沼津シオン・キリスト教会

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今週の御言葉 2020年4月26日 ヨハネの福音書20章1~14節  

2020-04-26 08:51:56 | 今週の御言葉

【初心にかえって】

 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることが出来なかった。」
                       ヨハネの福音書20章6節

 主イエスが復活した日の朝、空になった墓の前で御使いは女性たちにこう告げます。「そして、急いで行って弟子たちに伝えなさい。『イエスは死人の中からよみがえられました。そこでお会いできます』と」(マタイ28章7節)。御使いは弟子たちにガリラヤへ行くよう指示します。それは、ガリラヤこそが主イエスと弟子たちが最初に出会った場所だからでした(ルカ5章1~11節)。
 弟子たちは、主イエスの十字架と復活を体験し、ペンテコステの聖霊体験を経て力強く証し人として歩み出すために、信仰の原点ガリラヤで復活の主イエスを再体験する必要があったのです。

 自分の無力さを痛感する…久しぶりにガリラヤ湖の漁へ出た弟子たちに待っていたのは、「その夜は何も捕れなかった。」(3節)という現実です。主イエス抜きでは何もできない、という現実を思い知らされることほど辛く、そして幸いなことはありません。

 主イエスに圧倒される…主イエスは救い主であり真の神です。このお方の御言葉を素直に受け入れて実行するとき、その人は神の力を体験します(6、11節)。そして、神の御業をまのあたりにしたものは主を畏れ謙虚になるのです(7節。ルカ5章8節)

 主イエスの備え…主イエス夜通し働いて戻ってきた弟子達に、朝食を備えていました(9、12節)。「パンを取り、彼らにお与えになった」(13節)とは聖餐を示しています(マタイ26章26節)。今も主は疲れた者を癒し、豊かに満たしてくださいます。主の許に立ち返るとき、安らぎと力を得るのです。

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今週の御言葉 2020年4月19日 ヨハネの福音書20章24~31節

2020-04-19 08:18:37 | 今週の御言葉

【私の主、私の神】

 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
                                                                                   ヨハネの福音書 20章26~27節

 いなかったトマス…「八日後」とは、主イエスが復活したイースターから数えて8日目の週の初めの日(日曜日)です。八日前に復活の主が弟子たちの前に現れたとき、トマスはそこにおらず、主の復活を信じませんでした(ヨハネ20・24、25)。トマスは他の弟子たちが興奮して主の復活を語れば語るほど、心をかたくなにして「決して信じません」(25節)と断言したことでしょう。神の恵みの場に身を置き続けることは信仰生活に不可欠です。

 彼らの真ん中に立つ主イエス…26節に記されている主イエスの行動は8日前(19節)と同じです(弟子たちが、戸に鍵をかけていたことも)。すなわち、復活の主イエスは恐れや不安、疑いを持つ人の真只中に主ご自身から歩み寄ってくださるのです。エマオへの道の途中の弟子たち(ルカ24・13~35)や墓の前で泣いていたマグダラのマリア(ヨハネ20・11~18)に対しても同じです。復活のは私たちにもご自分から近づき、励まし慰めてくださるのです。

 私の主、私の神…復活の主イエスを見たトマスは、主の手と脇腹に触れることなく、「私の主、私の神よ。」(28節)と信仰を告白しています。そのトマスの信仰告白に対して主は「見ないで信じる人たちは幸いです。」(29節)と告げました。まさに、私たちも試練の中で、生きておられる復活の主の救いを体験します。復活の主が今この瞬間もともにいることをおぼえ、感謝しましょう。

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説教ノート余話 2020年4月19日 ガリラヤ湖

2020-04-19 08:15:58 | 説教ノート余話

【ガリラヤ湖】

☆ガリラヤ湖はイスラエル北部のガリラヤ地方にあります。イスラエルは国土の6割を砂漠(荒地)が占 め、年間降雨日数が50日程と乾燥した 気候です。それゆえ、ガリラヤ湖の水は飲用・灌漑・工業用水として貴重です。1964年には湖畔 に国立給水センターが設立。ここからイスラエル全土へ配水されています。しかし近年、降水量の減少、農工業や家庭での消費増加により、ガリラヤ湖の水位は約4mも低くなっているとか。

☆さて、ガリラヤ湖の名ですが、旧約聖書では、湖の形が竪琴に似ていることから、ヘブル語で竪琴をあら わす「キノール」から生じた言葉「キネレテ」と呼ばれています(民数記34章11節、ヨシュア記13章27節。)

