ノリの東京の友人の生きる糧(福岡編)

日々のちょっとした楽しみや悲しみを徒然に語ります。

過去の城めぐり6 ~ 長野・群馬編 ~ (その4)

2008年03月31日 | 歴史もの
 (その3からの続き)

 ③沼田城

 15時少し前に到着した沼田駅は後閑駅に比べると大きな駅だったのだが、駅を出るといきなり上り坂の道が出迎えてくれたのでビックリしてしまった。どうやら町で一番低い位置に駅はあるようだ。

 事前に調べた情報だと沼田城は駅から歩いて10分くらいだったので楽勝だと思っていたのだが大きな間違いだった。駅から市街地のある場所の高低差が結構あるので上り坂の傾斜が結構急角度になっていて、普通の道を歩いているのに登山をしている感じだった(地図を見るとゆるやかな角度の迂回路もあるのだが、3倍くらい歩かないとダメなのでやめた)。

 滝のように流れる汗をぬぐいながら結局20分くらいで沼田城に到着(沼田城のすぐ下はラブホテルだった)。沼田城も他の城跡と同じように沼田公園と名前を変えて存在していて市民の憩いの場所になっているようだ。

 4面くらいあるテニスコートで練習している団体を右手に見ながら公園内に入ると、パラパラを踊っている2人組のガングロの女の子に遭遇。恥ずかしそうに踊っていたのが印象的だった(帰る時には3人に増殖していた)。

 ちなみに沼田城は鎌倉時代からこの地方の有力者だった沼田氏の12代目万鬼斉顕泰(ばんきさいあきやす)が1532年に築城したと言われていて倉内城とも呼ばれていたようだ。この城には関東管領の上杉憲政が北条氏康に追われて逃げてきたりして(1552年頃)、越後の上杉、小田原の北条、甲斐の武田が争奪戦をずっと行なっていたようだ。 
 真田昌幸が沼田城を攻略したのは武田勝頼存命中の1580年で(1581年に沼田平八郎景義が昌幸に謀殺されて沼田家は滅亡)北条家が滅ぶ1590年まで争奪戦が続いていたのだが北条滅亡後は豊臣秀吉によって真田家の領地と認められたとの事。
 その後、昌幸が上田城に移ったので信幸が沼田城主になり1597年には5層の天守閣が出来上がったようだ。ただし、沼田の真田家は1681年の5代目の伊賀守信利の時に江戸両国橋の材木手配の失敗を理由に改易となり1682年に沼田城は全て取り壊されて堀も埋められたとの事(真田本家は1622年に松代に移り明治維新まで存続)。
 その後の沼田領は、本多家3代、黒田家2代、土岐家12代と続いて、12代土岐頼稔(よりとし)の時に明治維新を迎えたとの事。結局、真田家改易後は一度も天守閣は築かれなかったらしい。かなり美しい天守閣だったと言われているので残念な限りだ。

 さて、このような歴史を持つ沼田城だが、残念ながら当時の面影を残す物はほとんど残っていなくて前回の武田神社同様期待外れの城跡訪問になってしまった。
 当時の物と言えば野面積みの石垣と堀が少し遠慮気味にあるだけで、本丸跡にある県指定重要文化財の「城鐘(じょうしょう)」は鍵がかかっていて見る事ができず、非常に消化不良の探索だった。

 落ち込んでいてもしょうがないので、広い公園を歩いてみると城の北側に「平八郎石」と言う真田昌幸に謀殺された沼田平八郎景義の首が置かれた石と言うのがあって、案内板に「切られた首は飛んでいった。」と言う伝説が書かれていた(こういう首が飛んで行くと言う話は全国各地にある)。これが唯一真田家の足跡を確認できる物だった。

 平八郎石がある城の北側の開けた場所(本丸、二の丸、三の丸ではない。どこだここは?)はとても眺めがいい場所で沼田駅と比べると結構高い場所に沼田城がある事が認識できる場所だ。霞がかかっていて先程行った名胡桃城を見ることはできなかったが、涼しい風と鳥のさえずりと木の葉が鳴る音が非常に心地よくて、しばらくその場で景色を眺めていた(こういう非日常的な安らぎと言うのは良い物だ)。

 城廻と言うよりは公園散歩になってしまったが、その後は、日本一の大きさの天狗面(高さ3m、幅2m、鼻の長さ1.4m、重さ1トン)が奉納されている天狗堂を見てから出口に向かった(天狗面は毎年10月の祭りで使うらしいのだが、あまりにも堂内が汚れすぎ。ちゃんと掃除しろ。罰かぶりが・・)。

