秋の感触

2007-08-31 14:07:00 | 雑記帳
ひんやり感で目が覚めたんだか、覚めなかったのだか、うつらうつらの

状態でヤッパリ起こされた。

秋を実感した八月三十一日、午前五時二十七分である。

室内温度計を見ると23度、これでは涼しいわけだ。私の部屋は金属製

の柵枠?でガードされた窓なので、開け放しでレースのカーテンのみ。

それで夏日の夜も楽なのです。

とは言っても今年は例年に比べ暑かったと思います。

真夏日も7~8回あったでしょうか?そのくらいと記憶しています。

これからベストシーズンの秋です。体調維持には有り難い季節ですが

もの想う秋とか、哀愁、憂愁の秋とか一種の侘しさも連想してしまいま

す。このような言葉は年取った私の悲哀が齎すものでしょうか?

14時07分から「ハニカミ王子」君出場のフジサンケイクラシックの放映

があり気はそぞろ、この辺で失礼致します。

因みに、13時58分現在の室内温度は25度ぐらいです。今夜もぐっすり

眠れそうですね。

 

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休養日

2007-08-29 19:01:53 | 仕事
今日は涼しいとのことでゆっくり休む事にしました。  

平塚市のピンポイント情報どうり、正午24度、15時25度だった。

女房殿はジムへ泳ぎに行った。

ヤンキース   レッドソックス戦が始まるので先ず珈琲を点て、

テレビ前にスタンバイ。

10時30分頃、雷鳴と共に豪雨  大粒の雨と隣家の屋根を叩

く雨音だけで清涼感が満喫できた。

そちらはご機嫌なのだが、松坂投手がどうもピリッとしない。

先取点をとられる~味方が追いつく。またリードを許す、追いつ

いてくれる。その後直ぐにドッカーンとホームラン で敗戦投手。

最近の彼はこのパターンが続いて勝ち星が無い。

一年目だから15勝ぐらいで終わりかな(立派な成績です 

二年目はアメリカに慣れて十八~二十勝を願いたいものです。

素人が大変僭越でございますが、若しマリナーズの城島とコン

ビを組んだら、どんどん稼ぐような気がしてなりません。

雨に洗浄され隣家の屋根< グリーン > が鮮やかになった。

そうだ、女房殿を驚かせる仕事は無いか。  と

この間、甥のブログで彼がシンクをピッカピカにした写真を見た。

「やってやろうじゃないか」と真似をすることに 。

30分ほどタイル、シンク、浄水器を磨いてみたのですが、帰って

きた時反応を示してくれるかどうか

折角のボランタリーも の表情も無く  といきたいが、い

いえ結果を求めてはいけません。未だ技術が未熟なんです。

甥の光り輝く写真を見て、成るほどと納得。

作業前                         結 果
 

 




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雑談を楽しむ

2007-08-27 17:33:27 | 政治

今日は珍しく五人衆が揃った。1時間で切り上げて11時にラウン

ジへ集まろうと、各々トレーニングに入った。

レッグエクステンション。レッグスクワット。腹筋運動を早々に済

ませマット上でストレッチング。 

昨日、鵠沼のビーチバレーで、親愛なる浅尾美和ちゃんは不愉

快な目にあったようだ。困ったギャラリーがいるものだ。

そういえば最近ジムで会わない。外国を転戦忙しいのか、午後

にでも来ているのだろうか


同じ鵠沼大会に出場の別のペアの子とは、先週の金曜日色々

と海外の事、足の裏が熱くて火傷しないかとか、喋りながらトレ

ーニングしたが、皆さん共通して礼儀正しく、言葉使いも立派で

実に爽やか!!気持ちがいい。

 レッグエクステンション 80% 90% 80% 各10回
 

 レッグスクワット 80% 90% 80% 各10回
 

 腹筋(頭 右下側) 50回×3セット
 

ラウンジで。会員で72才のお姉様。昨日は千葉の鴨川でサー

フィンをやって来たと、ピーナツ入りの菓子を差し入れてくれた。

伊豆の大島育ち、子供の頃は海女さんの真似をして、潜ってい

たという
猛者。潜水で25㍍はお茶の子さいさいのメス河童。

雑談は、先ず朝青龍。そもそも発端となった肩、腰の診断書で

モンゴル行き、その上元気溌剌のサッカー話は一体どこへ行っ

てしまったの原点に戻り本人に釈明又は説明の会見をさせろ

が五人の一致した意見。全治6ヵ月、肩、腰の治療は重症のは

ず。だか、不貞腐れだか、仮病を装っているのかは知らぬが

次元の低い方へマスコミは話題を誘導していないか!!!