☆なお、ガリラヤとはヘブライ語で周辺や辺境を意味する「ガーリール」から生じた言葉です。エルサレム  の都を中心とすればまさに僻遠の地で、イザヤ書9章6節では「…ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤ…」とまで書かれています。しかし、新約聖書を見ると主イエスがお育ちになったナザレや、伝道の拠点を置いたカペナウムが西岸にあり、ペテロや弟子達もガリラヤの出身です。そして、主イエスの活動の多くがガリラヤ湖周辺で行われ、東岸にあるベッサイダなどへガリラヤ湖を幾度となく舟で往来したことが、福音書に記されている通り、ガリラヤは重要な地です。

 

☆ガリラヤ湖の東岸を、湖上の船より撮影。

 


☆船よりガリラヤ湖の西岸テベリヤを遠望。

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今週の御言葉 2020年4月12日 ヨハネの福音書20章19~23節

2020-04-13 09:16:25 | 今週の御言葉

【平安があなたがたにあるように】 

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」
 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。
                                    ヨハネの福音書20章19~20節

 ハレルヤ!今年も主イエス・キリストが死に勝利して復活されたイースターの朝を迎えました。主イエス・キリストを信じる者は、誰もが新しくされた者です。罪の赦しと永遠のいのちの希望とともに、主の御霊により平安といのちに溢れて歩むのです。それは実生活の中で次の三つの点から明らかにされます。

 弟子たちは主を見て喜んだ(19~20節)…人は恐れと不安に捕らわれやすい存在です。主イエスの身近で教えを受け奇跡を体験した弟子たちでさえ、そうでした。しかし、復活の主が彼らの真ん中に立つとき、彼らの心は変わったのです。キリストが共にいることを知る時、状況は変わらずとも心に喜びが満ち溢れます。

 わたしもあなたがたを遣わします(21節)…臆病な者たちであってもキリストが共におられるとき、不思議と一般社会へ出て証しをする者となります。ユダヤ人を恐れて閉じこもっていた弟子たちがキリストの復活を知った50日後は、ユダヤ人をはじめ世界の人々に大胆に福音を伝える者になりました(使徒2・14、37~42)。

 彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい」(22節)…弟子たちが新しい人となったのは、いのちの息である聖霊を吹き込まれたからです(創世2・7、エゼキエル37・9~10、ヨハネ7・37~39、使徒2・1~4)。イースターはペンテコステ(聖霊降臨)に結びついているのです。

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今週の御言葉 2020年4月5日 ヨハネの福音書13章1~20節

2020-04-05 15:14:40 | 今週の御言葉

【わたしはある】

 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが「わたしはある」であることを、あなたがたが信じるためです。      
                      ヨハネの福音書 13章19節

 ご自分の時が来た…ヨハネの福音書の中で、主イエス・キリストは一貫してご自分の時が来るのを見定めています(ヨハネ2章4節、7章6、8、30節、8章20節、12章23節、17章1節)。この「時」とはギリシャ語では「カイロス」であり、定められた時や決定的瞬間を指します(ちなみに、時刻や時間は「クロノス」です)。
 この主の「時」とは具体的には十字架を指し、主はその時を「人の子が栄光を受ける時」(ヨハネ12章23節)であり、信じる者に「永遠のいのちを与えるため」(ヨハネ17章1~3節)と宣言されたのです。

 上着を脱ぎ…旧約の律法からすると十字架は呪いのしるしでした(申命記21章22~23節、ガラテヤ3章13節)。しかし、主イエスはその十字架にかかり三日目に復活することで、信じる者に罪の赦しと永遠のいのちを得させるため地上に来たことを、承知していました。
 ヨハネ13章4節の「上着を脱ぎ」の「脱ぐ」という言葉とヨハネ10章11、15節の「いのちを捨てます」の「捨てる」は、どちらもギリシャ語ではティセーミという言葉が使われています。まさに主イエスは私たちの救いのためにいのちを脱ぎ捨てるほど、私たちを極みまで愛してくださったのです。

 わたしはある…主イエス・キリストは神の御子であり神ご自身だからこそ、その十字架の死は創造主である天の父なる神に受けいれられました。主イエスはご自分を「わたしはある」と語りました(ヨハネ13章19節)。この「わたしはある」とはギリシャ語でエゴー・エイミと記されヨハネ8章24節でも語られています。そして、出エジプト3章14節でも神ご自身が用いています。まさに主イエス・キリストは救い主であり永遠の神です。

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