沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉(2013年4月14日)

2013-04-19 14:40:59 | 今週の御言葉

イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなた
はわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわ
たしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言っ
た。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、
私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは
彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
                 ヨハネの福音書 21章17節

 個人的な体験…イースターの朝に復活された主イエスは、様々
な場所で弟子たちの前に現れました。そして、復活の主イエスと
出会った一人ひとりの心と生きざまが根本から変えられ、まさに
希望といのちの力に満ちた新しい人となりました。それは、主の
墓の前で泣いたマグダラのマリヤ、疑い深いトマス、主イエスの
弟子であることを三度も否定したペテロの姿が象徴しています。
彼らは復活の主と一対一で向き合い、生まれ変わったのです。
 事実と向き合うことから…復活の主がペテロたちの前に現れて
なされたことは、彼らが心の傷と主にあって向き合うことでした。
マグダラのマリヤに「なぜないているのですか」(ヨハネ20・13)、
トマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨ
ハネ20・17)、ペテロに「あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ
21・17)と語りかけ、そして、主は十字架の愛と復活の力で、彼
らの心の傷を癒されました。新しい人生は、復活の主とともに心
の傷と向き合い、主の癒しを体験することから始まります。
 回復の先に…主との出会いは、心の癒しが終着点ではありませ
ん。そこから始まるのです。なぜなら、復活の主は世の終わりま
で私たちと共にあり(マタイ28・18~20)、「わたしの羊を飼いな
さい」(ヨハネ21・17)と使命を与えているからです。主イエスを
信じる者は、神の栄光をあらわす生涯が備えられています。それ
は人との比較ではなく、主とともに歩むONLY ONEの生涯です。

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今週の御言葉(2013年4月7日)

2013-04-19 14:39:52 | 今週の御言葉

御国が来ますように。    マタイの福音書 6章10節

 希望の祈り…紀元1、2世紀の激しい迫害の時代を生きた信仰
者たちにとって、主イエスの再臨と神の御国の実現は大きな希望
でした。実際、彼らは挨拶の際に「マラナ・タ」(「主よ。来て
ください」という意味)と言葉をかわしました。それは、新約聖
書にも記されています(コリントⅠ16・22、黙示録22・20)。そし
て21世紀を生きる私たちにとっても、この神の御国を待望するこ
とは、どのような状況のなかであっても生きる力を生み出し、人
生の究極の目標を見定める、確かな希望なのです。人はなぜ生き
るのか、人生はどこへ向かって歩んでいるのかという問いに対す
る答えこそが、神の御国なのです。
 宣教の祈り…主イエスを信じて救われ、この神の御国への希望
をいただいたクリスチャンたちに対して主ご自身が期待している
ことは、この神の御国を宣べ伝えることです。実際、マタイの福
音書では、主イエスの宣教に対して繰り返し、「御国の福音を宣べ
伝え」と記しています(4・23、9・35、24・14)。すなわち、福
音とは主を信じる者の心に神の国がしていくことで(ルカ17・21)、
私たちが生きる今の社会においても神の御国が実現していくこと
を目指すものです。宣教により一人ひとりの心が変えられること
こそが、真の意味で社会は変革されます。
 神に喜ばれる者へと作り変える祈り…「御国が来ますように」
と祈る私たちは、実際に神の御国の住人はいかなる心の持ち主で
あるのかを知り、それを生きることが大切です。マタイの福音書
では、神の御国の住人の特色として、心の貧しい者(5・3)、義
のために迫害される者(5・10)、神の戒めを守り神の義に生きる
者(5・19、20)、子どものように素直に信じる者(19・14)、報い
を求めずに善を行う者(25・34~40)が挙げられています。

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今週の御言葉(2013年3月31日)

2013-04-19 14:38:48 | 今週の御言葉

ここにはおられません。前から言っておられたように、よみ
がえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんな
さい。             マタイの福音書 28章6節

