沼津シオン・キリスト教会

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今週の御言葉 2019年6月30日 イザヤ書44章6~8節

2019-06-30 08:47:30 | 今週の御言葉

【唯一の神】

 イスラエルの王である主、これを贖う方、
 万軍の主はこう言われる。
 「わたしは初めであり、わたしは終わりである。
 わたしのほかに神はいない。」

                    イザヤ書44章6節

 創造主である唯一の神は永遠を支配する方…「わたしは初めであり、わたしは終わりである」と宣言される唯一の神は、永遠のお方です。その永遠性は、聖書66巻の最終巻であるヨハネの黙示録において、創造主であるまことの神が繰り返し宣言されています(黙示録1章8、17節、21章6節、22章13節)。時間をも超越した絶対的な創造主が、聖書の示すまことの神です。このお方の前に、神のかたちに似せて造られた私たち人間が為すべきことは、伏して礼拝することです(黙示録4章10節、5章14節)。

 唯一の神は私たちの罪を贖(あがな)う方…聖書は、神は聖なるお方であると共に、罪に汚れた全ての人を愛して救うお方であると示します。神は私たちの罪の身代わりとしてひとり子である主イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架で裁いたのです(マルコ10章45節、ローマ3章24節、エペソ1章7節)。そのキリストの贖いのゆえに誰でもキリストを信じる者は、罪を赦されて神の子どもとなり、永遠のいのちを持つのです。

 唯一の神は私たちに御聖霊を注ぐ方…「わたしの霊をあなたの子孫に、わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ」(イザヤ44章3節)とありますが、「わたしの霊」とは御聖霊のことです。私たちが主イエスを信じることができるのは聖霊の働きです(Ⅰコリント12章3節)。そして、クリスチャンとして実を結び証しを立てることも聖霊の働きです(ヨハネ7章37~39節、ガラテヤ5章22~25節)。

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今週の御言葉 2019年6月23日 創世記24章62~63節

2019-06-24 17:31:32 | 今週の御言葉

「目を上げる生涯」 

 

Ⅰ.信仰とは、生きて見ておられる神を意識すること

「そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。」(創世記24・62)とありますが、ベエル・ラハイ・ロイは荒涼とした土地であり、そして父アブラハムやイサクにとって、イサクの異母兄イシュマエルの誕生に関連した場所ゆえ、良い印象がないと思われます(創16・6~14)。しかし、彼があえて足を向けたのはそこに地名の由来となった井戸、ベエル・ラハイ・ロイがあるからです。その名の意味は「生きて見ておられるお方(神)の井戸」です。まさに信仰とは、時には人生の中で荒野のような不毛の地を辿ることがあっても、その真っ只中で生ける神が見守っておられることを意識するものです。


Ⅱ.信仰とは、生ける神と親しく交わること

「イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。」(創世記24・63)とありますが、「散歩」という言葉を、文語訳聖書では「黙想」と記されています。まさに信仰の力とは、全能の神の御前にしずまることで養われます。それは、主イエスの模範にも示されます(マルコ1・35~38)。ひとりで神の御前に出ることを知る者は、たとえいと小さき者であったとしても、豊かな実を結びます。なぜなら全能の主は「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ」(Ⅰサム2・30)と宣言するお方です。


Ⅲ.信仰とは、天の神に心の目を上げ続ける生涯のこと

「…彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。」(創世記24・63)ともありますが、こうしてイサクは妻リベカと出会いました。実はこのときイサクは、母サラを亡くした傷心を抱いており、リベカを迎えることで神の慰めを得たのです(創24・67)。イサク自身は父アブラハムがイサクの嫁捜しをしていたことを知らなかったかもしれません。しかし、全てを支配される神に信頼して歩むとき、神が周囲の人々の心に働きかけ全てを働かせて益としてくださるのです(ローマ8・28)。時が良くても悪くても、神に向い信仰の目を高く上げましょう。神が豊かな収穫を約束されています(ヨハネの福音書4・35~36)。

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今週の御言葉 2019年6月16日 イザヤ書43章1~13節

2019-06-15 16:41:02 | 今週の御言葉

【贖(あがな)いの恵み】

 だが今、主はこう言われる。
 ヤコブよ、あなたを創造した方、
 イスラエルよ、あなたを形造った方が。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。
 わたしはあなたの名を呼んだ。
 あなたは、わたしのもの。」
              イザヤ書 43章1節

 恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ…「贖い」とは、罪を償うことや、人手に渡ったものを代価を払って買い戻すことを指します。全ての人は創造主であるまことの神に背を向けて罪を犯したことにより、悪の支配のもとに堕ちました。しかし、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43・4)と語ってくださる神は、御子キリストの十字架と復活を通してキリストを信じる者を救ってくださるのです(ローマ3・23~25)。

