沼津シオン・キリスト教会

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今週の御言葉 2019年3月31日 イザヤ書30章15~22節

2019-03-31 08:39:29 | 今週の御言葉

【神に立ち返る幸せ】

 イスラエルの聖なる方、神である主は
 こう言われた。
 「立ち返って落ち着いていれば、
  あなたがたは救われ、
 静かにして信頼すれば、
 あなたがたは力を得る。」
            イザヤ書30章15節

 立ち返って(イザヤ30・15)…人が神のもとに「立ち返る」ことを、聖書は「悔い改め」とも表現します。そもそも「悔い改め」とは、方向転換を意味します。すなわち、今までは創造主である全能の神に背を向けて、自己中心に生きてきた者が、まことの神に立ち返ることが、悔い改めなのです。
 すなわち罪とは、まことの神を認めない人間が持つ傲慢さのことなのです。創造主を受け入れない人間はどんなにうわべを取り繕っても、わがままな本性を隠せません。その姿を赤裸々に描くのが、主イエスが語った放蕩息子のたとえ(ルカ15章11~24節)です。

 恵みを与えようと待っておられる主(イザヤ30・18)…創造主は、人をご自身のかたちに似せて造られました。やはり神が造られた他の動植物と違い、人間だけには神と同じ自由意志が与えられていることを示します。
 それゆえ、人は神に従うか否定するかを決断する自由と責任があるのです。神を否定する生き方は、罪の束縛と悲しみに捕らわれます。しかし、主イエスの救いを信じる者は罪から解放され、神の子どもとなるのです。

 主は信じて従う者を導く(イザヤ30・20、21)…主イエスを信じて救われた者は、罪の赦しと永遠のいのちの希望を得ることはもちろんのこと、日々の歩みを主ご自身が導いてくださいます。
 具体的には、求める者のうちに御聖霊がくださり、自己中心な心をきよめて愛の実を豊かに結ぶのです。具体的には、人との関わりで、憎しみや怒り、高慢や自己卑下から解放され、人を生かし世のために生きる、キリストの心を自分の心とするのです。

 

 

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今週の御言葉 2019年3月24日 イザヤ書29章11~24節

2019-03-24 09:57:22 | 今週の御言葉

【神に喜ばれる礼拝と生活】

 主は言われた。
 「それはこの民が口先でわたしに近づき、
 唇でわたしを敬いながら、 
 その心がわたしから遠く離れているからだ。
 彼らがわたしを恐れるのは、 
 人間の命令を教え込まれてのことである。」 
               イザヤ書29章13節

 「アリエル」(イザヤ29・1)とは、エルサレムの別名です。イザヤ書29章は、大きく3つの段落に分けることができます。

 まず1~8節で、アッシリヤの軍勢に包囲されたイザヤの時代のエルサレムが主の力によって救われる預言です(Ⅱ歴代誌31・1~23、イザヤ36~37章)。

 次に9~16節ではやはりイザヤの時代に、信仰や礼拝が形式的になり、創造主である神を主と崇めるのではなく、自己満足のための利己的なものとなっていることが鋭く指摘されています。

 そして17~24節では、真の救いとは創造主である神を聖なる方として崇め、悪から離れる者に与えられることが示されています。その救いは、レバノン(当時は森林で有名でした)の森を実り豊かな果樹園に変えることに例えられ、主を信じる心の柔らかな者や貧しい者に、豊かな喜びと楽しみを与えることが記されています。

 さらにまた主イエスも冒頭に記したイザヤ書29章13節を引用して、神に喜ばれる礼拝と生活について語ります(マタイ15・1~20)。その神に喜ばれる礼拝と生活とは次の3つに要約できます。

 礼拝は願いの実現のためではなく神への感謝のため…礼拝の動機は自己実現のためか、神の救いの感謝か、どちらでしょう。

 神の喜ばれることを意識して生きる…自己流の信仰ではなく、神のみことばに素直に従い生きることが信仰です。

 自己中心ではなく主を心の中心にして生きる…第一コリント13章、第一テサロニケ5章15~24節を、いつも心に刻みましょう。

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今週の御言葉 2019年3月17日

2019-03-17 09:27:52 | 今週の御言葉

【全き平安】

 志の堅固な者を、
 あなたは全き平安のうちに守られます。
 その人があなたに信頼しているからです。  
                   イザヤ書26章3節

 「志の堅固な者」とは、聖書が示す創造主である全能の父なる神を素直に信じて変わらない者のことです。「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなくとこしえにながらえる。」(詩篇125・1)や「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」(箴言29・25)とあるように、私たちの主である神は信頼する者を守り、平安で満たします。この主が与えて下さる平安には、次の三つの特徴があります。

