いのち・未来 うべ

わたしたちは、原発のない安全な未来を
子どもたちに残すことを願って活動しています

【野原千代さんを偲ぶ会】おしどりマコさんのメッセージ

2017年12月10日 | 放射能

12月3日に開かれた野原千代さんを偲ぶ会に寄せられたメッセージ

前回の山本太郎さんに続いて、おしどりマコさんのメッセージを掲載します。




             千代さんへ

 千代さんと初めて会ったきっかけは「事情があって、取材を受けることができない。けれどこの論文はとても重要なので、マコちゃんが、勝手に見つけて、勝手に理解した、という方向で記事を書いてほしい。分からないことは全部説明するから」というものでした。

 そこで、ヤマトシジミの論文を知り、これはぜひ広めなくては!と動き始めました。確か一本目の論文が出た直後だったでしょうか? 確か、という書き方でごめんなさい。今、福島県の郡山市にいます。今から、三春町に移動します。なので、千代さんと会った日にちを調べるすべが無いんです。

 千代さん。

千代さんのご研究は素晴らしいものでした! 千代さんとどんどん仲良くなり、いろんなことを話しましたね。千代さんの人生のこともいろいろ伺いました。千代さんと、私の仲良しだった、報道ステーションのディレクターが自死したとき、私は自死する前日に会っていたこともあり、他殺を疑い、意地でいろいろ調べました。結果、ご遺族の方にも会い、遺書の中身も伺い、それ以外に、いろんなことも分かり、ご自分で自死したことがわかりました。このことは、私は取材ではなく友人として調べたので、記事にはまとめず、けれど、同じく友人である千代さんには、あらいざらい報告しましたね。

 名古屋の駅前のマリオットホテルです。「あのホテルは外資系だから、恐らく盗聴器はついてないよ。マリオットに泊まって」と指定を受け、名古屋での仕事の帰りに急きょ千代さんと合流しました。一晩中喋り明かし、「なんで岩路さん死んだのー!!」と空に向かって叫びましたね。そして、千代さんが、人生の中で、死にたくなったタイミングのことも話してくれ、この日に死ぬと決めなければ、生きていけないくらい追い詰めらる時期もある、ということをおっしゃってました。「けれど、それはタイミングの問題で、死なずに生き続けることもできるんだ、だから岩路さんは、今、死んで、失敗した! と絶対に思ってるよ!」と千代さんは言い、また一緒に「岩路さんのバカー!!」と叫びましたね。でも、まぁ、岩路さんはあちらの世界から、こっちに波動を、パワーを送ってくれるに違いない、と話しました。そして、「マコちゃん、絶対に生き抜こう。生き続けて、後世に、こんな酷いことがあった、と、原発事故の後の状況を伝えなくては。

 肥田舜太郎先生が素晴らしいのは、生き残って、広島原爆のことを教えてくれるから。生き証人だから。だから、とにかく私たちも生き抜こう」そうおっしゃってた千代さんが、今、この世にいないことは、とても残念で、そして取り残されたような気持ちになっています。

  日本の研究会で、原発事故のことを調査する難しさ。それをよく伺っており、ヤマトシジミの研究を、原発事故の研究を、国とは独立した形で続けるために、民間の「研究所」を海外に作る計画もしていましたね。

 その名も「崖っぷち研究所」!! 代表や、顧問を海外の研究者に引き受けてもらうため、水面下で私は活動を始め、千代さんに「崖っぷち研究所」の名刺を作ってもらいました。「崖っぷち研究所」の名刺は、千代さんと私だけ、初めて作ったよ、と言われ、とても嬉しかったのに、千代さんはいない。けれど、千代さんが一番、残念に思ってらっしゃることを、私は知っています。千代さんはよく「誰に伝わらなくても、私が一番よくわかってる」とおっしゃってました。

 ヤマトシジミの外部被ばく、内部被ばくの調査をしているとき「朝、研究室に行くとね、どっちが被ばく群でどっちが非被ばく群が一発で分かるの。被ばくしたほうは、本当に元気なくて、フラフラしていて。蝶にもブラブラ病があると、私は思うよ。次は、被ばくした蝶の運動状態、行動形態を調べたいと思うんだけど、難しいんだよね」と、おっしゃってました。その研究は、千代さんの後輩の研究者の方々がされていて、発表を、去年の京大原子炉研究所であった「周辺生物への影響に関する勉強会」で聞きましたよ! 今年は成田で勉強会があって、主催してた京大の今中先生も東北大学の福本先生も退官されたけれど、今後は北里大学が中心となって、勉強会は続くことになりました。去年、琉球大学の若い方々に初めて会ったとき、会うなり「マコちゃん!!」と呼ばれて嬉しかった! 千代さんがいつもマコちゃんと呼んでたから、初めて会うとは思えない! と仲良くしてくださいました。千代さんの想いがずっと続いていくために、私が何ができるか、ということをいつも考えています。

 千代さん。

千代さんは二本目の論文で、すでに「これで私には、もう分かったの。本当は、今後の研究は、私にとってあまり意味がないの。被ばくの影響は、原発事故の影響はあるんだから、これで伝わらなければ、今後どんな研究をしても伝わらない」とおっしゃってました。今、各地の学会でいろいろ取材をして、一番感じていることは「原発事故後、過去、どんなに酷かったか」ということが、今、やっと出始めたことです。「数年前はこんなに酷かったんですよ!」ということが今になって発表されても遅すぎます。だからこそ、保守的に、最大限に安全を考える対策を取らねばならないのに。今の勉強会、学会の調査報告の状況は「調査を続けるのは難しい、なぜなら、事故直後の汚染状況を再現するのは難しいから」ということが大半です。
 事故直後は、おそろしく汚染されていて、汚染された植物、生物が「取り放題」だった。けれど、事故から6年たった現在は、汚染度がだいぶ下がり、過去の汚染状況を再現することが難しいので、異常に関する様々な調査をする状況を整えることが難しい、ということなのだそうです。このことからも、千代さんは、本当に早い時期から、調査をしてくださった。だから、体調を崩されたのではないか、というのは千代さんもご自分で感じてらした。千代さんには生き抜いてほしかった、と心底思います。

 千代さん。

今、私は各地の原発事故の取材もめちゃくちゃたくさんしています。原告の中には病死された方も自死された方も増えてきました。また、原告団だけではなく、弁護士さんや研究者の方々の自死や病死もあります。岩路さんのように、記者で自死したり病死される方もおられます。原発事故の酷さを生き抜いて伝えること、そのことの意味を考えています。千代さん。私は千代さんには、本当に生きててほしかった。もっといろいろ教わりたかったし、お喋りしたかったし、崖っぷち研究所で一緒に動きたかった。原発事故後の日本は世界は、千代さんがいなくなると、ちょっと後退するでしょう。けど、まだ私はこっちの世界で頑張ります。千代さんの声が聞けないことを悲しく思うけれど、私が死んだとき、絶対また千代さんに会うと思う。そんときにいろいろ話したいです。それまでは、千代さん、そっちの世界から、こちらに力を貸してください。千代さんとまた会うときまでに、恥ずかしくないよう、私はこっちでできるだけ生き抜いておきます。 

    

             2017年12月3日     おしどりマコ拝

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 【野原千代さんを偲ぶ会】山... | トップ | 【裁判】3/7(水)『自然の権... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

放射能」カテゴリの最新記事