それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前でひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
マタイの福音書27章29節
からかって…主イエスが「緋色の上着」(マタイ27章28節)を着せられ(緋色は高貴な者を表わす)、いばらの冠をかぶり、葦の杖(マタイ27章29節)を持たされたのは、兵士たちが主イエスを王に似せて嘲笑するためでした。兵士たちは普段、上官や支配者から見下され蔑視されて鬱屈していたからこそ、民衆の人気と支持を得ていた主をからかったのです。
周囲の人々からからかわれる、それは大人でも子どもでも激しい苦痛を心に与えます。この「からかう」(マタイ27章29、31節)という言葉は、「あざける」という意味であり、主イエスは十字架への受難のはるか前から、覚悟していました(マタイ20章19節)。すなわち、十字架の受難に直面するはるか前から主イエスには十字架への覚悟があったのです。だからこそ、主イエスは兵士たちに対しても憐れみの心を持ち、耐えたのです。
十字架につけるために連れ出した…主イエスは、ゲッセマネの園で捕えられてから一晩中、一睡もすることなく尋問や不当な裁判を受けました。しかも鞭で打たれています(26節)。この鞭には鋭利な石などが仕込まれており、すでに想像を絶する痛みを主の御からだは負っていました。
しかしながら、主イエスは多くの人の病気を癒し、悪霊を追い出された御力を、ご自分の身体の癒しには用いませんでした。しかも、大能の力を人々の癒しや救いに用いこそすれ、決して復讐や反撃のためには用いなかったのです。それは三日目によみがえることを知っていたからであり(マタイ16章21節、20章19節)、私たちを救う喜びがあったからです(へブル12章2節)。
無理やりに背負わされた十字架…クレネ人シモンは、たまたま「通りかかった」(マルコ15章21節)ことで、主の十字架を「むりやりに背負わされ」(マタイ27章32節)、ゴルゴダまで運ばされました。
しかし、彼はまた、主イエスの十字架を担った男として、聖書に名を残す恵みもまた得ます。主の光栄はまず、十字架を担うことから始まるのです。