批判が多かった。

もう一つ問題にして話し合ったのは、民主党の杉村泰蔵こと、か

の、さくらパパ 。がっくりくるよ、大人じゃないねでハイお開き。

 ラウンジ 禁煙となり手持ち無沙汰
 

 タバコは心の日曜日 (むかし、こんな標語があったような?)
 

 これじゃ~ぁ
 

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同窓会

2007-08-25 17:33:51 | 楽しむ
成美小学校第63期生同窓会の案内状が来ました。

今年は何人集まるでしょうか?大変楽しみです。

我々の同窓会はもう四十数年前から続いています。はじめた頃

は皆さん働き盛り、女性も子育てで忙しいし怖い姑さん?の存

在もあるので、四年に一回オリンピック開催年だけにしました。

勿論日帰りの昼食会(宴会)で、先生方もご招待し賑や

かにやって参りました。

五十代半ばになって、ポツンポツンとメンバーが欠け始めました

高齢化?の波がひたひたと迫って、残念ながら亡くなったり、病

の床に臥す友が出てきました。

誰がという事ではなく、自然発生的に、同窓会を毎年の事にしよ

う。出来れば一泊でやろうよに衆議一決しました。

50人ぐらいが45、40、35人と段々減ってきました。足が痛い、

腰が痛い、糖尿病だと言って欠席する友人も多くなりました。

縁あっての同級生です。これからも大切にして生きたいもので

す。今年は湯河原温泉です。我々の周囲には箱根、伊豆、丹沢

の中川と温泉には事欠きません。富士五湖も庭のようなもので

観光地にも十分恵まれています。

湯河原の「ホテルあかね」は初物でよく知りません。ネットで調

べてみました。

伊豆長岡の「さかや」は、私達だけでなく先輩や後輩もよく利用

するホテル。この6月の従兄弟会も「さかや」でした。

ここは小山町まで送迎バスのサービスがあり、旅館到着ま

でに全員出来上がりが常。翌朝も朝酒気兼ねなし、酔眼朦朧状

態で帰宅可能です。足の弱くなった人も参加でき大喜びです。

湯河原温泉ホテルあかね
 

伊豆長岡温泉さかや最上階展望風呂が売りです。富士山が遠望できます。 右は内風呂。
 

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私は貝になりたい

2007-08-24 15:05:58 | 思い出
昔、フランキー堺さん主演の「私は貝になりたい」を見ました。

やるせない気持ちで、私は画面に引きずり込まれました。

涙を流して見た事を思い出します。お気の毒なことです。

感想は「何と不条理な」の怒りと悲しみ、そして同情でした。

偶々昨日、A級戦犯に関連する記事を書きましたが、勝てば

官軍の戦勝国に、コテンパンに有無を言わさず蹂躙されたと

思っています。

国際法を無視したアメリカは原子爆弾投下、無差別の絨毯爆撃

で、無辜の女子や子供の生命を多数奪いました。

ベルリンや満州での女性に対するレイプ等々も、戦争犯罪行為

であり裁かれるべきですが、戦勝国については一切不問。

更に輪を掛けたのが、後日偽証と判明しても、偽証罪には問わ

れないという何でもあり的、支離滅裂の裁判になりました。

「私は貝になりたい」を見るまでも無く、公平さは全く無く、ただ報

復を目的としたものとの印象しかありません。

今晩は中村獅童さんの「私は貝になりたい」の放映があるようで

すが、年とともに弱くなった涙腺からして見ないと思います。

 ところで、昨日は涼しい一日でした。午前9時ごろからは

土砂降りの雨、傘も用を為さぬほどの激しさでした。

1時間ほどして止みましたので、湘南平はもっと涼しかろうと

車を走らせました。

10分で避暑地へ来たようで満足、満足。

足元を見て面白そうだな~と直感、雨に感謝と同時に、悪戯心

が起きました。

  ???????????
  

  水に映った!逆さ鉄塔!!
  