 主イエスは、よみがえられた(マタイ28・6、7)…主イエスを
信じる者は、主の十字架により罪の赦しを得るとともに、主の復
活により永遠のいのちを受けるのです。これこそが、死の恐怖に
とらわれていた私たちに対する、神さまからの最高の恵みです。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たち
の主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6・23)。
 恐れてはいけません(マタイ28・5、10)…主は、聖書を通して
いまも私たちに、「恐れないで」と語りかけています。そもそも
マタイの福音書の冒頭で、マリヤが聖霊によって身ごもったこと
を知ったヨセフに対し、「恐れないであなたの妻マリヤを迎えな
さい。」(マタイ28・20)と語りかけられています。そして、主は
弟子たちにもまた「恐れることはない」、「こわがることはない」
(マタイ14・27、17・7)と語っているのです。そして復活の主は
変わることなく今も、主を信じて証し人として生きる私たちに対
し、「恐れることはない」と御声をかけているのです。
 『ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続け
なさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。
だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わ
たしの民がたくさんいるから」と言われた。』(使徒18・9~10)。
 大喜びで…復活の主と出会った人たちはみな喜びに満たされま
した(ルカ24・52、ヨハネ20・20)。同じように私たちも、私を愛
して十字架で死に三日目によみがえった主を心に感じつつ喜びを
もって日々生きることこそが、最高の証しなのです。
 「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大き
な恵みがそのすべての者の上にあった。」(使徒4・33)。

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今週の御言葉(2013年3月24日)

2013-04-19 14:37:34 | 今週の御言葉

言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、
ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつく
でしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いな
さい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
                  マタイの福音書21章2、3節

 柔和で、ろばの子に乗って(マタイ21・5)…主イエスが十字架
にかかるためエルサレムへ入った日、群衆がしゅろの木の枝を取
り出迎えた(ヨハネの福音書12章12節)ことを記念して、受難週が
始まる日曜日を、しゅろの聖日と呼びます。主イエスの柔和で、
ろばの子に乗る姿は、旧約聖書ゼカリヤ9章9節の預言の成就で
すが、「柔和」はマタイ11章29節で主がご自身をさして「心優し
く」と語っている言葉と同じです。主イエスが権力や戦いの象徴
である馬ではなく、農耕や運搬に用いられるろばに乗ったのも、
神の御子が人間の救いのために十字架にかかるという、仕える王
としての姿をあらわしています。
 ろばの子(マタイ21・2)…」主イエスは、「まだだれも乗った
ことのない、ろばの子」(マルコ11章2節)でした。旧約聖書では
まだ誰も乗せていない動物の子は神聖な目的のために用いられま
した(申命記21章3節、民数記19章2節)。主イエスが「まだだれ
も乗ったことのない」と言われたこともまた、ご自身が私たちの
罪の身代わりとして神の裁きを受ける犠牲となることを示します。
 ろばの子の持ち主は主…マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つ
の福音書は同じ出来事を記しながらも、それぞれの着目点に違い
があり興味深いです。ちなみにルカでは、ろばの子の所有者を指
す「持ち主」(ルカ19・33)が複数形で、しかも主イエスご自身を
指す「主」(ルカ19・31、34)と同じです。すなわち、ろばも私た
ちも、真の所有者は創造主である主イエスご自身なのです。

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今週の御言葉(2013年3月17日)

2013-04-19 14:35:23 | 今週の御言葉

だから、こう祈りなさい。
   天にいます私たちの父よ。
   御名があがめられますように。
                       マタイの福音書6章9節

 神をあがめる…マタイ6章9~13節には、主イエスが教えられ
た祈り、主の祈りが記されています。父なる神様への呼びかけに
続いてまず示されている願が、「御名があがめられますように」な
のです。ともすれば私たち人間は、神様の名があがめられること
よりも自分が賞賛を受けたい、という思いを持っています。しか
し、御使いだったものが神と等しい存在になりたいと欲して自分
の守るべき分を越えたがゆえに堕落しサタンとなって永遠の滅び
に至ったように(イザヤ14章12~15節、ユダ6節)、神を礼拝せず
自己中心に生きること自体が罪なのです。全ての人にとって、得
意満面でも失意悄然であっても、あらゆるときに主をあがめて歩
むことが人生の道なのです(Ⅰペテロ3章13~18節)。
 聖別される…「あがめられますように」は、原文(ギリシャ語)
ではハギアゾーの派生語が用いられています。このハギアゾーは、
聖書の他の箇所ではおもに「聖別する」という言葉に翻訳されて
ます。すなわち神をあがめる者とは、この世にありながらも神に
聖別された者として生きるのです(ヨハネの福音書17章14~19節)。
なぜなら、主をあがめるキリストの証し人は、地の塩、世の光だ
からです(マタイ5章13、14節)。
 すべては主イエスの十字架によって…私たちのような罪人の
かしらに過ぎない者が神をあがめ、聖別される唯一の出発点は、
主イエスの十字架を信じることです(へブル13章12節)。主イエス
の復活を祝うイースター(31日)を前に、次週24日より受難週に入
り、29日には主イエスの十字架の日を迎えます。私たちの救いの
ために十字架にかかられた主イエスの模範に従いましょう。

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