 救い主イエス・キリストの十字架と復活を信じることで与えられる…「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(ローマ5・1)とあるように、神との平和を得たとき、人は誰もが神の平安を持ちます。主イエスも復活直後に弟子たちに顕れたとき、十字架で負った手と脇腹の傷跡を示して「平安があなたがたにあるように」と語りました(ヨハネ20・19~23)。

 信じる者へ豊かに注がれる…イザヤ26章3節を文語訳は「汝は平康(やすき)にやすきをもて心志(こころざし)かたき者をまもり給ふ 彼は汝に依り頼めばなり」と訳します。「全き平安」をヘブル語では「シャローム シャローム」と記します。まさに主は、信じる者に平安の上に平安を豊かに重ねてくださるのです。

 いきいきと躍動してあふれ出る…ヘブル語の「シャローム」には平安や平和以外にも意味があります。すなわち、経済用語では「繁栄」となり、身体的に用いると「健康」となります。他にも、「満たし」や「勝利」、そして「救い」と訳せます。いきいきとした主のいのち溢れる全き平安を、主を信じる者は持つのです。

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今週の御言葉 2019年3月10日

2019-03-10 08:42:04 | 今週の御言葉

【いざ 神の宴会へ】

 その日、人は言う。  
 「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。
 私たちを救ってくださる。
 この方こそ、私たちが待ち望んでいた主。
 その御救いを楽しみ喜ぼう。」     
                   イザヤ書25章9節

 主イエス・キリストの救いには、三つの大きな恵みがあります。その第一は、主イエスの十字架の身代わりの死によって私たちの罪が赦され、神の子とされる恵みです。第二は、神の子とされた私たちが祈り求めるとき、御聖霊に満たされて神の証し人として用いられることです。そして第三が、主イエスの再臨の時、永遠のいのちを得ることです。
 イザヤ書25章6~10節は、主イエスの再臨のときに主イエスを信じる者たちが招かれる、主の恵みに満ちた勝利の宴会を預言しています。ここには、神の備えた究極の祝福が以下のように示されています。

 神の宴会は主を信じる全ての民が招かれる…「この山」(イザヤ25・5、6)とは、エルサレムにあるシオンの山を指します。主の再臨の日にそこへ集うのは、世界のあらゆる時代、あらゆる民族の人々の中で主イエスを救い主と信じた人々です(マタイ8・11)。

 神の宴会は霊的にも物質的にも祝福に満ち溢れている…主イエスを救い主と信じた人々は、主の再臨と最後の審判の後、新しくされた天地でとこしえの祝福を得ます(黙示録21、22章)。それは、旧約にもすでに預言されています(詩篇23・6、36・5~9)。

 神の宴会には永遠のいのちとあらゆる悲しみの除去がある…主の再臨がクリスチャンにとって何より素晴らしいのは、死んだ者もよみがえります(Ⅰテサロニケ4・13~18)。そして、キリストと同じ栄光の姿へと変えられるのです(Ⅰコリント15・50~58)。この喜びを誰かに伝えずにはいられない、それが証しです。

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今週の御言葉 2019年3月3日

2019-03-03 08:23:38 | 今週の御言葉

【主の霊がとどまる】

 エッサイの根株から新芽が生え、 
 その根から若枝が出て実を結ぶ。
 その上に主の霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、  
 思慮と力の霊。
 主を恐れる、知識の霊である。   
                        イザヤ書11章1~2節

 「エッサイの根株から新芽が生え」とは、救い主イエス・キリストを指しています。そして、「その上に主の霊がとどまる」ことは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき、神の御霊(聖霊)が降ったことで成就しました。聖霊は、主イエスの栄光を現し(ヨハネ15・26、16・7~15)、主イエスの救いへと人々の心を向ける存在です(Ⅰコリント12・3)。
 そして、主イエスを信じる者もまた、誰でも聖霊を受けることができ、そのことを主が命じているのです(ルカ11・9~13、ヨハネ20・22、使徒1・3~8)。イザヤ書11章1~2節では、聖霊の特徴について三つの点を挙げています。

 知恵と悟りの霊…知恵とは、聖書の知識を生活のなかで用いることです。悟りとは、様々な状況の中で神のみこころを洞察する力です。主イエスの模範が示すとおり、聖霊による知恵と悟りを持つ人の行動は人をいかします(ヨハネ8・1~11)。

 思慮と力の霊…聖霊による思慮深さと力を持つ人は、その智謀と能力を自分の欲得のためにではなく、人の目には損と見えることであっても神の導きに従います。その究極の模範は、十字架を前にした主イエスの姿です(マタイ26・47~56)。

 主を恐れる、知識の霊…偶像礼拝とは、自己中心な思いの実現のために都合の良いものを崇拝することです。主を恐れるとは、創造主であるまことの神を中心とした生き方です。知識とは、創造主である神を主権者として畏れる謙虚さです。自分のわがままを主イエスに押しつけてはいけません(マタイ16・21~28)。

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