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二休荘 と 三養荘

2007-08-23 15:05:10 | 思い出

二休荘が大変な災難を受けた。火災である。
一体このような事が起こりうるのであろうか。 昭和21年の冬

終戦直後のタクシーは木炭車ばかり。トランクの後ろに釜を取り

付けて走っていた。

木枯らしの強風が吹いた深夜だった。営業を終わり総ての車は

車庫に戻り釜の火を落とし、灰を始末する。

その作業時に沢山の火の粉が飛散小さな丘を越え二休荘

の藁葺き屋根に飛んできた離れか湯殿か母屋かどこ

に火が舞って来たかは知
らないが、全棟灰燼に帰してしまった。

幸い逗留者は居らず家人も東京、人身に被害は無かった。

あれほど苦労して疎開させた書画骨董の損害も莫大だった。

蔵の貯蔵品台帳から厳選して運んだ掛軸、絵画、茶の湯道具、

茶碗等は二度と目にする事はできなくなった。

皮肉な事に移送困難で大森の蔵に残した、応接間の<
虎皮>や

<大きな熊皮>の敷物など、大・重・厚ものは無事だった。

『開運なんでも鑑定団』を視る度に、「あ~あ」である。

                   

三養荘へ向かった。三菱、岩崎家の別荘である。

楽しい話ではない。昭和21年の晩秋、お見舞いにであった。

この四月、極東国際軍事裁判が始まった。場所は市ヶ谷の、旧

陸軍士官学校講堂である。

A級戦犯28名。その中のお一人(軍人ではない)の奥様が、心

配とお悲しみの為と思う、心労で倒られてしまった。

岩崎家の別荘「三養荘」は、十余棟の離れが広い敷地内に点

在していたが、その内の一棟に伏せて居られた。

食べ物も咽喉に通らない。何をお見舞いにお持ちしたらよいの

やら栄養のあるものはと考えても残念ながら日本国中が

総て飢餓状態。伊豆西海岸へ行けば魚が手に入っただろうか

確信が持てない。やっと求めた苺で少量のジャムを作ったのが

精一杯だった。

通い慣れた二休荘から古奈への道、三養荘の手前に肉屋さん

があることは知っていた。もしやと思い寄ってみた。

案の定何も無い。牛も、豚も、鶏も無いのが当然だ。よく見ると

雀の丸焼きがあった。こんなもの召し上がった事など有り得ない

と思ったが、世間知らずの少年は「これだ」と飛びついた。

あの時、薄っすらと涙を滲ませながらも微笑んでくださった顔は

永久に忘れる事ができない。

A級裁判は、絞首刑7名。終身刑16名。有期禁固2名。判決前

死亡と訴追免除計3名で、奥様は最悪の事態は免れる結果とな

られた。

絞首刑後、横浜の久保山で火葬された方々の遺骨は、米軍の

厳しい管理下で東京湾に撒骨されたとか。火葬場で住職らが米

軍監視の隙を狙って、苦労して灰を集めたとかの話は色々聞い

たが、今は遠い昔の物語になってしまいました。

私の伊豆長岡の世界は終焉した。私が知っている三養荘 は、

この最初の画像に代表される「寂び」そのものである。

営業を始めて以来、その姿は大きな変動を見せた。離れの数も

三倍近く増え、華美の世界、贅沢な空間となった。

営業上当然な事と思う。

だからこそ私のみが知る、貴重な古くて良き、静寂な三養荘が

ある。私は青春時代のよき思い出を大切に抱いていきたい。

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風雲急(終戦前)

2007-08-21 15:41:21 | 思い出

昭和19年空襲は激しくなり、風雲急を告げる空気を実感する

ようになった。隣組の防空訓練や、歩道に避難用防空壕を掘る

共同作業が続いた。

業者に発注し、中庭に3坪ほどの防空壕工事を施しました。

寝具、医薬品、ラジオ、消火器等も備えました。

ある日突然、軍刀を下げたいかめしい憲兵隊の将校がやって

来た。

オールウエーブラジオで、米軍の宣伝放送を傍受していないか

につてである。短波の件だったと思います、問題なしでした。

軍は敵の情報戦に凄く神経質。戦況も悪化している証左であろ

う。このラジオ、当時レアもので間違いないが、設置を何処でど

う調べて来たんだろうと不気味に思った。

どのようなリストを持っているのか興味はあった、と同時に流石

憲兵隊と変な所で感心もした。

この非常時に、お師匠さんが来て謡曲のおさらい、また小鼓、

笛の稽古で響きを立てて大丈夫かの懸念をもっていた。

特高警察はなどについても大いに心配もした。周囲は大きな

木々、塀に囲まれたお屋敷ばかりで、音はそうそう洩れないとは

思ったが?????

