医科歯科通信  (医療から政治・生活・文化まで発信)



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文士あの日あの時 新聞小説の旗手たち

2015-01-01 21:35:57 | 社会問題・生活
-感謝の思いを忘れていない
それが一流の証ではないでしょうか。
立派な作家の方々は皆、周囲の支えがあって自分がいることを知り、その恩に報いていこうと努力を重ねていたと実感します。
小説には、書き手の生き方は表れます。
だから小説家の方々は、人との付き合いにも真剣勝負です。
誰かを大切にした分だけ、自分自身も信頼され、いざという時に守ってもらえる。人生のお手本となる人ばかりでした。
大庭登さん

大庭 登 (著)第三文明社
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税込価格:1,728円

池波正太郎、山岡荘八、遠藤周作、新田次郎…。全国の新聞に小説を配信し、さまざまな作家と交流をしてきた著者が、昭和の作家たちとの思い出の数々を語る。『小説現代』連載に加筆し...

作家と編集者の関係は微妙なもので、作家が急に忙しくなり出すと、作家も生身の人間だから、どうしても仕事の選択をしなければ身がもたない。

 ようやく作品にとりかかってもらうことになっても、内容や連載回数のことで、なかなか話がまとまらない。作家に対して高飛車に出ると出入り禁止になり、下手に出ると不利な条件を突き付けられる。どちらにしても結局のところ、しっかり辛抱しないと仕事にならないのである。

 そんなとき、作家を説得する殺し文句があった。それは「読者が待っています」だった。

そう言われると、作家は冷静さをとり戻し、考えてみるか、となる。

 たいがいの作家は「読者」という言葉にめっぽう弱かった。



〈キャッチコピー〉
 出久根達郎氏 激賞!!――本書が貴重なのは「最後の文士」たちを取り上げていることだ。全国の新聞に小説を配信し、さまざまな作家と交流をしてきた著者が、昭和の作家たちとの思い出の数々を語る。『小説現代』連載に加筆して。

 大庭登、1936年生まれ。新聞小説、文芸企画の制作配信業務に従事。

 全国紙にも地方紙にも小説が連載されている。その地方紙と作家の中に入って、連載される原稿を作家から新聞社につなぐ仕事である。作家の原稿をカーボン紙をはさんで書き写し、挿絵画家や新聞社に届けていたという。

 24人の人気作家が登場する。すでに物故者ばかり。

 ――スケールの大小はあっても、作家のほとんどは神経質で自己中心的だった。私は、そうした奇人・変人・面白人間の作家たちとお付き合いをするには、自分を「空気のような存在にする」ことが必要だと思うようになっていた。普段は気にもならないが、いなければ困るという存在である。

 当方の子どもの頃、山岡荘八の『徳川家康』が連載されていた。うんざりするほど長く連載された。そのせいで成人になってからも山岡荘八は読んだことがない。本書によると、新聞連載4,700回、足かけ18年。原稿枚数約17,400枚、単行本26巻、いまなお売れつづけているという。

 同じく全く読んだことのない作家に舟橋聖一がいる。「舟橋御殿には常時、10人ほどの使用人がいて、執事、秘書、お手伝い、按摩師、書生、運転手らが、それぞれに割りふられれた仕事を完璧にやり遂げることを命じられていた」。

 「原稿が一回分できると、それをノートに書き写す役目の人と、出版社や新聞社に「原稿が上がっております」と連絡する人がいて、それとは別に原稿を渡す役目の人もいた。〔…〕舟橋さんの取材旅行は大名行列さながらに、お気に入りの女性やお手伝いさん、秘書や運転手といったファミリーを大勢お供にされた」。そういう“文士の時代”があったのだ。

 著者は司馬遼太郎から密命を受けていたという。それは池波正太郎の近況を報告すること。「東京の池波さんの様子を異常なほど知りたがったのは、新聞業界や文壇事情を把握しておきたいとの、司馬さん流の保身術たったのではないかと思う」。

 吉村昭、津村節子夫妻宅を訪れると、「な〜んだ……、僕に用事じゃ互いのか」と、皮肉っぼく言われることもあったという。「君のところにはかみさんが3回書いているが、僕はまだ2回だろ?」と、ささやかれた。そして連載を始めたのが、1988年10月からの『桜田門外ノ変』。

