【罪からの救い】
主は人がいないのを見て、
とりなす者がいないことに唖然とされた。
それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
ご自分の義の支えとされた。
イザヤ書59章16節
人の本性(1~8節)…聖書は、まことの神は創造主であり聖なるお方であると宣言しています。そして、聖なる神の御前に出るとき、全ての人が罪びとであることも示しています。人の底知れぬ罪深さ、それは「手」と「指」も、「唇」と「舌」も、「足」や「思い」に至るまで、身も心も存在そのもの全てが罪に汚れていることがあばかれているです(3~8節)。 それゆえ、人は自力であれ他の人の力であれ、人の力では決して創造主である聖なる神に近づくことすらできません。ましてや、救いは論外なのです。
救いの渇望(9~15a節)…しかし、聖なる神はまた、愛の神でもあると聖書は教えます。それは神が愛に満ちているという以上に、愛そのもののお方なのです。それゆえ、愛である神は、罪の泥沼に沈む者を救うため、私たちに救いへの深い渇望を与えてくださいます。それが、神を信じる前から私たちの心に働きかける御聖霊の働きです(Ⅰコリント12章3節)。 神は世を切り捨てるお方ではなく、全ての人の救いを望んでいます。
神による解決(15b~21節)…しかし、人の力では救いを得ることはできません。それゆえに神は御子イエス・キリストを世に与えてくださいました。すなわち、キリストが私たちの罪を負って十字架で神の裁きを受けたのでキリストを信じる者は罪が赦されしかもキリストは十字架の三日後に死に勝利して復活されたのでキリストを信じる者もまた永遠のいのちを持つのです(16節)。 そしてキリストを救い主と信じる者はこの喜びを周囲の人々に伝え、キリストのからだである教会での礼拝と祈りを大切にします。