沼津シオン・キリスト教会

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今週の御言葉 2019年11月24日 イザヤ書66章1~24節

2019-11-23 15:55:47 | 今週の御言葉

  【生きておられる神】 

 これらすべては、わたしの手が造った。
 それで、これらすべては存在するのだ。
 ―主のことば―
 わたしが目を留める者、それは、
 貧しい者、霊の砕かれた者、
 わたしのことばにおののく者だ。
             イザヤ書 66章2節

 創造主である神は「地の果てのすべてのものよ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」(イザヤ書45章22節)と宣言されるお方です。
 しかし、生まれながらの人は神に背いて自己中心に生きるという罪のなかにいます。それゆえ、神が御子イエスを私たちの罪の身代わりとして十字架で裁き、その赦しを信じる者に救いを与えることがイザヤ書53章には預言されています。
 そして神は今も生きて力強く働いておられることが、イザヤ書を締めくくる66章には次の三つの点から示されています。

 神は語りかける…神は私たちに語りかけます(1、2、4、6、12、17、21、22、23節)。とくに、神の前に謙虚な者に対して優しく語りかけます(イザヤ書40章1~5節)。そして主の御言葉は、私たちの心を燃やすのです(ルカの福音書24章32節)。

 神は御わざをあらわす…「見よ」(12、15、19節。詩篇46篇8節、66篇5~8節)とある通り、生きておられる神の御わざを私たちは見ます。信仰とは神を見ることであり、救いとは神を体験することです(イザヤ書6章1~5節)。

 神は祈りに応える…イザヤ書65~66章は、イザヤの嘆願の祈り(イザヤ書63章15、17節、64章5、9、12節)への神の応えであり、背く者には裁きを、立ち返る者には永遠の祝福があることが明示されています。人の本来あるべき姿は、創造主である神のもとに居ることです(イザヤ書30章15節、55章6~11節)。

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今週の御言葉 2019年11月17日 イザヤ書65章1~25節

2019-11-18 14:38:11 | 今週の御言葉

 【いついつまでも楽しみ喜べ】

  見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する。
  先のことは思い出されず、心に上ることもない。
  だから、わたしが創造するものを、
  いついつまでも楽しみ喜べ。  
                イザヤ書65章17~18節

  イザヤ書65~66章は、イザヤの祈り(イザヤ書63~64章)に対す る創造主である神様の応答です。神は呼べば応えてくださるお方であり(エレミヤ書33章2、3節)、私たちは祈るときに神様が応 えてくださることを確信して祈りましょう。ただし、神様の応え は必ずしも私たちの願いどおりではなく、思いもよらない応答があることも忘れてはなりません。なぜなら、主権は神にあり、私 たちは神に従う者だからです。
 人は様々なことを神に祈ります。その祈りに応答してくださる創造主である神について、イザヤ書 65章全体から次の三つのことを心にとめましょう。

 見ておられる神(1~7節)…神は全ての人がご自身の許に「立 ち返る」のを待っておられ、「手を差し伸べて」います(1~2 節)。と同時に聖なる神は罪悪を見過ごすことなく(3~5節)、 その行ないに「報いる」のです(6~7節)。

 神の守りとさばき(8~15節)…たとえ世に悪がはびこり多くの 人の心が邪悪に染まっても、その中で神の救いを感謝し誠実に生 きる者を神は守られます(8~10節)。そして、キリストの再臨の 日(世の終末)には最後の審判がなされるのです(11~15節)。その日は神を信じる者が神のもとで永遠を得る究極の喜びの日です。

 神は新しい天と新しい地を創造される(16~25節)…神を信じる者 は最後の審判後の新しい天と地において地上でのすべての苦難から解放されます(16~17節。黙示録21章1~8節)。そして、永遠 のいのちと祝福があるのです(18~25節。黙示録22章3~5節)。

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今週の御言葉 2019年11月10日 詩篇121篇1~8節

2019-11-09 10:54:23 | 今週の御言葉

【創造主なる神の助けと守り】

  私は山に向かって目を上げる。
  私の助けは どこから来るのか。
  私の助けは主から来る。
  天地を造られたお方から。
                  詩篇 121篇1~2節

 詩篇120~134篇は、エルサレムの神殿に礼拝へ向かう人々にうたわれた「都上りの歌」です。この「都上りの歌」は、3篇ごとに一つの主題(テーマ)でまとめられています。詩篇120~122篇では、バビロン捕囚の困難な状況から解放されてエルサレムの神殿へと向かう人々の礼拝への渇きと旅路の守りが主題です。そして、これは天の御国を目指して地上での旅路を歩む21世紀のキリスト者の歌でもあるのです。

 私の助けは主から来る(2節)…「私は山に向かって」(1節)とありますが、福音を知らない世界において山岳はしばしば礼拝の対象となります。しかし、まことの神は「天地を造られたお方」(2節)のみです。救い主イエスを信じて、神の子どもとされた者には、どのような時にも創造主の圧倒的な助けがあるのです。

 主はあなたを守る方(5節)…「日」と「月」が「あなたを打つことはない」と6節にあります。日と月も古今東西を問わず礼拝の対象とされてきました。しかし、聖書は太陽と月や星も創造主である神によって造られた物と宣言します。そして、主はキリスト者をあらゆる困難の中で守ってくださるのです(3~8節)。

 今よりとこしえまでも守られる(8節)…形あるものはみないつか壊れる、と言われます。確かに太陽や月や山々であっても、いつかはなくなるのです。しかし、創造主である神は永遠のお方です。そして、神の御子イエス・キリストの救いを信じて、創造主の許に立ち返った者は永遠のいのちを持つのです(ヨハネの福音書3章16節)。

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今週の御言葉 2019年11月3日  ヨハネの福音書11章1~44節

2019-11-07 15:07:58 | 今週の御言葉

 【ともなるイエス】   

 イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」
                                     ヨハネの福音書11章24節

 主イエス・キリストは、エルサレム近郊のベタニヤに住んでいたマルタ、マリア、そしてラザロの三姉弟を愛しておられました。エルサレムへと上られるときには、しばしばこの村に立ち寄られていました。その滞在中には、姉弟たちから、主イエスはもちろんのこと弟子たちも含めて歓待を受けていたのです。

 その主イエスが大事にされていた姉弟たちの末の弟ラザロが、重い病であるとの知らせが、まだベタニアから離れた場所にいた主イエスに届きます(1~3節)。当然、主イエスはすぐに病床のラザロのもとへと駆けつけると思いきや、報告を受けてから二日間もそのときにいた場所から動きませんでした(6節)。ようやくベタニヤに着いたときは、ラザロはすでに死んで墓に納められ、しかも4日が経っていました(17節)。

 主イエスの到着を待ちわびていたマルタとマリアは、異口同音に「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32節)と訴えます。しかし、主イエスはその体はそこにいませんでしたが、霊においては確かにともにおられたのではないでしょうか。その証拠に、ラザロが死んだという報告が届いていないのに主イエスは明確にラザロの死を告げ、しかも「よみがえり」の奇跡のわざを行うことを宣言しています(11~15節)。そして宣言通りに、「よみがえり」の奇跡のわざを居合わせた者たちに目の当たりにさせたのです(43~45節)。

 主イエスは今も信じる者と、①ともにリアルにいてくださいます。
              しかも、②共に喜怒哀楽を共感してくださいます(33~35節)。
                            さらに、③ともに神の栄光を見させてくださるのです。  

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