沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉 2015年6月28日

2015-06-29 16:07:47 | 今週の御言葉

 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
                     ルカの福音書 5章38節

 新しいぶどう酒…「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」とは、日
常生活でも耳にするほど日本語として定着しています。さて、実
際の新しいぶどう酒は発酵し膨張するものです。これは、生きて
新しい性質を私たちに与える、主イエスの福音やみことばをたと
えています。それに対し、やはり発酵し膨らむものにパン種があ
ります。ところが、主は「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。
それは彼らの偽善のことです。」(ルカ12・1)と語ります。これ
はパン種は粉を膨らませても性質は新しく変えないからです。け
れども、ぶどう酒が発酵と膨張をすることで良いぶどう酒へと性
質を変えるように、福音は信じる者の心に良き変化を与えます。

 新しい皮袋…皮袋の古い、新しいは時間のことだけでなく、皮
に弾力的な張りがあるかないかということです。新しい皮袋には
柔軟な弾力性があるゆえに、膨張し続ける新しいぶどう酒の力を
受けとめて皮袋そのものも変化します。ちょうど花婿に付き添う
友だちが花婿と心を一つにし喜びを共有するように(ルカ5・34~
35)、皮袋も中身のぶどう酒と共に変えられていくのです。私た
ちの心や存在も、主が内に入られるとき変えられるのです。

 古いぶどう酒…人の心は得てして慣例や習慣から離れることを
嫌がり避けます。主が「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新
しい物を望みはしません。」(ルカ5・39)と語ったのも、古い律
法に固執して主の教えに素直に心を開かないパリサイ人たちの姿
(ルカ5・33)を言い表しています。しかし私たちは、主の教えを
都合よく解釈したり部分的に受け入れるのでなく、主の十字架と
復活を信じ、主ご自身を心の中心に迎えて人生の主導権を明け渡
すとき、たましいの抜本的な変化が始まります。すなわち、栄光
から栄光へと主と同じ姿に変えられるのです(Ⅱコリント3・18)。

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今週の御言葉 2015年6月21日

2015-06-22 16:05:12 | 今週の御言葉

 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、
知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつ
な第一の戒めです。」    
                 マタイの福音書 22章37~38節


 あなたの神である主を愛せよ(37節)…主イエスは他の誰でもな
い、この私のために十字架にかかっていのちを捨て、復活されて
永遠のいのちを与えてくださり、いまこの時も偕にいてくださる。
そこまで主に愛されていることを頭で理解し、心で体験し、たま
しいの奥深くに感じるとき、私もまた主を愛するのは当然なこと
です。その主への愛の表し方は十人十色であっても、その動機は
純粋なもので、言葉は建徳的であり行いは自己犠牲を当然とし、
何より表情や態度は喜びと感謝に溢れた明るいものでしょう。な
ぜなら、主の愛がそのようなものだからです。


 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ(39節)…自分自身を
健全に受け入れることが出来なければ、他者を受容することも難
しいでしょう。健全に自分を受け入れるとは、当然のことながら
我がままに生きることではありません。たとえば他人と自分では
ものの見方やある出来事への対応が違って当然ですが、ともすれ
ば他人の行動や言葉に対し批判が多いとすれば、それは自分に悪
い意味で自己愛が強いか否かを吟味する機会となります。健全に
自分を愛するとは、自分は罪人のかしらであるが主の十字架によ
り罪を赦され神の子どもとされた、という謙虚さから始まります。
そして謙虚な人は他者への寛容さと慈しみの心を持つのです。

 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっている(40節)
のです…「この二つの戒め」には、信仰の在るべき姿もまた示さ
れています。すなわち信仰とは、神様と自分との関係、人と自分
との関係の中にいきるものだということです。礼拝を捧げること
で神様と親しく交わり、老若男女の違いなく周囲の人々と親しく
交わるとき、主にある愛と信仰がさらに輝いていくのです。

