沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉 2015年4月26日

2015-04-27 17:09:55 | 今週の御言葉

 ところで、あなたがたは、どう思いますか。
 ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、
「きょう、ぶどう園に行って働いてくれ」と言った。
                    マタイの福音書 21章28節


 あなたがたは、どう思いますか(28節)…主イエスは私たちの求
めや訴えを聞くだけでなく、私たちに語りかけるお方である。こ
れは、自分が主に訴えることばかり熱心で、主のみことばに心の
耳を傾けようとはしない私たちへの警句です。と同時に、主の問
いかけは、私たちに単に聞くだけでなく、じっくりと考え、時に
は何日も思い悩むことをも、求めているのです。私たちはあまり
にも簡単に、問題の解決、そして祈りや信仰の結果を求め過ぎて
はいないでしょうか。主の救いが永遠のいのちという重い結果に
つながるならば、信仰の道もまた安直なものではありません。
 父の願ったとおり(28~31節)…「父の願ったとおり」とは、キ
リスト者の生き方とは、神の願いや望みどおりに生きる、創造主
である神中心の生き方です。そして、主を中心として生きるとき
にこそ、人は人として自由にそして生き生きと生きることができ
るのです。そして、聖書の中には神の私たちに対する願いが随所
に記されています(Ⅰテサロニケ5・12~18、Ⅰテモテ2・4他)。
何をするべきか、何をしたいかを問う前に、主が私にどのように
歩んでほしいかを悟りわきまえるため、聖書を熟読するのです。
 あとになって悔いることもせず(32節)…「悔いることもせず」
を口語訳聖書では「心を入れ変えて」と訳します。そして、文語
訳聖書では「なほ悔い改めずして信ぜざりき」と記しています。
聖書の教える悔い改めとは元来、方向転換や視点を変えることを
意味したメタノイアという言葉が用いられています。すなわち、
主イエスを信じて悔い改める者は、自分の生きざまを日々に点検
し、主の主導権に自分を明け渡して歩むのです。

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今週の御言葉 2015年4月19日

2015-04-27 17:08:41 | 今週の御言葉

 イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋
ねましょう。もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威
によって、これらのことをしているかを話しましょう。」
                          マタイの福音書 21章24節


 問うのではなく、問われている…私たちはしばしば、主イエス
に向かい、「主よ。なぜですか」と問います。もちろん、何事で
も祈ることを許されているのですから、大胆に尋ね求めるべきで
す。と同時に、主が私たちに語りかけるお方であることを忘れ、
主の語りかけを無視するならば、その人の信仰は痩せて枯れてし
まいます。主は今も、天地万物を通して語り(詩篇19篇1~6節)、
何より聖書の御言葉を通して語りかけます(詩篇19篇7~11節)。
祈りは、主の御声を聴く心が大切です(Ⅰサムエル記3章10節)。
 真の権威…聖書の示す「権威」とは、「主権」や「何ものにも
妨げられない存在」という意味から来ているとも言われます。す
なわち、絶対的で自由に力を行使できるお方である神ご自身だけ
が主であり権威なのです。この「権威」という言葉をマタイの福
音書は慎重かつ丁寧に記しています(マタイ7章28~29節、8章
9節、9章6節、28章18節)。人は神の権威に服する存在として
造られ、その証しとしてエデンの園に善悪の知識の木がありまし
た(創世記2章16~17節)。神との約束を破ってその木の実を食べ
たことは、神の権威を否定することであり、それが罪なのです。
 主の権威を否定する者は人の目を恐れる…主が、祭司長たちに
ヨハネのバプテスマをどう思うか尋ねると、彼らは群衆を恐れて
言葉を濁しました。思うことを口にして群衆の怒りを買い、面目
を失うことを恐れたのです。しかし、真の権威である主イエスを
信じてその愛に憩う者は、面目を失う恐れからも解放されます。
バプテスマ(洗礼)は、主イエスの十字架によって罪を赦されたこ
とを信じ、主の権威の下に自分を置く信仰の表現です。

