沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉(2013年1月27日)

2013-01-30 17:23:12 | 今週の御言葉

   あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、
   神の子どもです。    ガラテヤ人への手紙3章26節

 ガラテヤ人への手紙の鍵は、2章26節に「しかし、人は律法の
行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる
信仰によって義と認められる」です。この不信仰をはじめ様々な
罪を重ねてきた私たちが、主イエスを信じる信仰によって神の前
に義と認められることが信仰義認であり、聖書全体を貫く真理な
のです。そして、信仰によって神の子どもとされる特権(ヨハネの
福音書1・12)を与えられたクリスチャンに対する具体的な恵みと
して、ガラテヤ人への手紙には次の三つがあげられています。

 約束の子(ガラテヤ3・29、4・28)…もしあなたがたがキリストの
ものものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束
による相続人なのです。(3・29)とありますが、アブラハムの子
孫とは、神がアブラハムと結んだ祝福の約束を受け継ぐ者を指し
ます。クリスチャンとは、アブラハムへの祝福の相続人です。

 自由の子(ガラテヤ4・31、5・13)…兄弟たち。あなたがたは、
自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の
働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。(4・31)と
あるように、クリスチャンは律法をはじめ全ての束縛から解放さ
れています。と同時にそれは自分勝手に生きることではありませ
ん。私のような者を愛してくださる主イエスを心の中心に置き、
主を積極的に愛し、その教えに自発的に従って生きるのです。

 御子の御霊を受ける(ガラテヤ4・6)…そして、あなたがたは
子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を私たち
の心に遣わしてくださいました。(4・6)とある通り、御子である
主イエスの御霊を信じる者は心に宿すことができるのです。
それだからこそ、私たちは、聖なる神様に親しく祈りと願いを
捧げることができるのです。

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今週の御言葉(2013年1月20日)

2013-01-21 13:45:06 | 今週の御言葉

「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、
異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」
 この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。
天の御国が近づいたから。」    マタイの福音書4章15~17節

 異邦人のガリラヤ…ガリラヤの地名は「辺境」という意味です。
確かに、ガリラヤ地方やナザレの村に対し、ヨハネの福音書には
軽蔑の言葉が記録されています(ヨハネ1・46、7・52)。しかし、
主イエスがまず人々に福音を語ったのは、その見下されたガリラ
ヤ地方のごく普通の人々に対してでした。、ガリラヤの無名の人々
を救いに導く福音だからこそ、全ての人が主イエスによって救い
に導かれるのです(ローマ1・16~17)。
 悔い改めなさい…主イエスを信じるときに私たちの側でなすべき、
たった一つの条件が悔い改めです。悔い改めとは、単に今までの
行いを反省したり、神様の前にお詫びすることだけではありませ
ん。自分の心の価値判断を根本的に変えることです。すなわち、
自分の罪を認めるだけでなく、そんな自分が主イエスの十字架と
復活により罪を永遠のいのちを与えられ、神の子として受け入れ
られているほどに神様に愛されていることを認め、人生の土台と
するべきです。神に愛されていることを知るとき、ひとは自分を
受け入れ、周囲の人々を愛することができるのです。
 天の御国が近づいたから…主イエスの福音、それは私たちが
天の御国へたどり着く道筋を教えるだけではありません。天の
の御国そのものが私たちのところへやって来てもいるのです
(ルカ11・0、17・21)。主イエスを信じて共に歩むなら、誰一人
として天国への道に迷うことはないと、信仰の創始者であり
完成者である主イエスが保証しています(ヘブル12・2)。

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今週の御言葉(2013年1月13日)

2013-01-17 16:17:27 | 今週の御言葉

こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。す
ると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのを
ご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの
愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」  マタイの福音書3章16~17節

 こうして、イエスはバプテスマを受けて…主イエスがバプテスマ(洗
礼)を受けようとしたとき、バプテスマのヨハネは押しとどめよ
うとします(マタイ3・13~14)。なぜなら、ヨハネのバプテスマ
は罪の悔い改めのしるしとして受けるもので、罪の汚れが一つも
ない神の御子イエスさまには受ける必要がなかったからです。し
かし、実に神の御子が人となった証しとして、主イエスはご自分
が人々の罪を担って十字架にかかることをすでにご承知の上で、
罪こそ犯しませんが人と同じ立場に身をおくため、洗礼を受けた
のです(ピリピ2・6~8)。
 天が開け、神の御霊が鳩のように下って…この箇所を別の日本語訳
では、「そのとき、天がイエスに向って開いた。イエスは神の霊
が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。」と記
しています。神の御子であるお方なのに、洗礼を受けて人と同じ
立場に身を置かれた主イエスに向かって天が開き、御聖霊がのぞ
みました。実に御霊を受けて実を結ぶ鍵は、主イエスと同じ心で
神のみこころに従うことにあるのです(ガラテヤ5・22~24)。
 これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ…やはり別訳では、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と訳していま
す。クリスチャンとして信仰の道を歩むとは、賜物や能力をいか
に生かしたか、ということよりもむしろ、御言葉を通して語りか
ける神様に従うことです。神の導きに従うとき、神が道を開かれ、
その守りと恵みは尽きることがありません(ダニエル1・8~21)。

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今週の御言葉(2013年1月6日)

2013-01-05 17:35:52 | 今週の御言葉

そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに
立ちのき、             マタイの福音書 2章14節

 立って、夜のうちに(マタイ2・13~15)…救いの光である主イエス
の御降誕はまた、闇の暗さをいっそう際立たせることでもありま
した。そして闇の力は、弱い立場にある子どもや年配者をまず狙
います。だからこそ主イエスは、ヨハネ21章でペテロに対し「わ
たしの羊を飼いなさい」と三度語られた際、まず「わたしの小羊
を飼いなさい。」(ヨハネ21・15)と語りました。そして何より、
神である主イエスが赤子として地上にお生まれになり、人として
の究極の弱さと無防備な姿を体験してくださったのです。
 もう泣かなくてもよい(マタイ2・16~18)…幼子イエスは、間一髪で
魔の手を逃れますが、直後に大きな悲劇がベツレヘムと近隣を襲
います。エレミヤ31章の預言が成就するのですが、注目すべきこ
とは、エレミヤの預言は悲しみで終わってはいないことです。確
かにマタイ2章に引用されているのは悲しみの箇所ですが、エレ
ミヤ31章には同じ文脈のすぐ後に慰めもまた語られているのです
(エレミヤ31・15~17)。ルカ7章11~16節で主イエスは、わが子
を亡くした深い悲しみにある婦人に対して「泣かなくてもよい」
(別訳「もう泣かなくてもよい」13節)と語りかけました。主ご自
身が十字架にかかり私たちの罪と悲しみを担うことで、赦しと慰
めの救いの道を開いてくださったのです。
 苦しみのなかに備えられている慰め(マタイ2・19~23)…主の慰めは、
主ご自身の御わざと御ことばにあります。主は試練と共に、脱出
の道を備えてくださるのです(Ⅰコリント10・13)。試練に出会う
意味、それは私たちが苦難の中で主の慰めを体験することで、今
度は苦難の中にある周囲の人々を主イエスの心で慰め、励まし、
その人の心に寄り添うためなのです(Ⅱコリント1・1~11)。

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