沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉 2014年4月20日

2014-04-21 18:41:58 | 今週の御言葉

 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受け
たことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおり
に、私たちの罪のために死なれたこと、また、聖書の示すとおり
に、三日目によみがえられたこと、…そして、最後に、月足らず
で生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。
        コリント人への手紙第一 15章3、4、8節

 主の復活を体験した信仰(1~8節)…主イエスの十字架と復活
は突然の出来事ではありませんでした。「聖書の示すとおりに」
(3、4節)と二回繰り返されているように、旧約聖書にあらかじ
め預言されていたことの成就です。それは、私たちにとって遠い
世界の出来事ではなく、ケパ(ペテロのことです)やヤコブ(ヨセ
フとマリヤの子)、さらには多くの弟子たちとパウロが実際に体験
したことでした。私たちも日々の出来事の中で、復活の主イエス
をいきいきと体験することこそが、信仰であり証しです。
 主の恵みによる新しくされた人生(9~11節)…復活の主イエス
出会い救われた喜びと、主とともに歩む恵みはその人の心を変え
人生を新しくします。「ところが、神の恵みによって、私は今の
私になりました。」と告白するパウロは、同じ10節で「神の恵み」
と三回も繰り返して語っています。主イエスと出会う前の自分は
どうだったのか、そして主イエスに救われたことや日々の歩みの
中で注がれてきた神の守りと恵みの数々を一つひとつ数えるなら
ば、感謝と喜びは尽きることがありません。
 主の復活による永遠のいのちの希望(12~21節)…パウロをはじ
め初代教会の使徒たちは、福音を語るときに主イエスの復活を強
調しました(使徒3章15節、4章2、10、33節、5章30~32節)。
主イエスの証し人とは、主は死から復活し今も信じる者とともに
いることを、主の恵みにより日々の歩みのなかで表すのです。

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今週の御言葉 2014年4月13日

2014-04-21 18:40:43 | 今週の御言葉

 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのと
ころに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運
ぶろばの子に乗って。』」    マタイの福音書 21章5節

 王はどのような方か(5節)…冒頭の御言葉は、ゼカリヤ書9章
9節の引用です。その節には、引用部分と共に、「…この方は正
しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。…」とありま
す。主イエスは、「正しい方で、救いを賜り」とあるように、罪
の穢れの一つも無いままに十字架へ私たちの救いのためにかかっ
た方です。「柔和で」とは、私たちに十字架の救いにより、神と
の平和と人との平和を与えることを指します。その象徴として、
戦いに用いる馬でなく、荷役に使うろばに乗るのです。
 人々はどのように受け入れたか(10、11節)…熱狂的に主を迎え
ましたが、後に群衆は祭司長、長老たちに説かれ主を十字架につ
けよと叫びます(マタイ27・20)。実は、この相反する行動をした
群衆は、別の人々だと言われます。主を糾弾したのはエルサレム
に住む人々でした。逆に主を熱狂的に迎えたのは、ガリラヤから
ついて来た人々でした。しかし、彼らも主が十字架にかかるとは
思わず、人々から見下されていた故郷ガリラヤ出身(ヨハネ7・
41、52。1・46)の偉大な王として、主が君臨することを期待し、
そのことで自分達を馬鹿にした人々を見返そうと思ったのです。
 あなたはどのように迎えますか(9節)…「ホサナ」とは、もと
もと「いまお救いください」(詩118・25~28)という意味で、新約
の時代では神に「栄光あれ、祝福あれ」という意味です。主は十
字架まで神のみこころに従ったゆえに崇められます(ピリピ2・6
~11)。私たちも自分の欲や野心の手段として主に期待するのでな
く、主に従いましょう。真の柔和とは、御言葉に素直に心を開き
主を救い主、私の王として心に迎えることです(黙3・20)。

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今週の御言葉 2014年4月6日

2014-04-06 18:03:16 | 今週の御言葉

だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜
も赦していただけます。しかし、御霊に逆らう冒涜は赦されませ
ん。             マタイの福音書 12章31節

 パリサイ人たちの思い違い…「これを聞いたパリサイ人は言っ
た」(マタイ12・24)の「これ」とは、「この人は、ダビデの子な
のだろうか」という群衆の言葉でした(23節)。「ダビデの子」と
は、旧約聖書に約束されたメシヤ(救い主)を指します(イザヤ9・
7。マタイ21・9、15~16)。パリサイ人たちは主イエスの教え
を聞き、その奇跡を目の当たりにしても、主イエスを救い主とし
て信じようとしませんでした。それは、彼らが期待し予想してい
た救い主の姿と、主イエスがかけ離れていたからです。自分の心
にある物差しにこだわるあまり、謙虚に聖書に聴き、そのうえで
素直に現実を見る魂の眼を失うと、私たちも同じ過ちをします。
 聖霊の働き…主イエスはここで、聖霊を汚す罪は決して赦され
ない、と繰り返し語ります(12・31、32)。ご聖霊は、主イエスに
ついて教え、主の許へと導く働きをされます(ヨハネ15・26、16・
7~15)。そして何より、私たちは御聖霊の働きによって信仰告白
ができるのです(Ⅰコリ12・3)。それゆえ、もし御聖霊を否定し
てしまったら、主イエスの救いへの道が閉ざされ、罪は赦されな
いのです。誰しも信仰の出発点で、さらには今、主を信じている
ことの背後に御聖霊の働きがあることを、忘れてはいけません。
 神の国に在る者として生きる…「神の国」(12・18)とは、神が
支配されるところ、という意味です。この神の国はすでに、主を
信じる者の心に始まっており(ルカ17・21)、主の「驚き」(12・
23)や喜び、平安を心に満たします。それゆえ、主を信じる者は
悪の力の働く世俗の思いや汚れた言葉から解放され、他者も自分
も活かすいのちのことばを語るのです(マタイ12・33~37)。

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