野毛界隈!

2011-01-19 18:00:00 | 思い出

【 昨日の続き 】

野毛大通りを最後に覗いたのは55歳、大阪へ単身赴任で出発した頃以来であった。

知っている町並み一軒一軒の面影は失せ、思い出させてくれるものは亡くなっていた。
27年もお目にかからなければこんなものだろうと思う。 ビリヤードも探したのだが影も形もない。
にぎわい座がすっかり華やかになっていたので、しげしげと眺めた。

   

  

  

  

あと一ヵ所行ってみたい所があった。横浜市立 本町小学校である。 息子二人の母校だ。
横浜否神奈川の名門公立小学校。東京で言うところの 番町小学校と言ったところであろうか。

歴史、伝統がある人気校なので、越境入学も多かったと聞いている。
そんな訳で長男の入学当初は午前・午後の二部制授業で有ったような記憶がある。

横浜の中心地で校庭は狭かった。運動会のリレー競走々路は体育館内にまで続き、体育館内に入りそして出てきて1周となる。その時に順位が変ったりしていて、どのクラスがトップで出てくるか・・・ブラインドコースの存在は児童も父兄もヒヤヒヤ・ドキドキ、スリル満点であったことを思い出す。

昭和の終わり、私が大阪に発った頃、校舎は改築されたようである。
運動会、授業参観、中学受験ぐらいのときしか訪ねなかったが、変貌を遂げた立派な校舎は感慨深くこの目に映った。
寄って見てよかったと思う。歩き疲れた足は重かったが、紅葉坂のバス停が近くて助かった。

  

新入社員の頃、定年間近の大先輩が居られた。 その方はハマッ子で家は本牧。
草鞋を履いて通学したと話してくれたことがある。 明治時代の小学生、息子達の大先輩だ。

本町小学校の校章は、桐の葉に 一文字が角ばった書体で入っている。
1921年3月3日、昭和天皇(当時は皇太子)が横浜港から訪欧の途につかれた。
横浜に寄られたその折に、本町小学校校章に桐の紋様を使わせて頂いていることに付き、正式に許可を貰ったそうである。

そう言えば、我が家も先祖代々五三之桐を家紋としている。
豊臣秀吉も一緒であるが、豊臣家は我が先祖に使用を願い出てきたであろうか・・・なーんちゃって。
  

コメント
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