医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



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画一的教育を<教育の国有化>と表現

2015-01-20 23:42:27 | 受けとめる力
無知は“罪悪”国を滅びしさえする

★「暗黒日記」のジャーナリスト・清沢洌(きよし)は、1935年「現代日本論」を出して教育の画一化を痛烈に批判した。
画一的教育を<教育の国有化>と表現する。
学問の研究から生まれる「真理」に対する尊敬というものがない。
その傾向、日本の現在の教育にいちじるしく見られるものだと思う。
清沢の次の言葉がいい。
<だいたいこの立派な、偉い国が、そう無闇に亡国になったり、へこたれたりしてたまるものか>
毎日新聞専門編集委員・玉木研二さん
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17歳のとき研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航した。シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ(ただしその履歴を示す文書は残されていず、朝日新聞社への就職の際は「米国の大学」をおえたとしている)。
1911年(明治44年)頃からは現地の邦字紙の記者となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。当時はアメリカ西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた。日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の自由主義平和思想家であった。
新聞記者時代[編集]
1918年(大正7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々としたのち、1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。
1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。だが清沢のリベラルな論調は右翼勢力からの激しい攻撃にさらされた。特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判され、1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる。

1937年(昭和12年) - 1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。
帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。

余裕ある人生は内実が豊か

2015-01-20 12:01:14 | 受けとめる力
★「人間が、より豊かな心で幸福でいるためには何が必要か」
1)周りや地域の人々と「つながること」
2)「活動的であること」
3)「関心を持つこと」
4)「学び続けること」
5)人に何か良きものを「与えること」
すなわち、身近な家族、友人、地域を大切にして、人間とつながり、生き生きと活動する。
社会や環境に積極的に関わり、学ぶことを怠らず、人のために献身する-ここに、豊かな心で幸福に生きるための要諦がある。
以上は近年、イギリスが、世界の多くの科学者と協力して行った研究調査のテーマである。
★1)懸命に生きる人生は美しい。2)余裕ある人生は内実が豊か。3)快活に生きる人生は強い。4)仲良く生きる人生は明るい。5)誇りに生きる人生は崇高。
6)親孝行の人生は幸福。7)学び抜く人生は勝利。
★子どもは、一人も漏れなく、宝の使命をもった人材である。
「いじめ」は、現代社会の病理。
もっと真剣に大人が対策を講じなければならない課題だ。
★世界の指導者は10代、20代で、人生の哲学、思想、信念をもち、それを貫いて、30代、40代で、偉大な仕事を成し遂げている。
青春時代に、生き方の骨格をつくり、さらに完成させていくところに、確かな人生の道がある。




○ 枯れる野に 咲く菜の花が 春を呼ぶ


菜の花の写真:2016年1月10日 取手市内で撮影>