沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉 2018年8月26日

2018-08-26 08:11:26 | 今週の御言葉

【教会はキリストのからだ】

 教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。
                                           エペソ人への手紙 1章23節

 キリスト教会は、まず、人が神に礼拝を捧げるために集まる場です。そして、主イエス・キリストを中心とした祈りと交流の場でもあります。さらに、集う一人ひとりが、ご聖霊として生きて働いておられる主イエス・キリストのいのちに触れ、その豊かな恵みと愛を受けて潤される場でもあります。
 そのキリスト教会について、パウロもまたそれぞれの教会へ御聖霊に導かれて記した手紙の中で何回か触れています。エペソ人への手紙1章23節からは、次の三つのことが告げられています。

 キリストが教会のかしら…「御子はそのからだである教会のかしらです。」(コロサイ1章18節。18~22節も参照)とあります。まさに、頭につながってこそ身体が生きるように、教会の土台はキリストであり、キリストが中心であることが教会のいのちです。これは当たり前のことですが、いつの時代も問われることです。

 キリストのからだの各部分である私たち…「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」(Ⅰコリント12章27節。12~27節も参照)とあるように、一人ひとりが大切な「部分」(器官)です。それは、大人も子どもも、礼拝に集う人も諸事情で集えない方々も、教会に関わる全ての人が含まれます。

 キリストの力に満ちているのが教会…教会はキリストのからだであるので「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」(エペソ3章19節)のです。そして、キリストの愛は「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20章35節)を実践するときに体験でき、しかも、キリストの愛はさらに深められ広げられていくのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の御言葉 2018年8月19日

2018-08-19 07:54:43 | 今週の御言葉

 【心の目で見るべきもの】

 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
                                               エペソ人への手紙 1章18~19節

 主イエス・キリストが地上に来たのは、私たちと創造主である神さまの間の障壁となっている私たちの罪を、十字架の死と死に打ち勝った復活によって取り除くためです。
 主イエス・キリストを救い主として信じる者は、誰もが神の子どもとしての立場を回復して、罪の赦しと永遠のいのちの希望をもちます。
 そして、この地上生涯においても、たましいの目が開かれることが約束されています(ルカ4・18、24・31)。
 たましいの目が開かれた者は、次にあげる三つの神の恵みの世界を満喫できるのです。

 神の召しにより与えられる永遠のいのちの希望…人は誰でも、希望があるときには困難を耐えられます。主イエスを救い主と信じる者は、主の永遠のいのちを得る希望があります。それゆえ、クリスチャンはどんな時も生きる力と喜びに満ちているのです。

 聖徒たちが受け継ぐ栄光の豊かさを知るがゆえの謙虚さ…永遠のいのちにつながる救いを得た者は、自分の利益に執着する自己中心を手放し、創造主である父なる神に安心して委ねることを知ります。神に委ねる者の心には、神の平安が満ちるのです。

 神の大能の力を日ごとの歩みの中で実感する…自分の心を神に明け渡して委ねるとき、神の御霊(聖霊)が心に満ち、私たちは真の自由と大きな神の愛の中に包みこまれる安心を得ます。そして、神ご自身が日々の歩みの中で働き、全てを益とされます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の御言葉 2018年8月12日

2018-08-11 10:16:22 | 今週の御言葉

【信仰によって生きる】

 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこへ行くのかを知らずに出て行きました。
                                                へブル人への手紙 11章8節

 へブル人への手紙には、記者の名前が記されていません。そのため誰が聖霊に導かれて記したのか、様々な名前が挙げられてきました。その中でも有力視されてきたのは、やはりパウロです。
 そのパウロは殉教を目前にしたとき愛弟子テモテに対して、信仰とは、どんな苦難のなかでも自分の務めを果たし、天の御国で栄冠を授けて下さる神に従い抜くことだと語っています(テモテ第二4・5~8)。
 そして、ヘブル人への手紙11章では、信仰によって天の故郷である天の御国をとらえ、地上ではどんな苦難の中でも目に見えない神に従い通した神の器たちの姿を通し、信仰によって生きるために大切な三つのことを教えています。

 ①見えない世界を大切にする…アブラハムはどうして、「どこへ行くのかを知らずに出て」行けたのでしょうか。それは、召してくださった神の約束を信頼していたからです。しかも、目に見える地上が全てではなく、天の故郷を心の目でとらえていました。

 ②実生活を大切にする…天の故郷という究極の目標があるからこそ、神を信じる者は日々の生活や人生の全てを大切にします。なぜなら、試練も喜びも含めて生活の全てが、天の御国へ入るために神が備えた訓練であり恵みだからです。

 ③今を大切にする…神ご自身もまた目で見ることはできませんが、神は私たちの隠れたところでの行いを含め全てをご覧になっています(マタイ6・6)。だからこそ、私たちは今は恵みの時、今日は救いの日であることをおぼえ、今を大切に生きましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週の御言葉 2018年8月5日

2018-08-05 08:28:27 | 今週の御言葉

【祈りの力】

 祈るときには、あなたがたのことを思い、絶えず感謝しています。
                  エペソ人への手紙 1章16節

 エペソ人への手紙は、パウロがローマで軟禁されていたとき(紀元60~62年頃。使徒28章16、30~31節)に、聖霊の導きによって記されました。行動の自由を奪われた監禁生活のなかで記されたにも関わらず、エペソ人への手紙の中には「恵み」、「愛」、そして「感謝」という言葉が、繰り返し出て来ます。それはまさに逆境のなかにあってもパウロの心には主の恵みによって救われ、神の愛に生かされていることへの感謝が溢れていたからです。

 このようなキリストにある自由で明るい心は、主イエスの御名によって祈ることにより、創造主である真の神様と親しく交流することで、誰もが持つことができます。エペソ人への手紙と同じ頃に記されたピリピ人への手紙4章6節に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」とあるように、祈りとお願いは別のものです(へブル5章7節もご覧ください)。

 祈りとは、神さまに対して一方的にお願い事を並び立てるだけではなく、親しい友と語り合うときのようにゆったりとした心でたっぷりと時間を取り、胸襟を開いて全てを打ち明けるとともに、神さまの語りかけに素直に耳を傾ける、至福のときです。そのような祈りは、私たちに次の三つの祝福を与えます。

 ①祈る人の心を和(なご)ませる(16節「絶えず感謝」)
 ②心の目を開き、神の力の体験へと導く(18~19節「心の目が」)
 ③人との交わりに調和と平安を与える(15~19節「あなたがた」)

 祈りは神との交わりであり、祈ること自体に意味があります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする