沼津シオン・キリスト教会

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今週の御言葉  2019年9月29日  イザヤ書59章1~21節

2019-09-30 14:58:38 | 今週の御言葉

 【罪からの救い】   

 主は人がいないのを見て、
 とりなす者がいないことに唖然とされた。
 それで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
 ご自分の義の支えとされた。
             イザヤ書59章16節

 人の本性(1~8節)…聖書は、まことの神は創造主であり聖なるお方であると宣言しています。そして、聖なる神の御前に出るとき、全ての人が罪びとであることも示しています。人の底知れぬ罪深さ、それは「手」と「指」も、「唇」と「舌」も、「足」や「思い」に至るまで、身も心も存在そのもの全てが罪に汚れていることがあばかれているです(3~8節)。  それゆえ、人は自力であれ他の人の力であれ、人の力では決して創造主である聖なる神に近づくことすらできません。ましてや、救いは論外なのです。

 救いの渇望(9~15a節)…しかし、聖なる神はまた、愛の神でもあると聖書は教えます。それは神が愛に満ちているという以上に、愛そのもののお方なのです。それゆえ、愛である神は、罪の泥沼に沈む者を救うため、私たちに救いへの深い渇望を与えてくださいます。それが、神を信じる前から私たちの心に働きかける御聖霊の働きです(Ⅰコリント12章3節)。  神は世を切り捨てるお方ではなく、全ての人の救いを望んでいます。

 神による解決(15b~21節)…しかし、人の力では救いを得ることはできません。それゆえに神は御子イエス・キリストを世に与えてくださいました。すなわち、キリストが私たちの罪を負って十字架で神の裁きを受けたのでキリストを信じる者は罪が赦されしかもキリストは十字架の三日後に死に勝利して復活されたのでキリストを信じる者もまた永遠のいのちを持つのです(16節)。  そしてキリストを救い主と信じる者はこの喜びを周囲の人々に伝え、キリストのからだである教会での礼拝と祈りを大切にします。

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今週の御言葉 2019年9月22日 イザヤ書58章1~14節

2019-09-21 16:44:56 | 今週の御言葉

【いのちのパンと世の光】

 そのとき、あなたの光が暁のように輝き出て、
 あなたの回復は速やかに起こる。
 あなたの義はあなたの前を進み、
 主の栄光があなたのしんがりとなる。 
                 イザヤ書58章8節

 イザヤ書58~66章はイザヤ書の締めくくりであり、この世の終末(キリストの再臨)の預言が記されています。その終末の預言は、主の栄光と主を信じる者に注がれる永遠の祝福が強調されています。この58~66章での鍵となることばは「(主の)栄光」です。
 今朝はイザヤ書58章を開きますが、1~5節では偽善に対する神の叱責の言葉が記されています。「断食」(3、4、5、6節)とは、祈りのことです。断食をするほどに祈りの熱心さを表しても、生活が自分勝手であれば、その祈りは神に届きません。
 しかし、創造主である神は愛に満ちています。6~14節において、私たちの心が砕かれ謙虚にへりくだって神を求めるならば、神は豊かに祝福してくださることを示しています。

 いのちのパン(6~7節)…「飢えた者にあなたのパンを与え」(7節)とありますが、「いのちのパン」(ヨハネの福音書6章35、48、51節)である救い主キリストを人々に伝えることができるのは、教会でありクリスチャンだけです。救いの喜びを感謝し、キリストを伝えるために外へ一歩を踏み出すことが祝福の鍵です。

 まことの光(8~12節)…主イエスは福音を伝える者とともにいて力強く働きます(マルコ16章15~20節)。主は「世の光」であり「いのちの光」(ヨハネの福音書8章12節、1章4~5節)です。主イエスがともにいる人は、どこでも主の光に輝くのです。

 安息日の祝福(13~14節)…この素晴らしい救い主イエス・キリストを礼拝し交わるために安息日があります(マルコ2章27~28節)。主を慕って礼拝する者を主も喜び、恵みの上に恵みを注がれます。

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今週の御言葉 2019年9月15日 サムエル記第一17章17~51節

2019-09-14 15:55:03 | 今週の御言葉

この戦いは主の戦いだ】

 ここに集まっている全ての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。  
                                                           サムエル記第一 17章47節

 イスラエルの最初の王であるサウルが治めていた時代は、絶えず強敵ペリシテ人との戦いがありました(Ⅰサム14・52)。なかでも巨人ゴリヤテ(身長2・7m!)と、血色の良い姿の美しい少年ダビデ(Ⅰサム17・42)の戦いは、広く世に知られています。
 たったひとりで勇敢に戦ったダビデの勝利の鍵は、その戦いが「主の戦い」であるとの意識にありました。その場にはダビデ以外にも多くの戦士がいましたがみな、ゴリヤテから逃げ恐れるばかりでした(Ⅰサム17・24)。そのなかでダビデだけが、ともにおられる全能の主を信仰の目でとらえていたがゆえに、「この戦いは主の戦いだ」と宣言して果敢に戦い、勝利したのです。
 私たちも人生の様々な戦いの中で、ともにいてくださる主を意識してさえいれば見える景色が変わります。主を絶えずとらえている人は、ダビデのように次のものを心に持ちます。