 そして歩いているといきなり熊が出現。「なんでいきなり熊なんだ?」と檻の中を同じ軌道で無表情に歩き続けるツキノワグマの「ゲンタ」をしばらく眺めていたのだが、沼田城との関連は全く判らずじまいだった(ゲンタの木製の表札はなぜかマラソンの有森裕子が作っていた。以前沼田に来た時に作らされたようだ。ゲンタの檻には有森さんの写真も貼られていた。変なの・・)。

 ゲンタ見学の次はすぐ近くの「生方記念資料館」に入場。アルバイトっぽい若くて優しそうな女性に入場料100円を払いながら「なぜ、あそこに熊がいるんですか?。」と聞くと笑いながら「昔からいるんですよ。」との回答。彼女も知らないようだ(家に帰ってインターネットで調べたが結局判らなかった)。

 さて、生方記念資料館と言うのは国家公安委員で沼田市長も勤めた生方誠(うぶかた・まこと)氏が生前に集めた沼田地方の出土品(埴輪等)や浮世絵等を展示している資料館なのだが、目玉は隣接している国指定の重要文化財の「旧生方家住宅」と国登録有形文化財の「旧土岐家住宅洋館」の2つだ(100円の入場券でみんな見れる)。

 はっきり言って資料館は非常に小さくて関連性のない展示物が脈略なく置かれているイマイチの内容なのだが、旧生方家と旧土岐家は面白かった。

 まず旧生方家だが、生方家というのは薬を扱う商家で、17世紀末に作られた店&住居が現在まで残っているのである(1864年に大修理をして、その後も何度か修理しながら現在に至っているとの事。東日本では最も古い町家作りの家なので重要文化財に指定されて、昭和47年から移築工事をして沼田城跡に立て直されたとの事)。

 完全木造の家には靴を脱いで入ることができたので当時の雰囲気を味わうことができたのだが、土間に沼田城の巨大なジオラマ模型が無造作に置かれたりしていたのは興ざめだった(生方家来場者として川端康成、土屋文明、板垣退助、司葉子等の何十人の名前を書いた紙がデカデカと目立つように貼られていたのもイマイチ)。

 小さな部屋がいくつもあるのだが、一番奥の部屋は窓がなくて非常に暗いので「ここで暮らすと精神が病むぞ。」なんて事を思っていたら案内板に「ここの壁はぬりごめ壁で寒さを防ぐ物ですが、使用人や嫁の逃亡防止の配慮もあります。」と書かれていて大笑いしてしまった(使用人はともかく、嫁の逃亡って言うのは何なんだ。嫁いびりか?)。わざわざ案内板に書くぐらいなので「生方家は逃亡者が多かったんだな。」と変な事に感心した生方家訪問だった。
 あと逃亡がらみだと使用人の部屋は2階の屋根裏部屋なのだが、はしごが外せるようになっていて逃亡防止策になっているようだ(幼稚園児の頃、別府の田舎の家に行って2階に上った時に従兄弟にはしごを外されて泣かされた記憶がよみがえった)。最後に囲炉裏端で恒例の囲炉裏端座りを実行して旧生方家住宅を後にした。城廻とは関係ないが面白かった旧生方家訪問だった。

 次に裏の旧土岐家洋館に移動。土岐家は真田家、黒田家の後に沼田藩主になった家で1742年から明治2年の版籍奉還までの127年間沼田地方を治めていたとの事。この旧土岐家洋館は大正13年(1924年)に東京の広尾に土岐章(とき・あきら)子爵が建てた自宅で、平成2年に移築されたようだ。

 洋館の入り口の扉は非常に建て付けが悪くて最初は入場禁止かと思うくらいの固さだった。2階建ての洋館は洋間と和室が混同していて子爵の家としては小さな感じがしたのだが、カーテンや家具が昔の物だったので(アンティークと言うのか?)大正時代の雰囲気を感じることができた。

 展示物としては沼田城の模型があったり軍服が展示されていたりと統一感がなかったが、2階の洋間に5人の沼田名誉市民の肖像画が飾られていたのは印象的だった(生方家の関係者の歌人の「生方たつゑ」さんも名誉市民で肖像画が飾られていた。公園内には歌碑もあったので沼田では有名な人のようだ)。

 15時50分くらいに帰り支度の受付嬢にガラス越しに挨拶をして生方記念資料館他施設を後にした(余計なお世話かもしれないが、生方記念資料館&旧生方家&旧土岐家洋館の全てに監視員も監視カメラもなかったのは問題だと思うぞ。常識のない観光客も多いので最低限の対策はした方がいいと思う。人が好すぎるぞ、沼田市観光局)。

 洋館を出た後は2面取れる広い野球場や日朝友好碑を見て歩いたが、公園のど真ん中に車道が通っていて車がバンバン通っていて静かに歩ける感じではなかったのは残念だった(交通量が多い割にはネコがたくさん本丸跡には暮らしていた)。以上、少し残念な沼田城訪問だった。

(その5に続く)
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