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今週の御言葉 2015年4月12日

2015-04-13 13:13:19 | 今週の御言葉

あなたがたが信じて祈り求めるなものなら、何でも与えられます。
                     マタイの福音書 21章22節


 信じて…私は主イエスを信じます。と言うとき、問われるのは
その内容です。すなわち、主は偉大で救いのため地上に来られた
お方だと知っている、だけなら、悪霊も同じ理解をしています。
(マタイ8・29、31)。しかし聖書の示す信仰とは、主の十字架と
復活により罪を赦され永遠のいのちを授かった神の子どもとされ
ることです(ヨハネ1・12)。神の子どもは、自分本位に生きるの
ではなく、聖霊に満たされ神中心に生きます。それが信仰です。

 祈り…祈りとは、神の御前で自分の願い事を並べ立てたり、感
情を吐露するだけではありません。祈りとは、神と一対一で向き
合うことなのです。そのためにも、神様をいかに信じているかを
私たちは問われ、吟味されます。ときには、自分が何を祈って来
たのかを一週間や一カ月ごとなどに振り返ることも必要です。そ
のようにすることで、神様と向き合うだけでなく、自分自身と向
き合い、自分を知ることにもなります。得てして、主イエスの救
いと聖霊の満たしによって罪からの救いとたましいの癒しを体験
していないと、人は自分自身と向き合うことを嫌います。しかし、
罪の赦しと永遠のいのち希望、そして聖霊により主が偕におられ
ることを納得するとき、人は自分とも向き合えるのです。

 求めるなら…主は、いちじくの木が葉ばかり繁らせて実が無い
のを見て枯らしました(18~19節)。これは、律法学者やパリサイ
人たちが律法や教えをはじめ外面ばかりに固執して内面に信仰の
実を結ばないことへの裁きを象徴することです。しかしながら、
このとき主は弟子たちに真の信仰をもって求めるなら山を動かせ
ると語りました(21~22節)。そして主は、求めるなら山をも動か
せることを以前にも語っています(マタイ17・20~21)。直面する
問題の大きさではなく、求める者の信仰の実質が問われるのです。

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今週の御言葉 2015年4月5日

2015-04-08 06:35:57 | 今週の御言葉

 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう
言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すので
すか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリ
ラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
                         ルカの福音書 24章5~6節


 生きておられる主イエス…主イエスは生きておられる、という
ことはすなわち、復活の主が積極的に活動していることです。実
際、よみがえられた主はご自分から女性たちや弟子たちに近づい
ていきました。そして、エマオへ行く途中の2人の弟子とは共に
道を歩かれ(ルカ24・15)、使徒たちの前にあらわれたときには、
疑っている彼らのため、焼き魚を召し上がったほどです(ルカ24・
41~43)。そして今も主は生きておられ、私たちが思う以上に活動
的かつ積極的に、私たちの人生やこの世に働きかけています。

 開かれた墓…復活の主イエスは墓をふさいでいた大きな石を開
いただけでなく、エマオへ行く途中の弟子たちの信仰の目を開き
(ルカ24・31)、また使徒たちの心もまた聖書を悟らせるため開か
れました(ルカ24・45)。何より主は、復活の事実をまず女性たち
に証しすることで当時の社会全般にあった偏見を打ち破られたの
です。しかも、当時のユダヤ人の間では女性だけでなく羊飼いも
また社会的弱者でしたが、すでにご降誕の際に神の愛のまなざし
は彼らに注がれていました(ルカ2・8~18)。無視された存在に
救われる復活の主に感謝しましょう(Ⅰコリント1・26~31)

 みことばを思い出す…御使いは女性たちに、主イエスの御言葉
を思い出すように語りました(ルカ24・6~8)。主もまた、繰り
返し聖書を開いて彼らの心を悟らせています(ルカ24・27~32、45
~49)。生きておられる主は、聖書の御言葉を通し今も語りかけ、
知恵と洞察力を与え、信仰を引き上げてくださいます(Ⅰテモテ
3・16)。主の御言葉を宣べ伝えましょう(Ⅰテモテ4・2)。 

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