国鉄の中・長距離列車はダイヤ本数も減り、利用について制

限が加わった。

各駅の乗車券発券数を一定の数に絞ったのでしょうか

朝、営業が始まる始発電車の時刻に駅に行く。葉書大の用紙だ

ったと思うが乗車日、行き先、乗車目的などを記入申請し乗車

券を確保する。早い者勝ちで遅く行ってはその日の分は終わっ

ているのである。

国内の移動も不自由になってきました。

山紫水明の郷里を走る
<御殿場線>も、遂に複線からの単線化

を余儀なくされました。

小さい頃は東海道本線であり、天皇陛下行幸の際は、お召し列

車が菊のご紋章を輝かせて通過されたし、特急ツバメ号が二両

のD51に牽引され疾駆する勇姿を見て育ちました。

長期戦で資源が無くなり、山口県に新線敷設の為レールを移し

たそうです。御殿場線は文字通りのローカル線になりました。

登校時、品川駅で西の方へ移動する列車を待つ為、整列する

兵士をよく見かけました。

そこには以前とは異なる風景がありました。

今までは、軍服、背嚢、水筒(金属製)、軍靴総てが整っていま

した。

それが、竹筒一節ぶんの水筒を肩に、もう一方の肩には背嚢で

はなく雑嚢(布製)、軍靴も皮製の編み上げではなくなっていた

ように記憶しています。お兄さんのような兵隊さんは影をひそめ

応召兵のおじさんに変わっていました。

中学生達は、何かを感じていた筈です。しかし口に出す事はタブ

ーです。「非国民」と非難される筈です。

ラジオ、新聞は相変わらず「大本営発表」をガナリ立てていまし

た。

                           

一番恐れたのは空襲の罹災でした。伊豆の二休荘へ毎週土

曜の午後行くことになりました。掛軸、絵画の疎開の為です。

桐箱6箱を束ねたのを二つ、計12本を運ぶのが精一杯でした。

車内持込の荷物には、個数、サイズの制限があったと思いま

す。
何回も苦労して運びましたが、結局は徒労に帰しました。

大森には、鉄筋コンクリート三階建ての蔵が座敷と直結、頑強

な鉄扉がガードしていました。戦災も受けませんでした。

まさか     と思われるような出来事を、戦後の話の中で

お話させて頂きます。

 

 






 

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伊豆長岡の「二休荘」

2007-08-19 18:55:03 | 思い出

中学生時代の伊豆長岡温泉は、静かで、しっとり感のある温泉

町でした。

東海道本線<三島駅>でいずっぱこの駿豆電車に乗り換えます

修善寺まで単線の、のんびりのローカル線です。

いずっぱことは、伊豆箱根鉄道のこと。余談ですが、昔は現在      のごてんば線、下土狩駅が三島駅と呼ばれていました。
丹那トンネルが開通、現在の三島駅が開業しました)

伊豆長岡駅から温泉場行きのバスに乗る。戦時中でガソリンが

ないので木炭車です。修善寺街道を突っ切り、狩野川に架かる

千歳橋まではごく緩い登り勾配があり、ローカルバスは静々と

動いて行きました。橋を渡り終わると左右は見渡す限り水田で、

ポツン、ポツンと小さな小屋が点在していました。狩野川から灌

漑用の水を汲み上げるポンプ小屋です。

砂利道を土埃をあげながらバスは小学校前。水車小屋の横を

通ると、小さな小山に抱かれた所に二休荘がありました。

母屋、離れ、湯殿の三棟は藁葺き屋根でシック。純日本調で映

画のロケにも使われた美しい庭、そこには築山と可愛い滝、鯉

の泳ぐ池もありました。

温泉は勿論自家泉、御影石の湯船に溢れた湯は、淡いエメラル

ド。女性がお喜びになるのではないでしょうか!!!肌がすべ

すべ、ツルツルする泉質でした。

冬休み、夏休みの思い出は勿論、大きな出来事もありました。

長岡の話は次回にと考えております。




 