 わたしはあなたの名を呼んだ…家庭や地域、職場、学校といったどのような集団でも、相手の名前を呼ぶことは親しい関係にあることを表わします。そして、主イエス・キリストは私たち一人ひとりの名を呼んでくださるのです(ヨハネの福音書10・1~5、11~18)。さらに、「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した」(イザヤ43・7)とあるように、その存在を通して神の栄光を顕す使命があります。

 あなたはわたしのもの…もちろん、誰でもキリストを信じた後も「虫けら」(イザヤ41・14)のような弱い存在です。しかし、主はそのような者に「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」(イザヤ43・5)と語り、「わたしがあなたを助ける」(イザヤ41・14)と宣言されるのです。この神の恵みの内にあるとき、誰もが神の大能の力によって神の証し人へと変えられます。なぜなら、聖書が示す創造主がまことの神だからです(イザヤ43・10~13)。

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今週の御言葉 6月9日 ヨハネの福音書7章37~39節

2019-06-10 09:14:55 | 今週の御言葉

【渇く者こそ満たされる】

 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」     
                                               ヨハネの福音書7章37~38節

 だれでも渇いているなら…「だれでも」と、主イエスは宣言されました。どんな過去を持つ人でも、どれほど意志薄弱な人物であったしても、主イエスを救い主と信じるならば罪を赦され、永遠のいのちが与えられて、新しく生まれ変わります(Ⅱコリント5・17)。そして続けて主は「渇いているなら」と言われたことが大切です。救われた後もさらに渇きをもって主を求めるなら、主は聖霊を豊かに注いで潤します。渇きがあるからこそ主を求め、満たされるのです(マタイ5・6、ルカ11・5~13)。

 わたしのもとに来て飲みなさい…私たちが救われ、聖霊に満たされるために必要なこと、それは主イエスの許に立ち返り、絶えず主ご自身を慕い求めることです。なぜなら、永遠のいのちの源は主にあるからです(ヨハネ4・14)。信仰とは、信仰の創始者であり完成者である主イエスから目を離さないことなのです。

 聖書が言っているとおり…主イエスを信じて祈り求める者に聖霊が注がれることは、聖書が約束しています。それゆえ私たちは恐れることなく大胆に主イエスの御名によって祈り求めようではありませんか。そして信じて受けた後も、さらに日々の生活の中で聖書を読み、祈りを通して神と親しく交わり、教会の礼拝や諸集会に出席してさらなる主の語りかけと導きを得て、いよいよ豊かに聖霊に潤され、周囲の人々にも主の恵みを分ち合い、豊かな実を結ぶものとなりましょう(エゼキエル47・1~12)。

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今週の御言葉 2019年6月2日 ローマ人への手紙8章28節

2019-06-04 15:51:33 | 今週の御言葉

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。          
                                                      ローマ人への手紙8章28節

 主イエスの十字架による救いへの招きは、全ての人の前に開かれています。主イエスを信じて、その神様の愛と恵みによる召しにあずかった人々のためには、次のような助けと使命が備えられていることを、ローマ人への手紙8章26~30節は教えます。

 御聖霊のとりなしがある…改めて言うまでもなく、救いは私たちに何か利点や美徳があったからではありません。人はみな罪人です。救いはただ神の恵みにより主の十字架を信じる信仰によってです。そして信仰自体も、私たちが信じる前から私たちのこととりなしていてくださる御聖霊の働きかけによるのです(Ⅰコリント12・3)。さらに御聖霊は、クリスチャンの祈りをまた神さまに対しとりなしていてくださるのです(ローマ8・26~27)。

 神のご計画がある…この世に生を受けた全ての人に、生きる意味と目的があります。なぜなら、一人ひとりに神さまのご計画があり(ローマ8・28)、神さまの備えられた良い行いがあるからです(エペソ2・10)。そもそも、私たちはみな、神さまのかたちに似せて造られた神の作品であることを忘れてはいけません。だからこそ、自己中心に生きるのではなく神さまを中心として生きることにこそ、生きる喜びや満足があるのです。

 御子の兄弟とされる…主イエスを信じる者は使用人になるのではなく、ましてや奴隷になるのではありません。神の御子である主イエスを信じる者は、御子と同じ神の子どもとされる特権が与えられているのです(ヨハネの福音書1・12)。それは地上での生涯の守りと導きのみならず、やがての日にか天の御国で主イエスと同じ栄光の姿に変えられる、死を越えた永遠のいのちの希望です(ピリピ3・21)。

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