 吉村は、「これが新聞小説の最後だと思う。あとは自分がどう死んでいくかの小説となるだろうから…‥。これまで女房と張り合って書き比べをやってきたが、これからは夫婦でお互いの死への旅を綴っていくことになるだろう。君に関わってもらう三作目は、僕の置き土産と思ってくれ」と言われた。

サン・テグジュペリ没後70年

2015-01-01 21:05:51 | 社会問題・生活
一人の友に捧げた「星の王子さま」
人類普遍のテーマへと昇華
偵察飛行復帰の理由
周囲の制止も聞かず偵察飛行を執拗に繰り返し、ついには地中海の藻くずと消えた。
「自分の世代が巻き込まれたごたごたを何ひとつ拒むわけにはいかないからです」
ゲシュタポの追跡を逃れたユダヤ人の友人「レオン・ヴェルト」という献辞。

サン・テグジュペリ

Antoine de Saint-Exupry
(1900―1944)
フランスの飛行家で小説家。人間の条件を行動のうちに探究し、危機感のなかに人間性と人間の責任をとらえようとする行動主義文学の代表的作家。名門貴族の子弟としてリヨンに生まれる。初め海軍兵学校を志すが、入試に失敗し、美術学校で建築を学ぶ。1921年、兵役で航空隊に入り操縦士となったが、除隊後は工員、セールスマンなどをしながら、26年ごろから雑誌に文学作品を発表する。のちラテコエール航空会社に入ったが、当時は航空路開発時代で、数々の冒険、危難を経験する。1927年、トゥールーズ―カサブランカ空路のパイロットとなり、その体験から処女作『南方郵便機』(1929)を発表、未知の美を夢想する飛行家の内面を描く。その後、南米空路開発に従事したあと帰仏して結婚し、『夜間飛行』(1931)を執筆、これによりフェミナ賞を受賞する。続いて『人間の土地』(1939)では、行動の倫理を追求し、行動主義文学の旗印を鮮明にする。
 第二次世界大戦で動員され、とくに偵察任務に従事したが、独仏休戦後、一時、妻とニューヨークに亡命、戦争体験を踏まえた思索の書『戦う操縦士』(1942)、童話『星の王子さま』(1943)、書簡体エッセイ『ある人質への手紙』(1943)、文明を論じる未完の論文『城砦(じょうさい)』(没後刊、1948)などを発表。
1943年北アフリカの原隊に復帰、連合軍のシチリア進攻を援護したが、翌年7月31日、偵察飛行のためコルシカ島の基地を発進したまま帰還せず。一説では帰投直前ドイツ戦闘機に撃墜されたといわれる。[榊原晃三]
 1998年9月、フランス南部のマルセイユ沖でサン・テグジュペリの名前が彫られた銀のブレスレットが発見された。海中探索の結果、搭乗機の残骸(ざんがい)が発見され、2004年4月、墜落地点が特定された。

皆様のご多幸をお祈りします

2015-01-01 11:25:51 | お知らせ
年賀状をいただいた皆様にお礼を申し上げます。
東京から実家の徳島に戻り開業し、頑張っている歯科医師の方は近況を報告してくれました。
毎日忙しいとのことで充実した日々を送っているそうです。
勉強を怠ることなく精進し躍進したいとの歯科技工のグループの方々。
笑顔の写真を添え、歯科界の改革を願う歯科技工士の方。
昨年は想定外の入院・療養した医療ジャーナリストの方は、2015年は再起・復活の年と決意を新たにしています。
皆様のご多幸をお祈りします。
躍進の年をともに寿ぎたいと思っております。
当方は年男です、宜しくお願いします。

医科歯科通信
山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

今年は初日の出を見損なった

2015-01-01 08:03:03 | 雑記・断片・映像
明けましておめでとうございます。
友人、知人からメールが届いた。
今年は初日の出を見損なった。
実は昨日、朝の散歩で西田さん(仮名)に会って、Big-Aで同じ酒を買う。
彼は720miの「濁り酒」八重垣酒造(姫路市)を3本。
当方は1本。
さらにヤオコーで夕方に「しぼりたて」清須信長(愛知県清須市清須醸造)と「鬼ころし」も買う。
それらテレビを見ながら飲んで、二日酔いとなった。
快晴の1月1日を迎え、昨年のようなトラブル続きは避けたいと思う。
京都地裁から訴状が届いた昨年の1月は悪夢の始まりだったが・・