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涼しくて 快適

2007-08-18 13:12:33 | スポーツジム
連日30度~31度の真夏日で、エアコンのお世話になったが、

今日はで快適、扇風機で丁度良い。

パソコンを見ると本日の最高気温は28度となっている。

エアコンの設定は、体感温度28度に設定が常なので、天然ク

ーラーで寛げるということで、大変ありがたい。

一汗かこうとジムへ。余りやる気もないのでラウンジでトマト・

ジュース、ソルト補給を忘れずに少々。

40分、距離は4.5km。脚部が温まったのでスクワット

負荷は70kg × 10が1セット目、3セット目。80kg × 10 を2

セット目にいれた。

アキレス腱、脹脛、大腿部筋トレは で 各15回を3セット。
①                 ②
 

帰宅すると、宅急便が届いていた。佐川急便の女性で先日も、

霧島の水を届けてくれた人だ。「重いものを運んでいただいて、

有難うございました」と、手伝った私に礼を言ってくれた。

この地区を担当する営業所の方らしい。こちらもお世話になって

いるのだから「お互い様です」とお応えした。

ところで、脳を常に刺激しないといけないようだ。忘れる事が多

い。頭の体操が是非とも必要のようです。

そこへもってきて、字が読めません。いろいろやっていてタグな

るものにお手上げ、つまりタグ文盲(モンモウ)なのです。

資料を集めたり、goo事務局からの助言を受け勉強しています

さんの助言で求めたソフトが今日届いたわけです。

涼しい秋ともなれば、頭への吸い込み、浸透が少しはましにな

るでしょうか。甚だ怪しいものです。

 

    

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灼熱の古都

2007-08-17 13:00:00 | 旅行
十六日は、「京都五山送り火」の日。京の都の夏は暑い。

四十年の昔、大津の皇子山で現地の友人とゴルフをしたことが

ありますが、何故この盆休みにと暑さに懲り懲りした経験があり

ます。未だ三十代で元気一杯だったので、無謀とも思える約束

をしたのでしょう。夕刻這々の体でタクシーに乗り、京都国際ホ

テルに到着した。ホテルでは椅子席と和室のどちらかで食事が

出来、両者の中間を仕切る舞台では、舞妓さんの踊りがあり、

京都風情を満喫する事ができた。

大阪に単身赴任してからは、京都観光は専ら観光バスにお任

せ、精進料理つきの寺社巡りを何回か楽しんだものです。

東京から友人が来た時は、「八坂」さんの近く、一見さんお断り

の料理屋で接待、東京時代のご恩返しに努めた。

吉川 英治の「新・平家物語」を読んで以来、私は京都に強く惹き

つけられた気がします。

郊外をよくドライブしましたが、大原の三千院。寂光院。八瀬の

かまぶろへ行くのが好きでした。

それが嵩じて、バス3台にパートさんを乗せ、八瀬の料亭で忘年

静かな里でカラオケ大会。熟年時代の思

い出てんこ盛りの京都です。

秘めたる追憶に浸りながら(意味深)NHKの大文字焼き実況放

映を見ました。もう京都に行く機会はなかろうかと思っています。

NHKの映像を撮ってみました。

火床は順不同で、右写真とは連動していません。
  

 

 

       
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黙祷二回の八月十五日

2007-08-15 14:25:43 | 慶弔

今日八月十五日は、物凄く重みのある大切な日と思います。

国、国民総てが等しく運命の転換を迫られた日。苦難へのスタ

ートの日でした。

膨大な数にのぼる尊い命を失い、富を失い国は敗れました。

物心両面に大きな大きな負を背負い、呆然自失、無思考状態に

陥りました。今までは一体なんだったのか総てが崩壊した。

旧制中学四年生の夏でした。今日のように暑い日でした。

子供ながらにも「これから日本はどうなるんだろう」それだけが

頭の中を駆け巡った事を思い出します。

その夜から空襲に備え、洋服のまま就寝する必要はなくなり、

その点だけはホッとしました。何しろ平均3~4時間しか眠ること

しかできない毎日でしたから・・・睡眠不足と疲労の極だった。

食べ盛りの年頃です。空腹には参りました。国鉄職員の従兄弟

「あっちゃん」が、郷里の小山から東京駅の改札係として通勤し

ており、ふかした<さつま芋>や<じゃが芋>を毎日数個づつ持っ

てきてくれました。今でも頭が上がりません。

着るものも学生服だけ、洋服屋へ毛布を持って行き、ジャンパー

にしてもらった事。革靴を買ったら、雨の日に靴底がグニャッと

柔らかく崩れ、溶けてきたことも経験。なんと厚紙を圧搾したイン

チキ品でした。笑えぬ話はまだまだ沢山ありました。

日記などつける余裕はありませんでした。当時ブログがあり、デ

ジカメがあったら!!生々しい情報がお届けできたでしょうね。

戦争末期、敗戦直後の話は折を見てまたご披露します。

正午には戦没者三百十万の霊に黙祷を捧げました。

同年代のひめゆりの塔に眠る彼女らの最後を想うと、涙が流

れてきます。私の涙腺も弱くなりました。

今日は、義母「清月院 夏山妙澄大姉」の命日です。

平成五年の今日、正午数分過ぎに他界いたしました。

正午に次いで、更めてもう一度黙祷し冥福を祈りました。

  