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今週の御言葉 2015年6月14日

2015-06-16 15:21:40 | 今週の御言葉

 復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御
使いたちのようです。     
                  マタイの福音書22章30節


 復活はないと言っているサドカイ人たち(23~28節)…サドカ
イ人とはユダヤ人の中で富裕層に支持されていたグループです。
パリサイ人とは事あるごとに対立し、どこかの集団の派閥ではあ
りませんが、サドカイ派VSパリサイ派という構図でした。そのサ
ドカイ派の人々が、主イエスに申命記25章5~10節を持ち出して
質問してきます。しかしそもそも、「復活はない」と言っている
ことに問題があるのです。主イエスを救い主と信じる者は、罪の
赦しと死者の復活を信じます(Ⅰコリント15・12~29)。

 思い違いをしている(29~30節)…「思い違い」ということばは
間違った道にそれている、という意味があります。実際、サドカ
イ人たちは主がどのように応えたとしても、最初から自分たちの
考えを変える気はありませんでした。質問のための質問であり、
主を陥れるための罠でした。それゆえ、彼らの問い自体に欠陥が
ありました。すなわち、復活した後の世界が今の世と変わらない
結婚をはじめとする社会生活があると思い込んでいたのです。そ
れゆえ、主は彼らの問いを「聖書も神の力も知らないからです。」
(29節)と一刀両断にしています。私たちも主に祈るとき、最初か
ら思い込みや身勝手な願望で答えを決めつけてはいけません。
主は神であり、私たちの願いと違う答えをするのも当然です。

 生きている者の神(31~32節)…「わたしは、アブラハムの神、
…生きている者の神です。」(32節)とは、出エジプト記3章6節
の引用です。アブラハムたちをその信仰により生かし用いた神は
永遠の存在です。そして、創造主である全能の神と信仰によって
結ばれるとき、私たちも復活のいのちにあずかり、永遠に生きる
者となります。ここに希望があります(Ⅰコリント15・42~58)。

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パンケーキ パーティ!!

2015-06-08 09:46:27 | 特別行事・集会

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今週の御言葉 2015年6月7日

2015-06-08 09:36:01 | 今週の御言葉

 イエスは彼らの悪意を知って言われた。「偽善者たち。なぜ、
わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」
そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。そこで
彼らに言われた。「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」
彼らは、「カイザルのです」と言った。そこで、イエスは言われ
た。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そし
て神のものは神に返しなさい。」 
                 マタイの福音書22章18~21節

 なぜ、わたしをためすのか…主イエスを「ことばのわなにかけ
よう」(15節)としたのは、「パリサイ人たち」(15節)と「ヘロデ
党の者たち」(16節)でした。両者は律法至上主義と世俗主義
者であり犬猿の仲でしたが、主を陥れるためなら手を組むとは、
人の心の闇の底知れなさを感じます。そして今も、悪魔は私たち
を底知れぬ罪の深みに引きずり込もうと、誘惑や試みの火矢を
放つことをおぼえ、信仰に堅く立ちましょう(エペソ6・16)。

 カイザルのものはカイザルに…「税金をカイザルに納めること
は、律法にかなっていることでしょうか。」(17節)とは、主イエ
スを追い詰めるため考え抜かれた質問でした。納税を認めれば、
ユダヤ人たちに対し神の権威を冒涜していると訴え、否定するな
ら、ローマ総督に反逆を企てていると訴えられるからです。しか
し主は、まず社会に属する者としての義務を果たすことを否定し
ませんでした。それどころか、社会に生きる者としての義務と働
きを積極的に果たすよう、教えています(マタイ5・41)。

 神のものは神に返しなさい…と同時に主は、社会の営みを超越
して存在する神を畏れ敬うように命じます。通貨にはカイザルの
肖像が刻まれていますが、私たち人間は「神のかたち」が刻まれ
た存在だからです(創世記1・27)。私たちが持つ神のかたちとは、
たましいであり永遠のいのちです(マタイ10・28)。この世のこと
ばかりに心を奪われ、永遠のいのちを失ってはいけません。

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