沼津シオン・キリスト教会

沼津駅北口から東へ徒歩5分!キラメッセぬまづのすぐそばの教会です。

今週の御言葉(2013年2月24日)

2013-02-25 10:06:49 | 今週の御言葉

あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何
によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外
に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。
 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事が
できません。        マタイの福音書 5章13~14節

 あなたがたは、地の塩です…主イエスは、信じる者は塩である、
と断言されました。塩になりなさいと勧めたり、塩にしてあげよ
うと約束するのではなく、『信じる者=地の塩』と言い切ってい
るのです。なんと素晴らしい恵みでしょうか。なぜなら主イエス
を信じる者は、知識や修養の程度そして信仰年限の長短にかかわ
りなく、イエス・キリストを信じたその時から心の価値観や生き
ざまの基準が自分中心から主イエスを意識したものへと変ること
で、この地上のものとはひと味違うきよさが与えられるのです。
 あなたがたは、世界の光です…主イエスはまた、信じる者たち
を世界の光です、と語りました。主イエスご自身が世の光であり
信じる者はいのちの光をもつのです(ヨハネの福音書8・12)。こ
の主イエスの光こそが、闇夜よりも暗い人の心をも明るく照らす
のです。さらに主イエスのきよい光は、私たちの心をあたためる
慈愛に満ちたものです。この私たちの罪の身代わりに十字架にか
かることで示された主イエスの愛の光を心に迎えることで、私た
ちもまた主イエスの光を放つ歩みへと変えられます。
 人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなた
がたの父をあがめるようにしなさい(16節)…私たちが地の塩、
世の光として生きる目的は、創造主であり聖であるとともに、私
のような者を愛し、主イエスの十字架で救いに導く父なる神さま
の素晴らしさを証しするためです。人は誰しも、愛ときよさに満
ちた創造主のために生きるとき、地の塩、世の光となります。

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今週の御言葉(2013年2月17日)

2013-02-17 09:00:10 | 今週の御言葉

  天の下では、何事にも定まった時期があり、
  すべての営みには時がある。   伝道者の書 3章1節

 人の営み…ギリシャ語では、「時」を表わすことばが二つあり
ます。一つはクロノスと言い、時間や時の流れをあらわすもの。
もう一つはカイロスで、好機や機会を示します。伝道者の書3章
の「時」とはカイロスを指し、人は神さまを信じていま直面して
いる「時」がいかなるものか、よく見極めることが大切と教えま
す。すなわち、いつ生まれいつ死ぬかという「時」は神さまの御
手にありますが、与えられた人生の営みの「時」をどう用いるか
は、私たちの選択にあるのです。主イエスも生涯で、今が自分に
とっていかなる「時」であるかを、絶えず考えておられました。
(ヨハネの福音書2・4、7・6~8、12・23)。
 労苦の意味…「すべての労苦の中にしあわせを見いだすことも
また神の賜物」(3・13)とありますが、「自分の労苦を喜ぶよう
にされた。これこそが神の賜物である。」(5・19)ともあります。
「神の賜物」を英語の聖書ではThe Gift of Godと記します。労
苦も神さまの贈り物です。それは私たちを苦しめるためではなく、
労苦を通し人として成長し、労苦の中に備えられている神さまの
恵みを見いだすことでさらに喜びに満たされるためです。   
 永遠が与えられた心…人の地上での歩みには限りがあります
が、主イエスを信じる者には永遠のいのちが与えられています
(ヨハネの福音書3・16)。だからこそ、内村鑑三師も「一日一生
(一日は貴い一生である)」と言いましたが、今日という「時」を
大事にしようではありませんか(Ⅱコリント6・2)。

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、
人の心に永遠を与えられた。   伝道者の書 3章11節

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今週の言葉(2013年2月10日)

2013-02-17 08:58:51 | 今週の御言葉

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだか
 ら。                 マタイの福音書 5章3節

 幸いです…ギリシャ語本文の語順からすれば、冒頭の御言葉は、
次のように訳せます。「幸いです。心の貧しい者は。(なぜなら)
その人たちのものだから、天の御国は。」マタイ5~7章に記さ
れた主イエスの教えは、山上の説教と呼ばれる、福音の中心的な
メッセージです。その中でも、5章3~12節は、「幸いです」と
繰り返し語られているクリスチャンが持つべき信仰の核心なので
す。何よりまず「幸いです」という言葉が、原文では冒頭におか
れ、宣言されています。これは、主イエスの「幸い」とは、ある
条件が果たされたり、環境が整ったときに感じるものではなく、
いま置かれた現実がどのようなものであっても、信じる者の心に
あることを示しています。この「幸い」という言葉は、ギリシャ
語でマカリオスで、心のうちから湧き上がる喜び、何ものにも動
揺することのない喜び、という意味があります。
 心の貧しい者…ここで語られている「心の貧しさ」とは、聖な
る神様の前に「心の打ち砕かれた者」(詩34・18)を指します。
ちょうど主イエスのたとえで、神の宮で「神さま。こんな罪人の
私をあわれんでください。」と祈った取税人のような心の人を指
します(ルカ18・13~14)。また、「心」とは直訳すると「霊」と
なります。それゆえ、「心の貧しい者」とは悲しみや憂い、心の
弱さを嘆く以上に、どのような富や知識、称賛でも満たせない、
魂の切なる渇きを示してもいるのです。
 天の御国…この天の御国とは、地理上の場所や領土を示すので
はなく、王の王である神の支配されているところを指します(ル
カ17・21)。真の王である神は、心砕かれて主を信じる民を決し
て見捨てることはありません(イザヤ43・1~7、14~19)

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今週の御言葉(2013年2月3日)

2013-02-17 08:57:32 | 今週の御言葉

彼らはすぐに網を捨てて従った。 マタイの福音書4章20節

 ご覧になった(マタイ4・18)…主イエスはガリラヤ湖のほとりを
歩いていたときに、最初の弟子となるペテロとアンデレ、そして
ヤコブとヨハネをご覧になりました。このご覧になるとは、ただ
単に見かけた、と言う意味ではなく、じっと見つめるという意味
が原文のギリシャ語にはあります。すなわち主イエスは、四人の
漁師たちが弟子になる前から、深いまなざしを注いでいたのです。
その主イエスのまなざしは十字架に至るまで変ることなく彼らに
向けられ(ルカ22・61)、今も私たちに注がれています。
 人間をとる漁師にしてあげよう(マタイ4・19)…旧約聖書にも、神
から遣わされた人間をとる漁師が預言されています(エレミヤ16・
16~17)。しかしながら、旧約では私たちの罪を明らかにして裁
くのに対し、新約では主イエスの救いという、罪の赦しと新しい
人生の希望を伝える点が違います。実際、主ご自身によって弟子
に導かれたペテロたちは、今までとは全く違う人生を歩むことに
なります。確かに、慣れ親しんだ働きや家を離れることに犠牲も
ありましたが、古いしがらみや過去の自分から解放されて新しく
される、大きな恵みを受けたのです(Ⅱコリント5・17)。
 彼らはすぐに従った(マタイ4・20、22)…主イエスは「だれでも
わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を
負い、そしてわたしについて来なさい」(マタイ16・24)と語りか
けますが、原文を直訳すると「だれでもわたしの後ろからついて
来たいと思うなら」と、主イエスに従うとは、主の背中を見つめ
ながら生きることを示します。何より主の背中には、十字架直前
に打たれたむちの跡や、ゴルゴダへの道でかついだ十字架のあざ
が刻まれています。信仰とは、このような主イエスの犠牲と愛に
こたえる献身が礼拝や賛美などを通して証しされるものです。

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