  





 

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猛暑のお盆

2007-08-13 22:07:23 | 慶弔
義兄の新盆で東京、稲城市へ出かけた。

六月に通夜、告別式。七月末には四十九日。今日は新盆。

弟の四十九日と新盆を合わせると、今年の法事は五回になる。

お互い<年>を重ねると不幸が多くなり悲しい事だが、これが人

生と言うものか、如何とも禦し難くどうする事もできない。

早くもUターンが始まったと言うが、午前10時現在は100kmで

走れたし、海老名のサービスエリアも90%ぐらいの駐車率、ま

あまあ気にする程のことはなかった。本番は矢張り14日

海老名に寄って、
いでぼくのソフトクリームを食べるため休憩。

以前日本平に行った帰りに、富士川のサービスエリアで、いで

ぼく
のアイスクリームを食べた時からのファン!!!素通りがで

きなくなってしまった。是非皆様に自信を持ってお奨めします。

ソフトクリームは、濃厚な方が390円。あっさりの方は350円

です。一度ご賞味ください。

今日も、暑い一日でした。府中街道は読売CC、多磨CCへ行く

時によく通った道です。昔は梨畑も多く緑を眺めながらのドライブ

でしたが、今はコンクリートの中を通過する印象。

稲城の最高気温は33度。平塚は31度でした。そう言えばここ3

日間の平塚は30度、31度、31度と連続の真夏日。例年の真

夏日は5~6回のようですが、この3日でもうその半数に達して

しまいました。矢張り地球温暖化のせいなのでしょうか


サービスエリアでは、わんこちゃんがグロッキーでご主人の言う

事を聞かず、へたり込んでいました。

   わんこ!!!グロッキー
 
  いでぼくのアイスクリーム売り場          駐車場には未だ若干の余裕が
  

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一寸先は闇

2007-08-12 18:22:54 | 仕事

大阪での単身赴任は、昭和59年の10月からでした。

新しい会社であり、仕事は山ほどありました。赴任前から、横浜
の自宅で組織表を作ったり、職務分掌規定の草案を練ったりで
睡眠時間も少ない生活でした。

準備期間を利用し、構内に私の居住する1Dk、バス、トイレを完
成させました。マンションからの通勤では、当面の繁忙が処理で
きないと考え、構内での生活を選択したのです。

翌年7月25日、予期せぬ入院と言う事態を招いてしまった。
出勤に備えシャワーを浴び、シェーバーをと思い左手をサッと伸
ばした時、左胸で音がしたような気がし、同時に呼吸が苦しく
なった。変だな~と気にしながら仕事にも就いたのだが、肩で息
をしている姿を見て社員が騒ぎ出した。

「大丈夫、大丈夫」というのに、救急車を呼んでしまった。
診断は「気胸」レントゲンを見ると左肺は握りこぶし大に収縮し
ていた。左胸側に穴を開け管を通して治療開始、退院したのは
12日後だった。

皆の勧めで横浜へ帰ったが、女房殿孝行の為また、傷口にも良いだろうと、箱根の芦之湯温泉
「きのくにや」さんで四泊の静養をし、8月10日横浜へ戻りました。

その間、会社からは電話で業務報告を受けていました。
13日から会社は夏季休暇、盆休みでもある。前々から工場長
は娘さんがお孫さんと里帰りしてくるのを楽しみにしていた。

