
 小さい者…主の弟子は自分の力や才能により頼まず、主イエス
の前にへりくだるたましいの持ち主です(詩篇51・17)。ペテロは、
実はその模範的な人物なのです(ルカ5・8、マタイ26・75)。
 義人…主イエスの十字架の救いを信じる者が義とされます(ロー
マ3・21~30、8・30~33、10・10~11)。
 預言者…預言者とは、みことばを宣べ伝える者のことです(Ⅰコ
リ12・27~28)。使徒の働きに登場する信徒ピリポのように、福
音を証しする者を通し主は働かれます(使徒8・4~40)。
 弟子を通して表される主の光栄(42節)…弟子は主イエスにより
遣わされ(マタイ10・40)、主は遣わされた者と一体です。今も主
は、私たちを用いて人々を救いに導いてくださるのです。

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今週の御言葉 2014年2月2日

2014-02-04 17:03:28 | 今週の御言葉

 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふ
さわしい者ではありません。
 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのた
めに自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
              マタイの福音書 10章38~39節

 主イエスの十字架と私たちが担う十字架の違い…主イエスが負
った十字架と私たちが負うべき十字架は、その意味が違います。
主イエスの十字架は、罪と全く関係のない神の御子が、私たちを
愛して救うために担ってくださったものです。私たちがどんなに
重い十字架を担おうとしても、その努力では私たちの罪は赦され
ません。主イエスの犠牲がなければ赦されないほどに、私たちの
罪は重く大きいのです(エペソ2・1~8)。
 自分の十字架を負う…と同時に、主イエスを信じ救われた者に
は、それぞれが負うべき十字架があります。それは、どのような
時にも主イエスを信じ、神さまの導きに従って生きることです。
神を第一とした人生の選択をしていくとき、主は試練の中にこそ、
大いなる恵みに通じる道を備えられます(へブル11・17~19)。す
なわち、信仰とはどのような時にも私の救いのため主イエスを十
字架にかけくださった神様の最善を信じることなのです(ローマ
5・6~11)。
 主は自分の十字架を負う者と共におられる…主イエスご自身が
クリスチャンとしてふさわしい者と認める人とは、いかなるとき
にも主を第一とし主に信頼して歩む者です(ダニエル3・13~30)。
金銭をはじめ地位や名声などこの地上のものにすがるのではなく、
主を純粋に信頼する者に対し、主は「わたしは決してあなたを離
れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13・5)と断言します。
ちっぽけな自分の力ではなく、十字架の主をより頼みましょう。

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