 戦う気力がある…イスラエルの軍勢にはゴリヤテと一騎打ちをする者はいませんでした。しかしダビデは、「このしもべが行って」(Ⅰサム17・32)と立ち向かう気力を信仰により得ていました。

 勝算がある…ダビデが戦うことへの批判や否定的意見は、味方であるイスラエル、しかも肉親や王から湧きあがります(Ⅰサム17・28、33)。しかしダビデには、あらゆる難敵にも主が勝利を与えて下さった経験による確信がありました(Ⅰサム17・34~37)。

 動機がある…ゴリヤテもイスラエルの兵士も戦う動機は自分の出世や手柄のためでした。しかしダビデは主のために戦いました(Ⅰサム17・26、36、46、47)。動機が聖い者を主は重く用います。

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今週の御言葉 2019年9月8日 イザヤ書57章15~21節

2019-09-07 19:49:09 | 今週の御言葉

 【聖なる神】

 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、
 その名が聖である方が、こう仰せられる。
 「わたしは、高く聖なる所に住み、
 砕かれた人、へりくだった人とともに住む。
 へりくだった人たちの霊を生かし、
 砕かれた人たちの心を生かすためである。」
                  イザヤ書57章15節

 神は聖なる方(15節)…イザヤ書では創造主である神を「聖なる方」と繰り返し表現しています。これは、イザヤ自身の体験が大きく影響されています(イザヤ書6章1~8節)。
 私たちもまた、神様をどのようなお方として受けとめているかによって、信仰の姿勢や生きざまが大きく変わります。創造主である神様のきよさを徹底的に思い知らされる体験をした人ほど、自分のどうしようもない罪深さや汚れもまた知るのです(ヨブ記42章1~6節)。

 神は罪を赦し、嘆きと悲しみを癒す方(16~18節)…罪を心に抱いたままでは、どんなに美しい景色を見ても、心には灰色にしか映りません。また理不尽な苦痛を科せられて深い悲しみを抱えたままでは、どんなにあたたかな言葉をかけられても、心は空しいだけです。
 しかし、神はそのような私たちを愛して、キリストの十字架の受難を通して救いの道を開いてくださいました(イザヤ書53章1~12節)。誰でも、キリストを信じるなら救われます。

 神は平安を与える方(19~21節)…キリストを信じるとき、神は罪の赦しと心の傷の癒しとともに、たましいの平安を与えます。それは、本来の人間の姿である神の子どもとしての立場を回復して聖い神様と同じ永遠のいのちを得て、罪に対する神の裁きの恐れから解放されるからです。
 そして、祈りと御言葉を通して神と親しく交流する喜びや、ますます神の赦しの素晴らしさと神が人生を導いてくださることを知り、平安が満ちるのです(イザヤ55章6~13節)。

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今週の御言葉 2019年9月1日 イザヤ書56章1~8節

2019-09-01 17:40:47 | 今週の御言葉

 【祈りの家で楽しませる】

 わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。
                   イザヤ書56章7節

 全ての人に開かれた救い…冒頭の御言葉にある「彼ら」とは、「異国の民」(イザヤ56章3、6節)であり、「宦官」(イザヤ書56章3、4節)です。旧約聖書においても、主を愛してその教えに聞き従うならば、どのような生い立ちや生き様をしてきた者でも救われることが、明確に示されています。
 そして、天の父である神の愛は今も全ての人に注がれ、御子である救い主イエス・キリストを信じる者は誰でも救われて、神の子どもとなる特権が与えられるのです。

 安息日を守る喜び…「幸いなことよ。安息日を守って、これを汚さず」(イザヤ56章2節)に始まり、イザヤ書56章1~8節には安息日を守る大切さが3回繰り返されています(2、4、6節)。
 創造主である神は、天地万物を創造された後の7日目に休みました(創世記2章1~2節)。神のかたちとして創造された私たち人間(創世記1章26~27節)もまた、身体を休ませることはもちろんのこと、心とたましいのメンテナンスと養いのため神の前に出て静まるため、礼拝や日々の生活の中での静聴のとき(聖書の御言葉に触れ、祈りを介して神と交わる)を獲得することが大切です。
 神の前に安息を得る人は、心に生ける水の川の源である御聖霊が宿り、神に似ていきいきと明るく創造的な生き方をします。

 祈りの家で神との交わりを楽しむ…なぜ神は「わたしの家はあらゆる民の祈りの家」(イザヤ56章7節)と語られたのでしょうか。それは祈りは神と交わる手段であるからです。  そして、神との交わりほど私たちのたましいを潤し、心を楽しませることはありません。平安も希望も喜びも慰めも全て、神との交わりにあります。

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