次長も、郷里香川で一人待っているお母さんの所へ行くと、これ
また私に語っていた。

夏休みを利用してメンテナンスや、納入されるオートチェッカーの
試運転等が、予定されており立会いは私がやると決めていた。

工場長は家にいなさい。次長には親孝行をして来なさいと約束
していた。その為休みに入る前日の12日に、羽田発日航123
便で帰阪の予定でした。

「待てよ。1日早く帰って書類に目を通していた方が良いかも」
これが私の運命を大きく大きく変えることになろうとは夢想だに
しなかったことです。

羽田発18時の日航123便は、大阪、神戸に単身赴任のビジネ
スマンには人気が有り、便利な足でした。これで帰阪すると8時
前には家に帰ることが出来ます。

急いで日航の友人に電話、何とか1枚のチケットを確保出来た
のも幸運でした。

その翌12日の月曜日、悲しいあの日航機墜落事故がありまし
た。予定では私もそこにいたはずです。

今日も、女房殿としんみり話し合いました。本当なら命日だった
なあ・・・と。

毎年この日が訪れると、520人のご冥福を心からお祈りせずに
はおられません。私だけ命ながらえて・・・のような気さえして複
雑な一日です。

 

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『 嘘 』

2007-08-10 22:30:39 | 学校
昨日は長崎に原爆を落とされた日でした。平和祈念式典の中継

をご覧になった方々は沢山居られたと思います。

当時六才だった少年が、蝉取りに連れて行った三才の妹と、必

死になって逃げ込んだ小屋の中で被爆。

大人たちは、爆風で腹に竹が刺さったままの血まみれの少年

が、親を呼んで泣き叫ぶ妹を背負い,よろめき歩く姿を見て、「こ

の子はもう助かるまい」と・・・。

その正林さんと仰る方が、「平和の誓い」をお述べになられた。

一言一句が魂の塊になって、胸に突き刺さった。迫力がありまし

た。説得力がありました。「俺は、これだけは言いたい」確固たる

中心思想をもった話の強さに、私は感銘を受けた。

それに比べ、政治家の発言は正に蝉の抜け殻的。赤城氏を代

表とする駄弁の数々、嘘には心の発露が伴わず、頭と舌の操作

に因る音も音、単なる騒音で終わってしまうからだろう。

L出版社「日本に蔓延る嘘の研究」の広告が目に入った。

コムスン、加ト吉、NOVA、テレビ、ブックオフ、選挙報道等々が

並列で印刷されていた。「はは~ん」と思ったが、購入するまで

には至らなかった。だから内容は詳しく知らないが、結論は分か

るような気がする。

上記だけではない、不二家をはじめ信用失墜で、破滅又は大損

害を計上した企業は数え切れない。帰一するものそれは「嘘」だ

人に信用されてこそ、商売は伸びる。だから信じられる者と書い

て「儲ける」と言う。この喩え話は誰でもが知るところでしょう。

「嘘」は言わぬ事だ。「しめしめ、うまく行ったぞ」とほくそ笑んでも

天に唾しているようなもの。その報いは必ず自分に戻り降りか

かってくる。

発言前に、嘘はないかと心に通してみる、そして心で翻訳してみ

ることだ。

心が伴った強いコトバで、相手の心にしみ込む強い話ができる

ようになると思います。

(今日は、中学で本ページに類似の話を一時間ほどしてきまし

 た。皆、黒い顔をしていました)

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<ブログ>スタートから四ヵ月

2007-08-09 16:42:52 | 楽しむ
4月10日に始めたブログも、今日で122日目の満4ヵ月です。  

122日中、101回更新。失敗も多い期間でした。

明日から5ヵ月目に突入しますが、未だ未だ新米さんです。

最初一番苦労したのは写真全般の扱い方。やり直し、やり直し

で3日間程は苦労しました。今は懐かしい思い出です。

現役で多忙を極める甥は東奔西走タフに動き回っています

この間東北と思ったら、その直後に上海。昨日のブログを見ると

何やら今度は広州空港に着陸の写真。東莞とかへ出張らし

い。

行動半径が広いのでスケールも大きい。ニュース性、社会性、

啓蒙性に富んでいて、内容も魅力的なブログを展開中です。

私の方は相変わらず稚拙なブログですが、パソコンの神様と言

ってよい「さん」の存在があります。教えを乞い日進月歩の歩

みを続けたいと思っています。

閲覧数とやらも、2ヵ月目にMAX 360の日がありました。

ベテランの皆さんからすればお笑いの域かと思います。

私にとっては、大きな励ましで有りがたく感謝しております。

これからも謙虚にコツコツ、媚びず、臆せずわが道を歩みたい。



それには、楽しむ心を持つ事が大切と感じております。

 スタートから4ヵ月経過のアクセス状況。ご笑覧ください。まだまだ力不足です。
  









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